年明けて正月2日から法然上人は、かねがね体調が悪く食が進まなかったところ、更にひどくなって床につかれることが多くなりました。
そんなあるとき、法然上人の一番弟子とも言われる信空上人が法然上人に尋ねられます。
もう法然上人の先が長くないことは誰の目にも明らかです。
「昔から偉いお坊さんには遺跡(ゆいせき)があります。
伝教大師には比叡山がありますし、弘法大師には高野山があります。
しかしお師匠さまは未だ一つのお寺もお建てになっていません。
法然上人ご入滅の後、どこを遺跡とすればよろしいでしょうか?」
教団を守る弟子をまとめて行かねばならない信空上人のお立場で、そのような質問をなさいました。
それにお答えされた法然上人のご返事が素晴らしいのです。
「遺跡を一カ所に決めてしまえば、教えは広まらない。
私の遺跡はあちこちにある。
なぜならば、念仏を広めることが私の生涯の役割であった。
だから念仏の声する所はどんなところであってもみんな私の遺跡と心得よ。」
念仏の声するところすべて法然上人のご遺跡なのです。
大勢がそろってお念仏を唱えることが叶わないときを私たちは経験しています。
しかしあなたがお家で称えられたら、皆さんのお家が法然上人のご遺跡になるのです。
尊いことではありませんか。
同じ月、建暦2年(1212)1月25日法然上人はその80年のご生涯を終え、極楽浄土へと往生されました。
「人々さんざん」(1133年)にお生まれになり、どんな者でも救われるお念仏のみ教えを説かれ、「いちに、いちに」(1212)と極楽浄土へ往生されたと覚えてください。
今その地は知恩院の中、御廟という建物が建ち、法然上人のご遺骨が収められております。
しかしそこだけが法然上人のご遺跡ではありません。
念仏の声するところ、どこもかしこも法然上人のご遺跡だとお示し下さったのです。
皆さんが行くところ行くところでお念仏をお称えになれば、それが法然上人のご遺跡になるのです。
そのような思いで、お念仏をお続け下さいましたら、法然上人の本意に叶うことでしょう。
『法然上人の御影』
総本山知恩院刊
(法然上人のご生涯の項をおわります)