(本文)
舎利弗(しゃりほつ)、
我(われ)この利を見るが故に
この言(ごん)を説く。
もし衆生あって、この説を聞かん者は、
まさに発願(ほつがん)して、
かの国土に生(しょう)ずべし。
(現代語訳)
〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉
「舎利弗(しゃりほつ)よ、
私はこのようなご利益(りやく)を見て知っているから、
このことを説くのである。
この教えを聞く者は、極楽に生まれたいという
願いを起こして、往生すべきである」
(解説)
「極楽という最高の世界があるよ」とか
「阿弥陀仏が私たちを見まもり導いてくれる」とか
「南無阿弥陀仏と称えれば必ず極楽へ往ける」と
聞いても、実際に極楽へ往くまではその確信が持てず、
ギリギリまで疑いの心を拭い去ることができません。
だから釈尊はここで、「私は極楽があり、阿弥陀仏がおられ、
念仏を称えれば極楽へ往けることを知っている」と
はっきりとおっしゃって、安心させてくださるのです。
「あなたたちは見たことがないから信じられないだろうが、
私はちゃんと見て知っているから、安心しなさい。
どうかこの教えを聞く者は極楽往生を願いなさい」と
極楽や阿弥陀仏を見る力もない私たちの
不安と疑念を拭い去ってくださるのです。