本文)
この観を作(な)すをば、名づけて正観(しょうかん)とす。
もし他観するをば、名づけて邪観(じゃかん)とす。
(現代語訳)
これらを、正しく仏を目の当たりにする
修行と名づけます。
もしこれ以外の修行をすれば、
それを邪な修行と名づけます。
(解説)
私たちはこのような観法をせず、
専ら「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えればよいのです。
しかしながら、「ただ称えよ」と言われても、
拝む対象がなければ称えにくいでしょう。
だから仏像やお仏壇があります。
また、お念仏はお仏壇がなくても称えられます。
その時にはここに説かれるように、
仏さまのお姿を心に浮かべて称えればよいでしょう。
ただ、凡夫の私たちは、それさえも
長く続けることが困難になってきます。
心が散り乱れて仕方ないのです。
そんな散り乱れた心のままで称えるのも
許されるのがお念仏の最高にありがたいところです。
それが許されなければ、
私たちは仏道を諦めざるを得ません。
救いの門は閉ざされていません。
凡夫を救わんがために、
阿弥陀さまが無縁の大慈悲でもって、
救いの手を差し伸べてくださっています。
どうかお念仏を称えて、そのご恩に報いましょう。
(真身観文の項終わる)