(本文)
先(ま)ず牽(ひ)くの義、理に於いて如何ぞ。
又曠劫(こうごう)より已来(このかた)、
備(つぶさ)に諸(もろもろ)の行を造りて、
有漏(うろ)の法は三界(さんがい)に
繋属(けぞく)せり。
但(ただ)十念阿弥陀仏を念じたてまつるを以て
便(すなわ)ち三界を出(い)ず。
繋業(けごう)の義、復(また)
云何(いかん)せんと欲する。
(現代語訳)
では「重い方に傾く」という道理はどうなりますか?
また人は遙か昔から数々の行いをして、
その煩悩の身はみな迷いの世界に縛り付けられています。
それがたった十遍の念仏で、
迷いの世界から抜け出せるといいます。
それならば、悪業によって
苦しみ迷いの世界に縛り付けられるという理屈を
どう考えたらよいのでしょうか。
「一生悪の限りを尽くしてきた悪人が、
たった十遍の念仏で極楽へ往けるっていうのは
どう考えてもおかしいじゃないか。
『業道経(ごうどうきょう)』というお経には、
業(ごう)は秤のようなものであると記されている」
というのです。
業(ごう)は秤のようなもので、重い方に傾く。
普通に考えると、一生悪い行いをしてきた人の業の方が
重いはずである。
たった十遍の念仏の方が重いのは
おかしいのではないか、との疑問です。
とても真っ当な疑問だと思われます。