(本文)
命終(みょうじゅう)の時、
金蓮華(こんれんげ)の、
なおし日輪(にちりん)のごとくなるが、
その人の前に住(じゅう)するを見る。
一念の頃(あいだ)のごときに、
すなわち極楽世界に往生することを得(う)。
(現代語訳)
そして命が尽きようとするその時、
まるで太陽のように眩い金色の蓮華が
その人の前に現れて、
一瞬の間に極楽世界に往生することができる。
上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、
下品(げほん)にそれぞれ上中下があります。
それは娑婆世界にいる私たちに、能力や行いの違いが
あることを示しています。
決して極楽浄土での環境に違いが生じるのではありません。
能力や行いが違えど、阿弥陀さまは同じように
迎えに来てくださいます。
その阿弥陀さまのお迎えを「来迎(らいこう」といいます。
阿弥陀さまは同じように来迎(らいこう)して
くださるのですが、こちらには能力の違いがあります。
能力の高い人は、阿弥陀さまがはっきりと見えるでしょうし、
そうでない人は、おぼろげにしか見えないかもしれません。
「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」の人は、
阿弥陀仏が観音菩薩、勢至菩薩、無数の化仏(けぶつ)、
百千のお坊さま、や無数の神々、
素晴らしい極楽の宮殿(くうでん)と共に迎えに来て
くださる姿が見えます。
「上品中生(じょうぼんちゅうしょう)」は、
阿弥陀仏が観音菩薩、勢至菩薩、数え切れないほど
たくさんの取り巻きに囲まれて、
紫色を帯びた金の蓮台(れんだい)を持って、
お迎えくださる姿を見ます。
「上品下生(じょうぼんげしょう)」の人は、
阿弥陀仏が観音勢至菩薩、数々の取り巻きと共に、
金の蓮台(れんだい)を持って、
五百の化仏(けぶつ)が人に姿を変えて
やってきて、お迎えくださるのを見ます。
「中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)」の人は、
金色の光を放つ阿弥陀仏が、
数々のお坊さまや取り巻きと共に
お越しくださるのを見ることができます。
「中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)」は、
阿弥陀仏が数々の取り巻きと共に、
金色の光を放って、七宝(しっぽう)の蓮華を持って
お迎えくださるのを見ます。
※七宝(しっぽう)…七種類の宝玉。金・銀・
瑠璃(るり)・頗瓈(はり)・硨磲(しゃこ)・
赤珠(しゃくしゅ)・瑪瑙(めのう)
の七つの宝のこと。
「中品下生(ちゅうぼんげしょう)」の人は、
善知識から阿弥陀仏の極楽浄土が
どれほど素晴らしいかを聞いて、
阿弥陀仏の本願のことを詳しく聞き終わってから
臨終を迎えます。
そして体力のある若者が屈伸するほどの、
わずかな間に極楽浄土へ往生するのだそうです。
ここには阿弥陀仏がどんな方と共に来迎(らいこう)
なさるのかが描かれていません。
一瞬の間に往生するのですから、
もちろん来迎(らいこう)は間違いなくあります。
「下品上生(げほんじょうしょう)」の人の元には、
阿弥陀仏が化仏(けぶつ)や化観音菩薩を
遣わしてお迎えがあります。
「下品中生(げほんちゅうしょう)」の人の臨終には、
清涼な風の中から天の華が舞い散って、
その華の上に化仏と菩薩が現れて、
極楽へと迎え取られるのです。
「下品下生(げほんげしょう)」の人には、
太陽のように眩い金色の蓮華が現れて、
極楽浄土へ迎え取られるのです。
「え?蓮華が現れるだけ?仏さまは来てくれないの?」
と思われるかもしれません。
いえいえ、そんなはずはありません。
念仏の者の元には、必ず阿弥陀さまがお迎えくださいます。
ただ、こちら側の能力が劣っていると、
阿弥陀さまのお姿が眩しくて、見えないのでしょう。
かろうじてお足元の蓮台だけが見えるのです。
そして蓮台に乗せていただき、
一瞬の間に極楽浄土へと往生することができるのです。