2020年5月19日火曜日

法然上人のご生涯⑧(専修念仏)

基本的に仏教では苦しみ迷いの世界から抜け出すために、覚りを目指して修行をしていきます。

そのプロセスは「戒を守り瞑想修行をして覚りに至る」という「戒・定・慧(かい・じょう・え)」という言葉で表現されます。

しかし法然上人のように、真剣に修行をし自らの中身を見つめたときに、「煩悩を兼ね備えた自分は本当の意味での修行が覚束ない者である」と自覚せざるを得ないのです。

一方一般民衆はどうでしょうか。

そのような難しい修行ができるでしょうか?

煩悩を断ちきることができるでしょうか?

多くの民衆が
「私のような者は到底覚りになど至ることはできない」
「私は救いから見放されている」
と考えていました。

そういう人々に法然上人は
「自分を磨いて覚りに至ることはできないかもしれない。
でも南無阿弥陀仏と仏の名を称えれば、阿弥陀仏が救いに来てくださるのですよ。
自分の力では一歩も覚りに近づくことはできないけれど、阿弥陀仏の力でどんな者も極楽浄土へ救われるのですよ。」
と説かれました。

法然上人は、老いも若きも男も女も金持ちも貧しい人も、どんな立場の人にも区別なくお念仏のみ教えを説いていかれます。

お念仏の教えは「こんな私では救われない」と思って、救われることを諦めていた多くの民衆にあっという間に広がります。

法然上人が説かれる「ただ極楽浄土への往生を願い、阿弥陀仏にすがり、南無阿弥陀仏と念仏を称える」という「専修念仏」の教えは、社会的地位や学問の有無を一切問いません。

ですから天皇、貴族、武士、一般庶民、漁師、陰陽師、遊女、盗人まで、法然上人の信者の層は非常に厚いのです。

そのようにしてお念仏は燎原の火の如く広がっていきました。



『法然上人のお言葉』
元祖大師御法語
総本山知恩院布教師会刊