2021年3月21日日曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑦ 在心(ざいしん)その一

(本文)


如何(いかん)が心(しん)に在る。


彼の造罪の人は自ら虚妄顛倒(こもうてんどう)の


見(けん)に依止(えじ)して生(しょう)ず。


此の十念は善知識の方便安慰(ほうべんあんに)に


依りて実相の法を聞きて生(しょう)ず。


一は実なり、一は虚(こ)なり。


あに相(あい)比ぶることを得んや。





(現代語訳)


「心(しん)に在り」というのは


どういうことでしょうか?


ここに登場する五逆(ごぎゃく)・


十悪(じゅうあく)の罪人は、


自らの誤った迷いにとらわれた心を


より所として行動しています。


対してこの十念は、善知識の導きによって、


真実の教えを聞いて念仏を称えるのです。


一方は真実であり、一方は虚妄(こもう)です。


比較にならないのです。






一つ目の量り方を「在心(ざいしん)」といいます。


罪を作る時とお念仏を称える時の


「心」を比べるのです。


罪を作る時は、悪人自身の煩悩まみれの


迷いの心がその出所となります。


一方お念仏を称える時の心は


真実の教えに基づいた心です。


「真実の心」と「迷いの心」では比べるまでもない、


というのです。