浄土宗大本山 百萬遍知恩寺の
五劫思惟像
私たちは身と口と心で数々の悪い業(ごう)を重ねていきます。
「業(ごう)」というのは「行い」のことです。
「身体での行い」「言葉での行い」「心での行い」です。
その一々に、嫌でも「エゴ」がつきまとってしまう私です。
そんなことをしていたら、苦しみ迷いの世界から逃れることは不可能です。
それを法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまは本当に心配して下さったのです。
仏教の基本的な教えに「因果(いんが)の道理」があります。
「因果の道理」とは「原因があって結果がある」ということです。
善い行いをすれば結果として楽がもたらされます。
悪い行いをすれば苦しみがもたらされます。
それも「自業自得(じごうじとく)」といって、
自分の行いの結果は必ず自分に返ってくるというのです。
私が算数の勉強をして、ウチの息子の学力が上がればいいですが、
そうではないですね。
私が勉強すれば私の学力が上がります。
自業自得というのはそういうことです。
ですから「親の因果が子に報い」というような、
不可解な考えは仏教にはありません。
自分の行いの責任は自分が負います。
ただし、親の影響を子どもが受けることはあります。
親から虐待を受けた場合と
大事に育てられた場合とが異なることは明らかです。
しかしそれは「業」の問題ではないので、
親の業を子どもが背負うことはありません。
また、もちろん私たちの「業」は
悪い業だけではありません。
「人のために」善い業を積むことができれば、
それは自分の「善業(ぜんごう)」が積まれていくことになります。
その結果として、未来が切り開かれていきます。
ただ残念ながら、私たちは強い「エゴ」を持っていて、
善業(ぜんごう)を積むことに比べて
悪業(あくごう)を積むことの多さは比較になりません。
そのように幸せを追い求めているのに、
結果が伴わない人々をどのようにしたら救うことができるか。
法蔵菩薩さまは悩みに悩まれます。
「すべての者を救いたいけれども、
どう見ても殆どの人たちは
善い行いなどできないではないか、
悪い行いばかりしているではないか」
と考え込んでしまわれます。
因果の道理からすると、悪い行いばかりする者は
善い果報を受けることはできません。
どうしたら良いかと五劫の間悩み続け、
意を決して世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で
四十八の誓いを建てられます。