(本文)
如何(いかん)が心(しん)に在る。
彼の造罪の人は自ら虚妄顛倒(こもうてんどう)の
見(けん)に依止(えじ)して生(しょう)ず。
此の十念は善知識の方便安慰(ほうべんあんに)に
依りて実相の法を聞きて生(しょう)ず。
一は実なり、一は虚(こ)なり。
あに相(あい)比ぶることを得んや。
(現代語訳)
「心(しん)に在り」というのは
どういうことでしょうか?
ここに登場する五逆(ごぎゃく)・
十悪(じゅうあく)の罪人は、
自らの誤った迷いにとらわれた心を
より所として行動しています。
対してこの十念は、善知識の導きによって、
真実の教えを聞いて念仏を称えるのです。
一方は真実であり、一方は虚妄(こもう)です。
比較にならないのです。
一つ目の量り方を「在心(ざいしん)」といいます。
罪を作る時とお念仏を称える時の
「心」を比べるのです。
罪を作る時は、悪人自身の煩悩まみれの
迷いの心がその出所となります。
一方お念仏を称える時の心は
真実の教えに基づいた心です。
「真実の心」と「迷いの心」では比べるまでもない、
というのです。