勧門(かんもん)だけだと
「悪無過(あくむか)の邪見(じゃけん)を起こす」
といいます。
「悪無過(あくむか)の邪見(じゃけん)」というのは、
「どんな悪人でも救われるなら、
どんな悪いことをしてもいいじゃないか」
となってしまうことです。
こういった誤りは、実は法然上人の時代にも
すでにありました。
「どんな悪人でも念仏を称えれば救われるのだから、
どれだけ悪いことをしてもいいんだ。
むしろ、阿弥陀さまの力を信じているならば、
積極的に悪いことをすべきだ!」
と考える人達が出て来たのです。
もちろん、これは法然上人のご意志とは
全く相容れない考えです。
「悪人、悪を造りて地獄に堕ちる」
これが仏教の摂理であり、やはり悪いことを止めましょう、というのが基本です。
一方「悪人も念仏を信じ称えれば往生する」
これも仏教なのです。
矛盾しているようですが、実はそうではありません。
「罪を恐れぬは邪見(じゃけん)」ですが、
「止めんと思う上に誤って犯すは正見(しょうけん)」なのです。
「どれだけ罪を犯しても救われるから罪を犯そう」はアウト!
罪を犯さずにおりたいけれども、
煩悩(ぼんのう)によって、犯したくもない罪も
犯してしまうのが我々です。
どんな悪人でも救われるとはいえ、
何の反省、懺悔(さんげ)もなく
罪を作り続けて救われる教えではありません。