教えが広まりますと、旧来の宗派は危機感を持ち、浄土宗を批判します。
また、法然上人のお弟子の中でも本当のお念仏の教えを理解せず、
「念仏さえ称えたらどんな悪いことをしても平気なんだ」
などと吹聴する者も現れてまいります。
そのような不穏な空気漂うときに事件が起こります。
最高権力者である後鳥羽上皇が熊野詣で留守の間に、上皇が寵愛する女官、松虫・鈴虫の姉妹が法然上人の弟子、住蓮と安楽の元で出家してしまいます。
姉妹は今、上皇に可愛がられているとはいえ、いつ見限られるかもわからない籠の中の鳥、儚い身です。
世間から漏れ聞こえるところによると、巷では法然上人が説かれる専修念仏の教えは、
「どんな者でも救われる」というではないか。
「私たちも救われるのでしょうか?
一度話を聞いてみたい」
そのような思いもつのっていたことでしょう。
きっと宮廷を抜け出る機会を図っていたことでしょう。
上皇の熊野詣でという、またとないチャンスを逃すわけにはいきません。
二人は手と手を取り合って、宮廷を抜け出し、京都東山鹿ヶ谷へ向かいます。
鹿ヶ谷には、法然上人の直弟子、住蓮さまと安楽さまのお二人が日々「善導大師」の
『往生礼讃』に節をつけ、美しい声で唱えておられるという情報を聞きます。
二人そろってその法会に参加し、極楽浄土の情景を思い浮かべ、魅了されます。
「もう宮廷には戻りたくない。
どうか私たちを出家させてください」
と住蓮さまと安楽さまに懇願します。
住蓮さまと安楽さまはその願いを快く受け取り、姉妹の髪を剃り落とすのです。
それを聞いた後鳥羽上皇は激怒します。
安楽さまは六条河原で、住蓮さまは近江の馬淵で処刑されます。
当時としても、いくら権力者であっても出家者を処刑にすることはまずなかったといいます。
後鳥羽上皇の怒りがいかに大きかったのかを物語ります。
そのように多くの要因が重なって、法然上人はいわばお弟子の不始末の責任をとらされることになりました。
四国の讃岐へ流罪ということになりました。
法然上人御年75歳の時であります。
お弟子の一人は
「お師匠様、今は批判が多いですから、お念仏の教えを広めることはひとまず止めておきましょう。」
と法然上人に提案なさいました。
法然上人は、いつになく厳しい口調で
「何を申すか!私は喩え死刑に処せられてもお念仏のみ教えを伝えるのに口を噤むことはしない!」
とおっしゃいました。
それを聞いて一同涙したと伝えられています。
讃岐への道中、讃岐へ行ってからもも多くの人にお念仏のみ教えを説かれました。
讃岐におられたのはわずか9ヶ月で、ひとまずお許しが出ます。
しかし京都に入ることは許されず、今の箕面の勝尾寺で4年間過ごされます。
洛内に入ることを許された法然上人はすでに御年79歳になっておられました。
今の知恩院の勢至堂というお堂がある所、吉水という土地に入られます。
『図解雑学 法然』
伊藤唯真・監修
山本博子・著