2021年4月16日金曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑮

 (本文)


仏心(ぶっしん)とは、大慈悲これなり。


無縁の慈をもって、諸もろの衆生を摂したもう。




(現代語訳)


仏の御心は大慈悲にほかなりません。


平等に注がれる慈悲によって、多くの人々を


救い取ってくださるのです。




(解説)


「大慈」は人々に楽を与え、


「大悲」は人々の苦を抜くことです。


すなわち「慈悲」とは「人々の苦を抜き


楽を与えること」をいいます。


そして仏の慈悲を「大慈悲」といい、


それ以外を「小慈悲」といいます。


仏の大慈悲は、苦しみの世界を生まれては死に、


輪廻を繰り返している我々を導き、


苦しみの世界から救い出して、


覚りの世界へ至らしめてくださるものです。


比べて、仏以外の慈悲は、


苦しみ多き娑婆世界にいる人々に、


一時的な精神的肉体的な楽を与えることです。


娑婆世界の楽は「楽あれば苦あり」というように、


あくまで苦に対する相対的な楽にすぎません。


「今が幸せ!」と言っていても、


必ず時は過ぎ去ります。


楽といっても、その背後には必ず苦を伴いますし、


一時的な楽にすぎないのです。


浄土の楽はそのような相対楽ではありません。


苦楽を超えた絶対楽であって、


そこには苦とよばれるものは、


何一つない「楽」なのです。


このような相対楽から離れさせて、


絶対楽の世界へ導き入れてくださるのが、


仏の大慈悲なのです。


また別の角度から慈悲を


「衆生縁の慈悲」「法縁の慈悲」「無縁の慈悲」に


分けて説かれます。


「衆生縁の慈悲」とは、凡夫が起こす慈悲で、


親が子を慈しむように、他者へ物心を与えるものです。


先の「小慈悲」と同様です。


「法縁の慈悲」は、菩薩さまなどが起こす慈悲です。


凡夫は仏の真理を知らないので、


相対楽を求めてきます。


それに対して慈悲をもって法を説くのが


「法縁の慈悲」です。


「無縁の慈悲」は、真理を知らない人々が


迷い苦しむのを哀れみ、覚りの智慧に至らせようとする


慈悲をいいます。


「仏心とは大慈悲是なり」という慈悲は、


この「無縁の慈悲」のことをいうのです。