三つ目は、
「お釈迦さまの時代から遠く離れた
末法の時代に生まれた私たちなんか
救われっこないでしょ?!」という疑問です。
お釈迦さまがおられる時は、
直接教えを聞くことができるので、
覚ることができる人が多くいました。
お釈迦さまが涅槃(ねはん)に入られ、
この世から姿を消された後の五百年は、
お釈迦さまのお弟子やそのお弟子などから
教えがしっかり伝えられ、
同じように覚る人がいました。
これを「正法(しょうぼう)の時代」といいます。
教えと、それを元に修行する人と、
実際に覚る人が揃った時代です。
この正法の時代が過ぎた、次の千年は
「像法(ぞうほう)の時代」です。
「像」は「似せて作ったもの」という意味です。
つまり「正法に似ているけれども違う時代」です。
教えと修行は残っているけれども、
もはや覚る人がいない時代です。
さらにお釈迦さまが涅槃(ねはん)に入られてから
千五百年以降の一万年が
「末法(まっぽう)の時代」です。
平安時代末期に末法(まっぽう)の時代に入り、
一万年間続くのですから
今現在もまだ末法(まっぽう)です。
この末法の時代も終わってしまう一万年後にどうなるかというと、
お釈迦さまの教えを伝える人がいなくなるのです。
ということは仏教が滅んだも同然の時代がやってくるのです。
「法滅(ほうめつ)の時代」です。
しかし、「無量寿経(むりょうじゅきょう)」
というお経には、法滅(ほうめつ)の時代がきても
「無量寿経(むりょうじゅきょう)」のみ
百年は残ると記されています。
法然上人は「百年と限定されているが、
実はこの百年は永遠という意味なんですよ、
無量寿経(むりょうじゅきょう)が残るということは、
その教えの中心であるお念仏の功徳(くどく)が、
永遠の過去から永遠の未来に
正しく伝えられていくということなのですよ」
と示されています。
つまり、念仏の教えは、
末法の人だけが通用するのではなく、
「永遠の過去から永遠の未来のどの時代の人にも
通用する教えである」
ということです。
だから、「時下れり」の心配は無用です。
「法滅(ほうめつ)以後の人々でも往生するのだから、
まだ仏教が残っている今の時代の人は
何の心配もいりませんよ!」ということなのです。