2021年5月15日土曜日

仏説阿弥陀経㉖

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


我(われ)この利を見るが故に


この言(ごん)を説く。


もし衆生あって、この説を聞かん者は、


まさに発願(ほつがん)して、


かの国土に生(しょう)ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


私はこのようなご利益(りやく)を見て知っているから、


このことを説くのである。


この教えを聞く者は、極楽に生まれたいという


願いを起こして、往生すべきである」






(解説)


「極楽という最高の世界があるよ」とか


「阿弥陀仏が私たちを見まもり導いてくれる」とか


「南無阿弥陀仏と称えれば必ず極楽へ往ける」と


聞いても、実際に極楽へ往くまではその確信が持てず、


ギリギリまで疑いの心を拭い去ることができません。


だから釈尊はここで、「私は極楽があり、阿弥陀仏がおられ、


念仏を称えれば極楽へ往けることを知っている」と


はっきりとおっしゃって、安心させてくださるのです。


「あなたたちは見たことがないから信じられないだろうが、


私はちゃんと見て知っているから、安心しなさい。


どうかこの教えを聞く者は極楽往生を願いなさい」と


極楽や阿弥陀仏を見る力もない私たちの


不安と疑念を拭い去ってくださるのです。