2021年3月4日木曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑦ 下品下生(げほんげしょう)その五

(本文)


かくのごとく至心に、声をして絶えざらしめ、


十念を具足(ぐそく)して、


南無阿弥陀仏と称(しょう)す。


仏名(ぶつみょう)を称(しょう)するが故に、


念念の中において、八十億劫(はちじゅうおっこう)の


生死(しょうじ)の罪を除く。




(現代語訳)


そのように、心の底から救いを求めて、


声を絶やすことなく、十念欠けることなく


「南無阿弥陀仏」と称える。


仏の名を称えると、一念称えるごとに


八十億劫(はちじゅうおっこう)もの間、


生死(しょうじ)を繰り返さねばならない


罪の報いさえも取り除かれる。






愚かな人は苦しみの中を、か細い声で


善知識に勧められるままに


藁をも掴む思いで


「なむあみだぶ なむあみだぶ…」と


必死で称えるのです。


その人は臨終までに時間がなく、


十遍念仏を称えた時に事切れるのです。


もう少し時間があれば、


百遍称えられたのかもしれません。


場合によってはそれが一遍になるかもしれません。


念仏との出会いがいつになるかによって、


念仏を称えだしてから臨終までの時間は異なります。


この下品下生(げほんげしょう)に登場する


「愚かな人」は臨終間際に念仏の縁を得て


「南無阿弥陀仏」と称えることができました。


彼の「助けたまえ、阿弥陀仏」という心に


偽りがなければ、その声がどんなにか細かろうと、


阿弥陀仏のお耳に届きます。


そして八十億劫(はちじゅうおっこう)もの長い間


生まれ変わり死に変わり、輪廻を続ける中で


犯してきた数え切れないほど


多くの重い罪が除かれるというのです。


尚、浄土宗の葬儀では、導師が引導の最後に


この一文を称え、十遍の念仏(十念)を


臨終を迎えた人に授け、極楽浄土へと送り出すのです。