2020年9月20日日曜日

浄土宗のおつとめ㉔(摂益文〈しょうやくもん〉その三)

摂益文(しょうやくもん)は

 

1,「阿弥陀仏はすべての者を救う」と

 

 お慈悲の光を放ってくださっている。

 

2,そして、「念仏を称える者」を救い取ってくださる。

 

という構成になっています。

 

ここで「阿弥陀さまは、みんなを救いたいなら

みんな救ってくださってもいいじゃない?!

何で念仏称える人だけなの?

他の修行者もダメなの???」

という疑問をお持ちになるかもしれません。

 

このことに対して、法然上人は

 

大きく二つの理由を挙げておられます。

 

一つ目の理由は

「阿弥陀さまと、念仏を称える者とは強い縁がある」

ということです。

 

念仏者が念仏を称えるとき、

 

阿弥陀さまはちゃんとその声を

 

聞いてくださっています。

 

礼拝(らいはい)するときには、

 

決して知らんぷりすることなく、

 

ご覧くださっています。

 

こちらが阿弥陀さまのことを思うとき、

 

阿弥陀さまもこちらのことを

 

思ってくださっています。

 

そのような呼応関係が生じ、

 

親しい縁で結ばれているのです。

 

また、こちらがお念仏を称えるならば、

 

阿弥陀さまが目の前に来てくださいます。

 

残念ながら、こちらにはそのお姿を観る力が

 

なくても、ちゃんと来てくださいます。

 

阿弥陀さまは念仏者にとって、

 

それほど身近な存在なのです。

 

そして阿弥陀さまは、念仏称える者が重ねてきた罪を、

 

取り除いてくださいます。

 

いよいよ臨終を迎える時には、

 

直々に阿弥陀さま直々にお迎えくださいます。

 

これを「来迎(らいこう)」といいます。

 

詳しくは「所求・所帰・去行(しょぐ・しょき・こぎょう)」の

 

項でお伝えしました。

 

阿弥陀さまと念仏者は、

 

臨終のその瞬間まで密接不離の関係にあるのです。

 



来迎

 https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_27.html

 



二つ目の理由は、やはり「本願だから」です。

 

阿弥陀さまは「すべての者を救う」ため

 

「すべての者ができる行」として

 

「念仏」を選んでくださいました。

 

「老いても、病でも、体力がなくても、

 

学問がなくても、味方がいなくても、

 

孤独でも、貧しくても、

 

私の名前を呼ぶことならできるだろう」

 

だから「阿弥陀仏の名を呼ぶ」、すなわち

 

「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者を

 

救ってくださるのです。

 

「すべての者を救う」ことと

 

「念仏を称える者を救う」ことは同じことなのです。