2020年7月20日月曜日

念仏と出会うということ⑥(遇いがたき教え)

地獄・餓鬼・畜生といった悪道に墜ちる原因は何か?

それは私たちの煩悩です。

煩悩による行いを日々重ねて一生を過ごし、

ほとんどの者が命尽きた後に三悪道に墜ちる。

一度悪道に墜ちると、抜け出すのは至難の業です。

なぜなら自分が苦しい時に、善い行いなんてなかなかできません。

それどころか、人を騙して出し抜いてでも自分が助かろうとするでしょう。

悪い行いばかりを繰り返し、何度も地獄・餓鬼・畜生を経験せざるを得ません。

まるで蟻地獄のように、這い出したくてもズルズルと元の悪道へ戻ってしまうのです。

私たちもかつてはきっと地獄や餓鬼道でもがき苦しんだ過去があるということでしょう。

その中で私たちは今、人として生を受けました。

このことをどう受け止めればよいのでしょうか?

それはきっと、今まで悪道で苦しむ中で、少しではあっても、善い行いを重ねてきた結果なのでしょう。

酷い環境の中で、僅かずつでも善い行いをして、それが重なり、

ようやく人間として生まれてきたといえます。

「誰も産んでくれなんていっていない」と言うけれど、そして記憶にもないけれど、

今、人として生まれてきたのは、過去に、前世に、血の滲むような努力を重ねてきた

結果なのです。

「輪廻なんて信じられない」という人は多いでしょうが、

仮にでも結構ですので「もし輪廻というものがあるならば」と考えてみてください。

「生物学的に不思議」というだけでなく、

「私は今まで自ら努力して、その結果ようやく人として生まれてきたんだ」と

思っていただきたいのです。


『無量寿経』というお経の中に、

このような一節があります。



「善行を修めてこなかった人は

(無量寿仏の救いを説く)この経を

耳にすることはできない

清く正しく戒をたもってきた人こそ

はじめて真理に即した

(この)教えを聞くことができる

かつてみ仏と出会ったことがあれば

こうした(無量寿仏の救い)を

信ずることができる」
             ※『現代語訳浄土三部経』



つまり今こうして人として生まれ、

お念仏のみ教えと出会ったのは、

記憶にはないけれど、前世で相当によいことを

したということです。

覚えていないけれども、善いことを

してきた結果が今のお念仏との出会いなのです。

そして、そのお念仏の教えを信じることが

できる人は前世のいつかどこかで、

仏さまと出会ったことのある人だというのです。

このようにも書いてあります。



「(よいか)この世に生は受け難く

仏(の教え)が世にある時代に

生まれることはさらに難しい

(もし生まれたとしても)仏(の言葉)を信じ

(そしてそれを)正しく理解するのは難しい

もし(仏の言葉を)耳にしたならば

懸命に(仏道を)求めよ

(仏の)教えを聞いたならよく心にとどめ

(仏の姿を)拝したならば恭しく敬え」
                ※『現代語訳浄土三部経』



私は幾度となくこの『無量寿経』を読んできました。

しかし長らくこの箇所に書かれているところをサラッと読み過ごしていたようです。

この内容に気がついたとき、目が覚める思いでした。

「自分が人として生まれ、

お念仏のみ教えと出会ったのは、

前世からのつながりがあったからなのか!

こうやって阿弥陀仏の本願を信じることが

できるようになったのは、

前世に仏さまと遇ったことがあったからなのか!」

と感激しました。

『こどもブッダのことば』
監修・齋藤孝