2021年4月10日土曜日

真身観文(しんじんがんもん)㉑

 本文)


 この観を作(な)すをば、名づけて正観(しょうかん)とす。


もし他観するをば、名づけて邪観(じゃかん)とす。




(現代語訳)


これらを、正しく仏を目の当たりにする


修行と名づけます。


もしこれ以外の修行をすれば、


それを邪な修行と名づけます。




(解説)


私たちはこのような観法をせず、


専ら「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えればよいのです。


しかしながら、「ただ称えよ」と言われても、


拝む対象がなければ称えにくいでしょう。


だから仏像やお仏壇があります。


また、お念仏はお仏壇がなくても称えられます。


その時にはここに説かれるように、


仏さまのお姿を心に浮かべて称えればよいでしょう。


ただ、凡夫の私たちは、それさえも


長く続けることが困難になってきます。


心が散り乱れて仕方ないのです。


そんな散り乱れた心のままで称えるのも


許されるのがお念仏の最高にありがたいところです。


それが許されなければ、


私たちは仏道を諦めざるを得ません。


救いの門は閉ざされていません。


凡夫を救わんがために、


阿弥陀さまが無縁の大慈悲でもって、


救いの手を差し伸べてくださっています。


どうかお念仏を称えて、そのご恩に報いましょう。


(真身観文の項終わる)