「無常」「無我」「苦」というのは、
認めたいかどうかは別にしても真理です。
考えるのが嫌でも常にすべてのものは変化しています。
分かっているつもりでもそれを本当の意味で
理解できないことを「無明(むみょう)」といいます。
「道理に」「明るく無い」から
「無明(むみょう)」です。
これは煩悩の根本です。
浄土宗のお念仏の教えは
その煩悩をどうすることもできない
「凡夫(ぼんぶ)」のために説かれた教えなのです。
阿弥陀さまが、「生きている限り老いていくのに、
人々は老いたくない老いたくないと苦しんでいる。
生きていれば病にもなるのに
病気になりたくない、なりたくないと
無常を認められず苦しんでいる。
いつか必ず死に、愛する人とも
別れなくてはならないのに、
死にたくない、死んで欲しくない、と苦しんでいる。
真理に逆らって、どうにもならないことを認められず、
苦しんでいる者を救うにはどうしたらよいか?」
と悩まれた末に極楽浄土という世界を作って、
南無阿弥陀仏と唱える者を救うと誓ってくださいました。
他者が苦しむ姿は「他人事(ひとごと)」
ではないのです。
自分の身に降りかかったら、きっと同じように
苦しむことでしょう。
無常・無我を認められず「苦」を背負うことでしょう。
そのような「無明(むみょう)」の私たちに
「我が名を呼ぶ者を救う」と手を差し伸べてくださった、
阿弥陀仏の本願を本当にありがたいと思い、
皆さまにもお念仏をお勧めするのです。
『法然 イエスの面影をしのばせる人』
井上洋治