2021年5月19日水曜日

仏説阿弥陀経㉒

 (本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土(ごくらっこくど)には、


衆生(しゅじょう)生ずる者は、


皆これ阿鞞跋致(あびばっち)なり。


その中に多く一生補処(いっしょうふしょ)あり。


その数、甚だ多し。


これ算数(さんじゅ)の能(よ)く知る所にあらず。


ただ、無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)


をもって説くべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また舎利弗よ、極楽に生まれる人々は、


みんな阿鞞跋致(あびばっち)の境地に至る。


その中にはは多く一生補処(いっしょうふしょ)の


菩薩がいる。


その人数はとても多く、数えきることができない。


限りない時間をかけねば説くことはできない。


※阿鞞跋致(あびばっち)

  不退転の境地。菩薩が仏になることが決定して、二度と退転しない位。


※一生補処(いっしょうふしょ)

  菩薩の最高位。次の生では必ず仏の位を得ることができる。






(解説)


政治家や力士が


「不退転の決意で精進します」と


おっしゃるのを聞くことがあります。


「不退転」は仏教用語で、


「仏道修行が進むばかりで退くことがない」


という意味です。


私たちの世界には数々の障害があって、


修行をするにも全く進みません。


私たちの中には、欲や腹立ちの心、自己中心的な心、


怠け心、疑い心など多くの煩悩が詰まっています。


また、外部からも様々な誘惑があります。


内からも外からも修行が妨害される環境の中で


私たちは暮らしています。


極楽へ往けば、私たちの心が調い、また周りの方々も


尊い方ばかりで、修行が退転することがないのです。


ある仏教学者の先生は「極楽は修行が極めてラクだから


極楽というのです」とおっしゃっていました。


自分も凡夫、周りもみんな凡夫という世界に住む者にとっては、


「そんな清い人ばかりの世界は窮屈だ」と


思ってしまうかもしれません。


しかしそうではありません。


「修行がラク」であり、「あらゆる苦しみ・悩み・痛み


がなく、ラクだけを受ける世界」だから極楽というのです。


窮屈な世界を極楽と名づけることはないでしょう。


煩悩だらけの私たちの想像を超えた


「究極のラク」の世界だと受け止めればよいでしょう。