2020年5月21日木曜日

法然上人のご生涯⑥(南都遊学)

死にもの狂いで教えを求められた法然上人は、24歳の時に一度比叡山を下りて、嵐山の
釈迦堂にお参りになります。

清涼寺というお寺で現在は浄土宗に所属します。

釈迦堂におまつりされているお釈迦さまのお像は、昭和29年の調査で、胎内に布で五臓六腑まで作られて収められていることがわかりました。

そのお像は法然上人当時から、生身(しょうしん)のお釈迦さま、本物のお釈迦さまとして多くの人々から崇められていました。

法然上人は必死になって、「お釈迦さま、お釈迦さまが説かれたみ教えにこの私が救われる教えがきっとあるはずです。
どうか私にそれをお示し下さい。」と願われたことでしょう。

法然上人は七日間毎日すがるような思いで釈迦堂にお参りされて祈願されます。

ご自分自身が救われる教えを求めて参籠なさっていましたが、ふと周りを見ると、他にも悲壮な面持ちで拝む人々が目に入ります。

釈迦堂には貧しい者、お金持ち、男、女、身分や地位に関係なくたくさんの人が法然上人と同じように救いを求めてお参りしていました。

「みんな救いを求めている」

法然上人はそれを見て大いに刺激されたことでしょう。

それから奈良や京都の偉いお坊さんを順番に訪ねて行かれます。

比叡山は天台宗ですが、奈良には南都の宗派があります。

華厳宗や法相宗など、南都の偉いお坊さんに会い、教えを請われます。

頭脳明晰で知識も豊富な法然上人はすぐに教え自体は理解されます。

教えて下さった偉いお坊さん以上に理解を深められる法然上人ですが、しかし「そのような教えでは私は救われない」とがっかりとして去って行かれます。

多くのお坊さんに教えを受けたけれども、本当に私が救われる教えはないと失意の内に比叡山の黒谷へと戻って行かれます。

比叡山に戻った法然上人は今まで以上に修行に打ち込まれます。



『法然』中里介山著