2021年3月19日金曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑨ 在縁(ざいえん)その一

(本文)


云何が縁に在る。


彼の造罪の人は自ら妄想(もうぞう)の


心(しん)に依止(えじ)し、


煩悩虚妄(ぼんのうこもう)の


果報の衆生に依りて生ず。


此の十念は無上の信心に依止(えじ)して、


阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量


(ほうべんしょうごんしんじつしょうじょうむりょう)の


功徳の名号に依りて生ず。





(現代語訳)


あの(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)の罪人は、


自らの誤った迷いにとらわれた心をより所とし、


煩悩にまみれた人との縁の中で過ごしています。


対してこの十念は、


この上ない信心をより所として、


阿弥陀仏の真実で清い功徳が収まった


念仏を縁としているのです。






二つ目の量り方は「在縁(ざいえん)」です。


人殺し、親殺しの縁は


お互い凡夫(ぼんぶ)同士の縁の中で生まれます。


悪い環境や悪い仲間と過ごすうちに、


更に悪い縁を呼び込みます。


悪い縁の中で出会う相手とは、


トラブルを起こしやすいものです。


悪人には悪人の正義があります。


「あいつが悪いから懲らしめてやろう」


「あいつはルールを破ったのだから、痛めつけよう」


「こっちは生まれながらに辛い境遇にあるのだから、


金持ちからふんだくってもよかろう」


そのように相手が凡夫(ぼんぶ)の場合、


自分では正しい行動をしているつもりでも、


罪を作ってしまうことが増えてきます。


方や念仏の縁は阿弥陀さまとのご縁です。


念仏を称えれば、阿弥陀さまの本願の力によって、


必ず間違いなく極楽浄土へ迎え取っていただけます。


同じ縁でも大違いです。


だから念仏の縁の方が重いのである、というのです。


これが「在縁(ざいえん)」の理路です。