2021年5月16日日曜日

仏説阿弥陀経㉕

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


もし善男子(ぜんなんし)・


善女人(ぜんにょにん)あって、


阿弥陀仏を説くを聞きて、


名号(みょうごう)を執持(しゅうじ)すること、


もしは一日・もしは二日・もしは三日・


もしは四日・もしは五日・もしは六日・


もしは七日、一心不乱なれば、


その人、命終(みょうじゅう)の時に臨んで、


阿弥陀仏、諸もろの聖衆(しょうじゅ)とともに、


その前に在す。


この人終わる時、


心(こころ)顛倒(てんどう)せず、


すなわち阿弥陀仏の極楽国土に


往生することを得(う)。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


もし善良な男性や女性が、


阿弥陀仏の名前(念仏)の教えを聞いて、


念仏を称えること


もしくは一日、二日、三日、四日、五日、六日、


七日間、心を一つにして乱れなければ、


その人が臨終の時に、


阿弥陀仏がたくさんの菩薩を引き連れて、


その人の目の前に姿を現す。


この人の命が尽きる時には、


心惑わず、すぐに阿弥陀仏の極楽へ往生することができる」






(解説)


「善男子(ぜんなんし)」「善女人(ぜんにょにん)」


とは「すべての人」という意味です。


「すべての人」の中には悪人もおりますが、


どんな悪人も、自らの罪を自覚して、


極楽往生を願う時には、その志はすでに


善の方へ向かっています。


その「善男子」と「善女人」が阿弥陀仏の


本願を知り、念仏を称えるのです。


「名号を執持(しゅうじ)する」とは


「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることです。


その念仏が例えば一日、例えば二日、


七日であってもいいのです。


あるいはその称える回数が一遍、十遍、


または千遍、万遍であってもいいのです。


時間の長短、数の多少にかかわらず、


一心不乱に称えれば、その人の命終わる時に


阿弥陀仏が多くの菩薩を引き連れてお迎えくださり、


それによって心が定まって極楽へ往生することが


できると説かれます。


「一心不乱」といっても、それは心を一つに集中するとか、


妄念雑念を消し去る、という意味ではありません。


「ただ一心に極楽往生を願って、阿弥陀さまを


疑うことなく念仏を称える心」をいうのです。


この念仏こそが「多善根(たぜんごん)」であり、


極楽往きのために阿弥陀仏が指定してくださった


「選択本願念仏(せんちゃくほんがんねんぶつ)」


なのです。