2020年6月10日水曜日

良忠上人のご生涯⑩(鎌倉から京都へ、そしてご往生)

良忠上人は鎌倉へ向かう途中、先に在阿(ざいあ)さまが訪ねた

道遍(どうへん)さまにお会いします。

道遍(どうへん)さまは法然上人の直弟子です。

法然上人のお言葉やお人柄もお聞きになったことでしょう。

教えに関して、あるいは教団のことなども相談なさったのかもしれません。

良忠上人は鎌倉武士北条朝直(ほうじょうともなお)公が

建立した悟真寺(ごしんじ)に招かれました。

このお寺は後に蓮華寺と名前を変え、

さらに光明寺と寺名を改めて、材木座へと移りました。

それが今の大本山光明寺です。

そこで良忠上人にもたくさんのお弟子がおられました。

中でも良暁(りょうぎょう)上人、性心(しょうしん)上人、

尊観(そんかん)上人、道光(どうこう)上人、

然空(ねんくう)上人、慈心(じしん)上人の六名は

学徳共に勝れ各地で教えを広めました。

然空(ねんくう)上人と慈心(じしん)上人は京都で布教なさっていました。

お二人からの願いに応えて良忠上人は78歳で再び上洛し、

さらには88歳で鎌倉へ帰って来られるのです。

その間にも資料を吟味し講義を重ね、

多くの著述をなされたといいます。

何というバイタリティーでしょうか。

驚くばかりです。

しかしご自身そう先が長くないと感じられたのでしょう。

お弟子の寂恵良暁(じゃくえりょうぎょう)上人に

付法状(ふほうじょう)と九条袈裟(くじょうげさ)、

松蔭の硯(まつかげのすずり)、

法然上人・聖光上人・良忠上人三代にわたって伝わる

『阿弥陀経』一巻を授与されます。

平家物語で平重衡(たいらのしげひら)公が

東大寺を焼き討ちした罪で処刑される前、

法然上人に会い念仏の教えを受けます。

それを喜んだ重衡(しげひら)公より法然上人に贈られたのが「松蔭の硯」です。

それで安心なさったのでしょう。

お弟子の了慧道光(りょうえどうこう)上人の

『然阿上人傳』(ねんなしょうにんでん)には

念仏の音声殊に鮮やかにして声々相い続き、

亥の刻に至りて止み、面容に笑みを含み、禅定に入るが如く、

湛然として逝く。時に世齢八十九、法臘七十四

とあります。

「法臘」(ほうろう)というのは出家してからの年数です。

「お顔に笑みを含んで、心静かに往生された」ということです。

弘安十年(1289)7月6日でありました。

ご遺骨は鎌倉光明寺の天照山にあるお墓に埋葬されています。

                (以上 「良忠上人のご生涯」の項終わる)

『浄土宗史』
浄土宗


参考文献

○『聖光と良忠』梶村昇   

 梶村昇先生は令和2年2月15日満95歳で西方極楽浄土へ往生なさいました。

 かなりの部分を本書に頼りました。

 これまでのご業績に敬意を表し、

 ご教導に感謝を込めて念仏回向いたします。

                      南無阿弥陀仏

○『然阿上人傳』了慧道光

○『近世浄土宗教団の足跡』宇高良哲

○『浄土宗史』成田俊治・伊藤唯真・平祐史

○『勢観房源智』梶村昇

○『勢観房源智上人』「源智上人と阿弥陀仏像造立願文」伊藤唯真