浄土宗の開祖、法然上人がお生まれになった場所「誕生寺」は、岡山の北部、美作というところにあります。
もちろん元々お寺があったのではなく、法然上人の「誕生の地」だということで、お弟子の熊谷次郎直実という方が建てたお寺です。
法然上人は武士の子です。
お父さまは押領使(おうりょうし)というお役人です。
まずここで中世の政治システムについて、その一端を申し上げます。
有名な大化の改新の後、すべての土地と人民を国家のものとする「公地公民制」、や戸籍を作って民衆に土地を割り当てて耕させ、死後その土地を返させるという「班田収授法」が打ち出されました。
そして律令と呼ばれる法律が制定され、6歳以上の男女とも土地が与えられて、その収穫の一部を税として地方の役所に納めること、それ以外にも成人男性には重い税や労役・兵役が課せられました。
しかしパソコンもない時代に全国的な戸籍を作って土地の税を管理する、などということには無理があります。
人々は重い負担に耐えきれずに戸籍を偽って男性が女性であると届けたり、逃げ出すなど税逃れをします。
そこで政府は田んぼを開墾した者は三代にわたってその土地の私有を認める、という画期的な法律(三世一身の法)を制定しました。
人々は最初、先を争って開拓しましたが、当然三代目に期限が迫ると土地の耕作を放棄してしまいます。
財政難に陥った政府は、有力農民を指定して土地を耕させて、そこから税をとる、という方法に変えてきました。
そうなると、政府の様々な役所、皇族、貴族がそれぞれ有力農民を指定して田んぼを経営するようになり、班田収授法というものが有名無実化していきます。
そこでいよいよ政府は土地の私有を公認します(墾田永年私財法)。
しかし実際には民衆が土地を所有することは少なく、貴族や有力な寺社が中心となって私有地を増やしていきます。
これが荘園の始まりです。
当初は荘園からの税収が多く入りました。
でもそのうち色々な理由をつけて免税の権利を得る者が増えました。
結果、朝廷の税収が減少するだけでなく、農民が耕すための口分田の土地も減っていきました。
そして土地制度は崩壊していきます。
危機感をもった朝廷は、田地の管理を有力農民に請け負わせて、地方役員の国司が徴税できるようにシステムを変えました。
任国に赴任する国司のトップを、受領といいます。
朝廷から国の支配を丸投げされた受領は利権争いに走ります。
その徴税は相当に厳しく、土地の持ち主は管理権を所持したまま、土地の名義を有力貴族や寺社に寄進することで税金逃れをしました。
有力貴族から保護を受けた農民の力も強まってきて、国司から荘園を守るために武装を始めました。
これが後に武士団となっていきます。
一方、皇族は皇位継承権を失った皇子たちに氏(うじ)を与えて臣下にします。
桓武天皇が皇子たちに「平」の氏を与えたのが「桓武平氏」、清和天皇が皇子たちに「源」の氏を与えたのが「清和源氏」です。
藤原氏などの貴族も同様に分家していき、名前は藤原氏でも高いくらいに就けない者が増えていきます。
そのような没落した貴族が生計を立てるには地方へ下るしかありません。
そうやって地方へ下る時に天皇から「国司」の肩書きをもらうのです。
法然上人のお父さま、漆間時国(うるまのときくに)公の役職「押領使」は盗賊などを鎮圧するお役です。
国司が兼任することもありますが、更に下っ端の貴族が国司に任命されて就いたり、在地勢力が就くこともありました。
時国公は美作国久米南条稲岡荘(みまさかのくに、くめ、なんじょう、いなおかのしょう)というところの押領使でした。
法然上人の伝記には時国公の先祖も皇族の傍系と記されているものもあります。
そのように朝廷の支配が及ばない荘園と、国司の私物と化した公領が両立する土地体系ができあがっていくのです。
まんが『法然さま』
高橋良和・文
小西恒光・画