2020年11月12日木曜日

一紙小消息(いっしこしょうそく)⑭勧門(かんもん)と誡門(かいもん) その二

 勧門(かんもん)だけだと

 

「悪無過(あくむか)の邪見(じゃけん)を起こす」

 

といいます。

 

「悪無過(あくむか)の邪見(じゃけん)」というのは、

 

「どんな悪人でも救われるなら、

 

どんな悪いことをしてもいいじゃないか」

 

となってしまうことです。

 

こういった誤りは、実は法然上人の時代に

 

すでにありました。

 

「どんな悪人でも念仏を称えれば救われるのだから、

 

どれだけ悪いことをしてもいいんだ。

 

むしろ、阿弥陀さまの力を信じているならば、

 

積極的に悪いことをすべきだ!」

 

考える人達が出て来たのです。

 

もちろんこれは法然上人のご意志とは


全く相容れない考えです。

 

「悪人、悪を造りて地獄に堕ちる」

 

これが仏教の摂理であり、やはり悪いことを止めましょう、というのが基本です。

 

一方「悪人も念仏を信じ称えれば往生する」

 

これも仏教なのです。

 

矛盾しているようですが、実はそうではありません。

 

「罪を恐れぬは邪見(じゃけん)」ですが、

 

「止めんと思う上に誤って犯すは正見(しょうけん)」なのです。

 

「どれだけ罪を犯しても救われるから罪を犯そう」はアウト!

 

罪を犯さずにおりたいけれども、

 

煩悩(ぼんのう)によって、犯したくもない罪も

 

犯してしまうのが我々です。

 

どんな悪人でも救われるとはいえ、

 

何の反省、懺悔(さんげ)もなく

 

罪を作り続けて救われる教えではありません。