(本文)
また舎利弗(しゃりほつ)、
極楽国土(ごくらっこくど)には、
衆生(しゅじょう)生ずる者は、
皆これ阿鞞跋致(あびばっち)なり。
その中に多く一生補処(いっしょうふしょ)あり。
その数、甚だ多し。
これ算数(さんじゅ)の能(よ)く知る所にあらず。
ただ、無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)
をもって説くべし。
(現代語訳)
〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉
「また舎利弗よ、極楽に生まれる人々は、
みんな阿鞞跋致(あびばっち)の境地に至る。
その中にはは多く一生補処(いっしょうふしょ)の
菩薩がいる。
その人数はとても多く、数えきることができない。
限りない時間をかけねば説くことはできない。
※阿鞞跋致(あびばっち)
不退転の境地。菩薩が仏になることが決定して、二度と退転しない位。
※一生補処(いっしょうふしょ)
菩薩の最高位。次の生では必ず仏の位を得ることができる。
(解説)
政治家や力士が
「不退転の決意で精進します」と
おっしゃるのを聞くことがあります。
「不退転」は仏教用語で、
「仏道修行が進むばかりで退くことがない」
という意味です。
私たちの世界には数々の障害があって、
修行をするにも全く進みません。
私たちの中には、欲や腹立ちの心、自己中心的な心、
怠け心、疑い心など多くの煩悩が詰まっています。
また、外部からも様々な誘惑があります。
内からも外からも修行が妨害される環境の中で
私たちは暮らしています。
極楽へ往けば、私たちの心が調い、また周りの方々も
尊い方ばかりで、修行が退転することがないのです。
ある仏教学者の先生は「極楽は修行が極めてラクだから
極楽というのです」とおっしゃっていました。
自分も凡夫、周りもみんな凡夫という世界に住む者にとっては、
「そんな清い人ばかりの世界は窮屈だ」と
思ってしまうかもしれません。
しかしそうではありません。
「修行がラク」であり、「あらゆる苦しみ・悩み・痛み
がなく、ラクだけを受ける世界」だから極楽というのです。
窮屈な世界を極楽と名づけることはないでしょう。
煩悩だらけの私たちの想像を超えた
「究極のラク」の世界だと受け止めればよいでしょう。