聖光上人がお生まれになると同時にお母さまがお亡くなりになったことを先にお伝えしました。(聖光上人のご生涯①)https://www.blogger.com/blog/post/edit/2937894655821144415/6366219382260676008
聖光上人は29歳で比叡山から九州に帰郷されます。
そして故郷の誕生の地に吉祥寺というお寺を建てられました。
本尊の「腹帯阿弥陀如来」と呼ばれる仏さまは、お産のために
亡くなったお母さまへの報恩のために自ら刻まれたお像です。
その翌年には、当時九州の仏教を学ぶ中心であった油山という山の、学頭になられます。
博多の南西6キロの所にあるのですが、当時は東西にそれぞれ360もの
お堂があったそうです。
九州における仏道修行の中心地である油山で、仏教の学校の
校長先生になられたのが御年30歳の時です。
いかに秀でておられたかがわかります。
聖光上人を慕って、多くの学僧が集まったといいます。
32歳の秋、聖光上人は若い頃学んだ明星寺へ久しぶりに訪ねました。
当時はたくさんのお堂があり、修行僧も多くおられたようです。
数年前に友人の案内で明星寺を訪れました。
説明板にはかつても隆盛が紹介されていました。
しかし今は人の気配もなく、ひっそりとたたずんでいました。
時代を聖光上人当時に戻します。
聖光上人には異母弟がおられ、当時明星寺で修行なさっていました。
お名前を三明房さまとおっしゃいます。
久しぶりに弟と会って、積もる話をしていたその時、突然
三明房さまは顔面蒼白になり、苦しみだしました。
もがき、あえいで生死を彷徨います。
了慧道光上人の『聖光上人傳』には「申より戌に至りて蘇生す」
と書かれていますので、午後四時頃に苦しみだし、
八時頃まで意識不明状態であったということです。
よく一命を取り留められたものです。
「忽ち眼前の無常に驚き、速やかに身後の浮沈を思ふ」と記されています。
「人の生き死にはいつどうなるかわからない。
そうだ!我が身もどうなるかわからないのだ!」
ニュースを観て、死を客観的にみることはあるかもしれません。
でもそれは他人事の域を出ません。
しかし死と隣り合わせなのは実は「この私」です。
聖光上人は「一人称の死」をはっきりと自覚されたのです。
聖光上人は大変ショックを受けられます。
さっきまで楽しく話をしていた、自分よりも年の若い、
元気であった弟が突然に苦しみ出したかと思うと、
生死を彷徨っている現場を目の当たりにしたときには
「死」を我がこととして自覚せざるを得ません。
聖光上人ご自身は、体格もしっかりとしておられます。
体力も知力も自信満々であったことでしょう。
しかし目の前の現実を見たときにはそんな自信も虚しく崩れ去ります。
「いつ死ぬかも知れない身とはいえ、命というのはこんなに儚いものなのか。
これを無常というのであるか。
何と恐ろしいことであろうか」
このように思われたことでしょう。
聖光上人はお生まれになると同時にお母さまを失われました。
そして幼い頃から仏道修行をしてこられました。
ですから「死」についてはずっと意識されてきたことでしょう。
しかし実際に目の前でつい先ほどまで元気で話していた
三明房さまの苦しむ姿を見た時に、
これ以上無い恐怖を感じられたのです。
私達の誰もが「いつか死ぬ」ということは知っています。
でもそれが本当に今来るかも知れないとまでは思っていません。
もし「今」死ぬならば、お金儲けなんて必要ないですね。
どんなに高級な車に乗っていても仕方ないですね。
もっと大事なことを今しなくてはなりません。
そうです。
今自分の命が尽きても、間違いなく極楽浄土へ往けるように
お念仏(なむあみだぶつと称えること)を称えるしかないのです。
『聖光上人御法語』前後編
大本山善導寺刊