2020年6月12日金曜日

良忠上人のご生涯⑥(源智上人のこと)

聖光上人からすべてを授与された良忠上人は帰郷を申し出ます。

聖光上人も

「津々浦々に浄土の教えを広め、多くの人に念仏を勧めよ」

と快く送り出されます。

聖光上人は立派な跡取りを送り出され、

翌年嘉禎四年(1238)二月二十九日

極楽浄土へ往生されました。

ようやく後継者を見つけてホッとなさったことでしょう。

良忠上人のそこから約10年後、50歳の時に京都で

『選択集』の講義をされるまでの足跡は残念ながら不明です。

法然上人には多くのお弟子がおられました。

その中に身の回りの世話を十八年にもわたってされた

側近のお弟子、勢観房源智(せいかんぼうげんち)上人がおられます。

源智上人は平師守(たいらのもろもり)の子ですから、平家の直系です。

源氏に見つかればすぐさま殺される身です。

その源智上人を幼いときから預かり、

かくまって弟子として育てたのが法然上人なのです。

源智上人は法然上人の一周忌にあたり、

三尺の阿弥陀如来像を造立しその胎内に、

この像を造立する趣旨「造立願文」を納めます。

その中で法然上人への恩義を

恩山尤も高きは教道の恩にして、徳海尤も深きは厳訓の徳なり

と表現されています。

かくまってもらい、育ててもらったご恩はもとより、

念仏一行で極楽浄土へ往生できるみ教えを伝授していただいた恩。

そして常に身の回りのお世話をし、

付き従う中で法然上人より甘やかすことなく厳しくご指導いただいた、

そのことを源智上人は喜んでおられるのです。

感謝してもしきれない。

「そのご恩に報いるために、三尺の阿弥陀仏像をお造りして、

この胎内に数万人の名前を納めよう」と書かれています。

事実胎内には「造立願文」の他に四万六千人以上の名前を記した

結縁交名(けちえんきょうみょう)」が納められていました。

この阿弥陀仏像が発見されるまで源智上人は法話に人が多く集まると

中止するほど消極的な方だとされていました。

それは源氏による平家の残党狩りの厳しさを物語る、ということでした。

ところがこの結縁交名の発見により、わずか一年の間に四万六千人の

名前を集めるほど行動的な人であったということがわかりました。

法然上人のご恩に報いるために、東奔西走されたのです。

その四万六千人の中にはご自身の親族である平家一門や

法然上人門下の先達のお名前、

全国北から南まで歩き回って縁をつないだ

有名無名の人々の名が綴られています。

そのような縁の深い、お世話になった方々の名が連なるのは理解できますが、

他にはなんと平家一門を皆殺しにした、

憎んでも憎みきれないであろう源頼朝以下源氏の名前が並んでいるのです。

「憎んでも憎みきれない」というのは勝手な想像ですが、

決して良好な関係であろうはずのない人々の名前さえ

納められていることに驚かされます。

更には

「その人々が皆法然上人のお導きを受けて

極楽浄土へと往生されるであろう。

そしてその中の一人が極楽浄土へ往生したら、

すぐにこの娑婆世界に戻ってきて、残った人々を導いてください」

と記されています。

源智上人は法然上人が極楽浄土へ往生された後も

このように人々に念仏教化を続けられました。

その源智上人の一門を「紫野門徒(むらさきのもんと)」といいます。

法然上人ご往生の後、大谷の禅房(今の知恩院勢至堂あたり)で

お弟子たちは毎月のご命日に「知恩講」を勤め、

集まってお念仏を称えていました。

しかし比叡山の衆徒に廟堂を破却されてしまいます。

嘆いた源智上人は廟堂を復興して法然上人の

ご遺骨を納め、伽藍を整えていきます。

それが後の「知恩院」となっていきます。

また、源智上人が住まわれた「加茂の河原屋」は

後に大本山「百万遍知恩寺」となります。

このように「知恩」というのは源智上人をはじめとした

法然上人門下が「法然上人の恩を知る」という意味なのです。


『勢観房源智』
梶村昇著



『勢観房源智上人』
総本山知恩院布教師会刊