2020年6月30日火曜日

浄土三部経⑰(諸仏証誠)


『阿弥陀経(あみだきょう)』の後半は、

東・南・西・北・下・上の六方(ろっぽう)、

要するに「あらゆるところ」におられる仏さまが

みんな「阿弥陀さまの念仏の教えは間違いない

と証明して下さっている」ことが説かれています。

東には○○仏、△△仏、□□仏という仏さまがおられ、

みんな「阿弥陀さまの教えは間違いない」

と証明しておられます。

南には、○○仏、△△仏、□□仏という仏さまがおられ、

みんな「阿弥陀さまの教えは間違いない」

と証明しておられます。

西には、北には、下には、上には、と順番に挙げられ、

どの仏さまも阿弥陀さまを信じてお念仏を称えるように

勧めて下さっています。

くどいほどに多くの仏さまのお名前が出てきて、

「阿弥陀さまの教えは間違いないよ」

と示して下さるのです。

お念仏の教えというのは誰もができる教えですが、

それを信じるのが難しいのですね。

逆説的ですが、「信じられないほど素晴らしい教え」とも

言うことができます。



大本山百万遍知恩寺の阿弥陀経碑




今まで私達は苦しみ迷いの世界を巡り巡ってきました。

どんなに長い間苦しみ続けてきたか。

今念仏の教えに遇って、ようやく極楽浄土へ

往生するチャンスを得ました。

阿弥陀さまの本願を信じてお念仏を称えていたら、

必ず臨終の時に阿弥陀さまが直々にお越し下さり、

間違いなく遙か西の彼方に実際にある

極楽浄土へ往生させていただける。

こんなにありがたいことであるのに

信じるのは難しいのですね。

ですから、これだけたくさんの仏さまが、

「これでも信じられぬか!これでもか!」

と証明して下さっているのです。

ありがたいことです。

仏さま方がこれほどまでに

願って下さっているのですから、

我々は素直に「信じる力」というものを持ちたいものです。

(浄土三部経の項終わる)

2020年6月27日土曜日

仏教入門①(苦からの解脱)

仏教の目的は「苦からの解脱(げだつ)」です。

「苦」というのは単に「苦しい」というだけの意味ではありません。

「苦」は「思い通りにならない」ということです。

ですから、もしあなたが順風満帆の人生を歩み、

「すべてうまくいっている!満足だ!」と思っておられるのでしたら、

今のあなたに仏教は必要ないでしょう。

世間の価値観に乗ることができていれば、

それはそれでいいのです。

でもそこからはみ出さざるを得ない時に、

「異なる価値観」があると助かると思いませんか?

さして問題なく生きている時には仏教の必要性は感じにくいでしょう。

私(法輪寺住職)も佛教大学へ通う学生時代、

「仏教は苦だとか思い通りにならないとか、

悲観的なことばかり言うから受け入れられないんだ」

と思っていました。

「もっと明るいことを言えばいいのに」

と考えていました。

当時は取り立てて悩みもなく、

比較的思い通りになっている、と感じていたのかもしれません。

また、世の中がバブル景気で浮かれていたので、

「苦からの解脱」などと言うことを野暮に感じていたのでしょう。

世間の価値観は「強い」をヨシとし、「弱い」はダメ。

「勝ち」はよくて「負け」はダメ。

「成功」がよくて「失敗」はダメ。

「上位」がよくて「下位」はダメ。

「富」がよくて「貧」はダメ。

「美」がよくて「醜」はダメ。

「健康」がよくて「病」はダメ。

「若さ」がよくて「老い」はダメ。

「生きる」がよくて「死ぬ」がダメ。

このような二項対立の価値観を挙げればキリがありません。

多かれ少なかれこのような価値観を

生まれたときからずっと擦り込まれて、

大人になればすっかりそれが私の一部となっています。

『ブッダとは誰か』
吹田隆道


2020年6月26日金曜日

仏教入門②(壊れゆくもの)

「年を経るに従って元気になり、健康になり、

若くなり、ずっと勝ち続ける」ことができるならば、

世間の価値観のままに生きることができるでしょう。

「勝ち組」の方に居続けることができればよいですが、

そうはいきません。

「思い通りにならない」ことを避けて

一生を過ごすことは、まずできません。

幼い頃は「大きくなったらこうなりたい!」という夢や

目標を持って日々を過ごすことができるかもしれません。

それがある程度の年齢になると、

その夢や目標は自分の現実に合わせてサイズダウンしていくでしょう。

そして成長のピークを過ぎていくと、目の前の雑事に追われ、

夢も目標も持てなくなるかもしれません。

そして老いてゆき「生きていても楽しみも何もない」

と言う人のなんと多いことでしょう。

私たちの人生には必ず「思い通りにならないときがくる」

と言わざるを得ないのです。

世間の価値観とは何と残酷なものでしょうか。

世間の価値観だけを頼りに生きていると、

必ず壁にぶつかることになるでしょう。

「世間」というのは実は仏教用語で、

壊れゆくもの」という意味です。

私たちは「壊れゆくもの」にしがみつき、

壊れゆく現実に直面したときに、生きがいを失うのです。

世間の価値観、すなわち「壊れゆくもの」にだけ依存していると、

いつか必ず絶望せざるを得ない時がやってきます。

仏教は世間の価値観以外にもう一つの価値観を提示します。

出世間」です。

「世間から出る」という価値観です。

世間の価値観を捨て去ることは難しいでしょう。

でも「もう一つの価値観」を持っていれば、

つまずいた時の杖になることでしょう。

このブログがその第一歩を踏み出すためのきっかけになれば幸いです。

『ブッダが考えたこと』
宮元啓一


2020年6月25日木曜日

仏教入門③(四苦〈生苦・老苦〉)

お釈迦さまが説かれた仏教の教えは

「人生には悩み・苦しみがともなうものなのだ」

ということをそのまま受け入れる、というところから始まります。

お釈迦さまは私たちが人生において必ず出会う

「思い通りにならないもの」をお示しくださいました。

まずは「生・老・病・死」の「四苦」です。

生苦」は「生まれてくる苦しみ」です。

全く憶えていませんが、産道を通ってくる時は

相当な苦しみを味わうそうです。

赤ん坊の頭蓋骨は柔らかいので、

変形しながら何とか産道を通ってきますが、

その苦しみは相当なものだといいます。

私の長男がまだお腹の中にいるとき、産婦人科の先生が

「お腹の中からも声は聞こえているようです。

1歳半ぐらいになって、突然お腹の中でどう聞こえていたか、

どう思っていたか、などを話す子が稀にいるんですよ」

とおっしゃっていました。

殆どの子は生まれるときに忘れてしまうのだそうです。

真偽のほどはわかりませんが、興味深い話です。

お釈迦さまが前世の記憶を失わなかったのは、

お母さまマーヤさまの右脇から生まれたからだという説明もあります。

面白いですね。


仏教では、あらゆる生きものは死を迎えたら

次にまた生まれ変わるといいます。

生きている間に経験した色々なこと、学習が

生まれ変わった先に生かすことができればいいのですが、

そうはいきません。

生まれ変わって産道を通る時に、あまりに苦しすぎて、

すべて忘れてしまうのだそうです。

だから次に生まれ変わった先で経験を生かすこともできず、

愛する人と再会しても、再会を喜び合うこともできないのです。

老苦」は文字通り「老いていく苦しみ」です。

子供の頃は「大きくなったらプロ野球選手になろう!」

などと夢を見るかもしれません。

だんだん背が伸び、色んなことを覚え、

力がつき、成長していきます。

その成長が一生ずっと続けば老いの苦しみはないのでしょうが、

ある時期がきたら成長は止まります。

若さや体力を維持しようと努力をすれば、

ある程度は老いのスピードを落とすことができるようです。

しかし決して止めることはできません。

それを「もう40歳になってしまった。僕もおじさんだ」

と嘆いたり、あるいは

「アンチエイジングよ!いつまでも若くいましょうよ!」

と自他を鼓舞しても、必ずその戦いはいつか敗北を迎えます。

思い通りにはならないのです。

『ブッダのことば』
宮元啓一


2020年6月24日水曜日

仏教入門④(四苦〈病苦・死苦〉)

病苦」は「病の苦しみ」です。

誰も病気になりたい人はいないのに、

生きていればいつか病気になる時もやってきます。

しかし実際に病気になると肉体的な苦しみはもちろんのこと、

精神的にも苦しい思いが溢れます。

「なぜ私だけがこんな目に遭うの?」

「このままずっと治らないの?」

「何であの時に気づかなかったのだろう?」

不安・後悔・怒り。

さまざまなネガティブな感情がわき起こってきます。

「病気のない人生」であって欲しいですが、

それが思い通りにならないのです。

そして究極は「死苦」です。

浄土宗第二祖聖光上人は

八万の法門は死の一字を説く」とおっしゃっています。

「八万の法門」というのは「お釈迦さまが説かれたすべての教え」

という意味、つまり「仏法」です。

仏法は死を説いているのだ」ということです。

生きていれば必ず死を迎えるということは誰でも知っていますが、

それを自分のこととして受け入れることは人生最大の難問です。

死にたくなくてもいつかは死に至りますし、

逆に「もういい」と思っていても寿命はコントロールできません。

「死をコントロールできるならいつがいいか?」などと考えると、

「子どもが学校を卒業するまで」と思うかもしれません。

しかしよく考えると「子どもが自立するまで」

「家庭をもつまで」「孫の顔を見るまで」「孫が成人するまで」

と区切りがつかなくなることもあるでしょう。

そしてその時点が来たらパッと覚悟できるかというと、どうでしょうか。

そしてそんな妄想自体がナンセンスで、やはり思い通りにはなりません。

『仏教思想のゼロポイント』
魚川祐司


2020年6月23日火曜日

仏教入門⑤(八苦)

「生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)」の四苦に、

愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・

求不得苦(ぐふとっく)・五取蘊苦(ごしゅうんく)

を加えた八つの苦を「八苦」といいます。

「四苦」と「八苦」が別々にあるのではなく、

「四苦」にあとの四つを加えて「八苦」なのです。

一般に「四苦八苦する」というのはここからきています。

愛別離苦(あいべつりく)」は愛する人と

別れなくてはならない苦しみです。

生き別れ、死に別れ、そして愛する人が去るのか自分が去るのか。

必ずその時はやってきます。

「自分が去る方がいい」と思うかもしれません。

しかしそれもわかりません。

愛する人と別れたい人などあろうはずはありません。

誰一人そんなことを望む人はありません。

しかし避けられない苦しみであり、

自分自身の「老病死」以上に苦しいと感じる人は多くいます。

怨憎会苦(おんぞうえく)」は

「会いたくないような憎い人と会わなくてはならない苦しみ」

つまり人間関係の苦しみです。

成人の悩みの殆どは人間関係だと言われています。

多くの人が大なり小なり人間関係に苦しめられています。

いじめ、パワハラ、派閥やグループ同士の争いなど

枚挙にいとまがありません。

生きている中で人間関係に悩んだことのない人はいないでしょう。

そしてその苦しみは「死苦」を超える場合もあります。

求不得苦(ぐふとっく)」は「求めても得られない苦しみ」です。

 「人気者になりたい」「あの大学に行きたい」

「あの子とお付き合いしたい」「お金持ちになりたい」

「芸能人になりたい」

目標をもって努力するのにはいいですが、思い通りにならないときに、

やはり苦しみを味わいます。

「なぜこんな貧しい家に生まれてきたのか。

金持ちの家に生まれたらよかったのに」

社会の不公平を是正する努力をしていく必要はあります。

しかし「求めても得られないもの」

を苦しみとするのは自分の問題です。

五取蘊苦(ごしゅうんく)」は「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」

「五陰盛苦(ごおんじょうく)」「五盛陰苦(ごじょうおんく)」

といわれる場合もあります。

五取蘊」とは「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」の五つで、

要するに「自分の身体を含むあらゆる物と心」です。

この「物と心」に執着して私たちは

自分を苦しめているというのです。

「五取蘊苦」以外の七苦はみんな「自分の身体や心」

「他者の身体や心」「あらゆる物」に関わるものです。

それらの七苦を「自分の心と身体が受け止めないといけない苦しみ」

とも言えます。

生老病死の直接的な苦しみ以外に、

それが受け入れられない苦しみがあります。

愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦そのものの苦しみは

それだけで大きいものですが、それ以外にも

その事実を受け入れられずに長く苦しむ、

という現実があります。

これらは「五取蘊苦(ごしゅうんく)」の範疇です。

さらには七苦に含まれない苦しみ、たとえば

「電車で足を踏まれて痛い」とか、

「仕事に行きたくないなあ」

「何かわからないけれど将来が不安だなあ」

「誰かに悪口を言われているような気がする」etc.

そういう私たちが日常的に感じるあらゆる苦しみを

網羅するのが「五取蘊苦(ごしゅうんく)」です。

だから「五取蘊苦」は「八苦の総括」であるといいます。

つまり「五取蘊苦」こそが「生きる苦しみ」なのです。

『ブッダが説いたこと』
ワールポラ・ラーフラ


2020年6月22日月曜日

仏教入門⑥(四聖諦)

お釈迦さまはこれらの「思い通りにならないものがある」

ということを「まず認める」ようお勧めくださっています。

お釈迦さまが覚りを開かれた後、深い瞑想に入り、

人々に教えを伝える決意をされます。

そしてサールナートというところで、

かつて一緒に修行した五人の修行者に対して最初の説法をなさいます。

これを「初転法輪」といいます。

以前「お釈迦さまのご生涯」の際にこの話に触れました。



「四聖諦」は「苦しみから逃れるためのすべ」

を四段階にして説いてくださったものです。

その第一段階が

思い通りにならないことがあるということを認める

という段階です。

私たちはその思い通りにならないことを

「思い通りにしたい」と思うけれど、

結局それが思い通りにならないことを苦しく感じるのです。

それをまず「思い通りにならないことがある」

と認めることから始まるのです。

『出家とはなにか』
佐々木閑


2020年6月21日日曜日

仏教入門⑦(集諦)

次は第二段階です。

思い通りにならないことを思い通りにしようとして

苦しむのには原因がある

ということを明らかにしてくださっています。

その原因を「煩悩(ぼんのう)」といいます。

求めても求めてもいつまでも渇いていて、

ちっとも満たされない心

なので「渇愛(かつあい)」ともいいます。

たとえば、「ずっと生きたい」「ずっと健康でいたい」

「ずっと若いままでいたい」と願う心や

必要以上の食欲、性欲、睡眠欲、怠け心、快楽を求める心、

自分の存在を認めて欲しい!という「承認欲求」、

相手を思い通りにしたい!という「征服欲」、

人から尊敬されたい!という「名誉欲」などなど。

いわゆる「欲望」をひっくるめて「煩悩」というのです。

つまり「私たちの苦しみの原因は私たち自身の心にある

ということです。

普通私たちはイヤなことが起こったときに、

「会社のせい」「イヤな上司のせい」「できそこないの部下のせい」

「先生のせい」「親のせい」「配偶者のせい」

「嫌いなあいつのせい」「政治のせい」「天気のせい」

「ウイルスのせい」と責任の所在を他者に求めます。

しかし仏教では

「苦しみの原因は外にはないよ。自分の心にあるのだよ」

と教えてくれています。

もちろん人間関係や政治構造によって

苦しめられていることもあります。

それはそれで改善に動く必要があります。

パワハラ上司の下でずっと「悪いのは私の心」

と自分に言い聞かせても根本的な対処にはなりません。

転職するとか訴える等の処置が必要でしょう。

逃げることも逆らうことも訴えることもできずに

身体や言葉の暴力に耐えている優しい人たちが

搾取されてしまいます。

それを「自分が悪いのだ」と我慢せよ、

ということではありません。

そういったことには対処する必要があります。

しかしそれを感情的に「苦しい」

と認識するのは私の心です。

その原因は、求めても求めてもいつまでも渇いていて、

ちっとも満たされない心

「渇愛(かつあい)」があるというのです。

現実の法則にに反して、そうでないものを求めるのでは、

思い通りになろうはずはありません。

冷静に考えればわかることですが、

感情的に認められないのです。

「なぜ自分ばかりがこんな目にあうのだろう」

といくら考えて悩みのスパイラルに陥ってしまいます。

『なぜ悟りを目指すべきなのか』
アルボムッレ・スマナサーラ


2020年6月20日土曜日

仏教入門⑧(滅諦)

この「煩悩」によってどうにもならないもの

をどうにかしようとし、

結果どうにもならないから苦しむという

悪循環が繰り返されるというわけです。

ですから「苦」を止めるにはこの「煩悩」を止める必要があります。

それが第三段階です。

つまり「煩悩」の心を滅すれば「苦」も滅することができる

ということです。

先日こんなことがありました。

スーパーで買い物をしていたときです。

みんなマスクをして一定の距離を置いてレジに並んでいました。

すると隣のレジに並んでいる帽子をかぶった男の人が

ジロジロと見てきます。

最初は気のせいかと思っていたのですが、

しばらく経っても見てきます。

「感じ悪いなあ」とイヤな気持ちになりました。

レジで精算を済まして買った物を袋に詰めていると、

さきほどの人が

「やっぱり法輪寺のおっさん(和尚さんのこと)でしたな!」

と話しかけてきました。

その方はお檀家さんでした。

「私目が悪いし、みんなマスクしているのでわからないんですよ。

おっさんに似てるけど違うかな?どうかな?

と気になってずっと見てました」

とおっしゃいます。

私はジロジロ見てくる人に気分を害しながらも、

その人が知り合いとも思わずあまり見ないようにしていました。

マスクをして帽子をかぶっておられたので全くわかりませんでした。

わからないので、「ジロジロ見てくるなあ」「失礼な」「イヤだなあ」

というネガティブな心を起こしてしまいました。

最初からその方だとわかっていたら、

気持ちよくご挨拶していたところでしょう。

原因がわかればネガティブな心を起こすことはなかったのです。

それと同じく苦しみの原因である「煩悩」を滅すれば

苦しみも滅するということなのです。

『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』
名越康文


2020年6月19日金曜日

仏教入門⑨(道諦)

第四段階は「煩悩を滅する方法がある」ということです。

それが様々な仏道修行です。

仏教には八万四千(はちまんしせん)の法門、といわれるように、

たくさんの教えがあります。

その多くは瞑想修行で、非常に理に適っています。

思い通りにならないものをそのまま見よ、と説く教えがあります。

判断するのではなしに、そのままを見よ、というのです。

私たちはついつい、ジロジロ見てくる人に嫌悪感を持ちます。

でも「ジロジロ見てくる人」は「ジロジロ見てくる人」

と受け取ればいいということです。

それに「なんでジロジロ見てくるの?!気持ち悪い!」

と嫌ったり、「あの人私に何か文句があるのだろうか?!」

と不安に思ってしまう、その必要はないというのです。

勝手に嫌悪感を持ったり不安に思って、

自分で自分を苦しめているのが私たちです。

しかしそんな必要はありません。

今ある状況をありのままに見ることによって、

余計な悩みを増やさずにすむのです。

私自身はこのような仏教の考え方でずいぶん救われました。

かつて「なぜ僕はこんなにツイてないんだろう」

「今日もイヤなことがあるのかな」

と不安にかられることが多い時期がありました。

でもこの仏教の考え方のおかげで、かなり改善されました。

いかに何てことはないことに自分は悩まされていたのだろう、

と思います。

『ブッダの処世術』
平岡聡


2020年6月18日木曜日

仏教入門⑩(別のアプローチ)

「そうか、自分で自分を苦しめているのか。

では見方を変えよう」「ものごとを正面から見すえるのだ」

と考え方を改善すればもうすべて解決できたか?

というと、とてもそんなことは言えません。

本当に煩悩を滅し尽くすことができれば、

あらゆる悩みも苦しみからも解放されるのでしょう。

でもそこには到底たどり着けない自分がいます。

もし不治の病にかかる、パワハラやいじめ、

愛する人を亡くすなどの強烈な出来事が我が身に降りかかったら、

「そのままを正面からみる」とは

言っていられないであろう自分がいます。

私は今まで僧侶として、辛い経験をされた方と多く出会いました。

「愛する人を亡くす」という身を切り裂かれるような、

誰もしたくない経験をされる方がたくさんおられます。

その方々は5年、10年、20年と長きにわたって苦しまれます。

私が若い頃は「もう立ち直ってもよさそうなのに」

などと無責任に考えたこともありました。

しかし、何人もの方が同じように長い時間苦しまれる姿を見て、

「愛する人を亡くしたら、みんなこんなに苦しむのだ」

ということに遅ればせながら気づきました。

自分はその体験がないけれど、

同じことが我が身に降りかかった時には

自分もきっと同じように苦しむことでしょう。

体験していない者が安易に「こうすれば?」「こう考えたらどう?」

「早く忘れようよ」などということが

どれだけその人を傷つけることでしょう。

そうは言うものの、目の前に苦しむ人がいると

ついつい安易なアドバイスをしてしまう自分がいます。

これも何度も失敗し、今現在も愚かしく

その繰り返しをしています。

今までお伝えしてきた仏教の根本的な教えは非常に有益です。

それを冷静に受け止めることができる人は受け止め、

是非実践していってください。

しかしその実践も覚束ない、実践しようとしても

目の前の苦しみに苛まれてしまうことが私たちにはあります。

そんな私たちのためにお釈迦さまは

多くの教えを説いてくださっています。

日本の宗派には三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の南都六宗、

天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、

浄土宗、浄土真宗、時宗、黄檗宗等々たくさんあります。

同じ仏教でありながら、行う修行方法は全く異なります。

曹洞宗は「ひたすら座る」といいますし、

浄土宗は「ただ念仏を称える」と説きます。

することが全く違うのにどちらも仏教です。

瞑想等の修行で煩悩を滅することができる人ばかりならいいけれど、

そうはいきません。

そのような

「自分で自分の苦しみに気づき、その原因である煩悩を断てばよい」

と知ってもそれができない者のために

お釈迦さまは念仏の教えを説かれました。

「信じて称える」という全く別の角度からのアプローチです。

自分の無力さを自覚して、「救ってくれる仏がいる」と知り、

「ただ念仏を称えれば救われる」という教えです。

自分で煩悩を断つことができなくても、

「信じて称える」ことならできる、という人は大勢います。

逆に「信じることができない」という人も大勢おられるでしょう。

その多様な人々のためにお釈迦さまは多くの教えを説かれたのです。

『反応しない練習』
草薙龍瞬


2020年6月17日水曜日

仏教入門⑪(ブックガイド)

この先には「瞑想とは異なるアプローチ」として

「浄土宗の教え」をお伝えします。

ただ、瞑想を軸にした仏教は大変素晴らしい智慧を授けてくれますので、

もっと学びたい方のために今回は「浄土宗の教え以外の」

いくつかの書籍をご紹介いたしまして、この項を閉じることにします。

経典
○『ブッダのことば』中村元訳
○『ブッダ最後の旅』中村元訳
○『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳
○『ブッダ神々との対話』中村元訳
○『ブッダ悪魔との対話』中村元訳


釈尊伝
○『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元選集第11巻
○『ゴータマ・ブッダⅡ』中村元選集第12巻
○『ブッダ物語』中村元・田辺和子
○『新釈尊伝』渡辺照宏
○『釈尊をめぐる女性たち』渡辺照宏
○『仏教の源流-インド』長尾雅人
○『ブッダ・ゴータマの弟子たち』増谷文雄
○『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』佐々木閑


その他
○『出家とはなにか』佐々木閑
○『「律」に学ぶ生き方の智慧』佐々木閑
○『日々是修行』佐々木閑
○『ごまかさない仏教』佐々木閑・宮崎哲弥
○『ブッダが考えたこと』宮元啓一
○『仏教誕生』宮元啓一
○『ブッダのことば』宮元啓一
○『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
○『ブッダとは誰か』吹田隆道
○『ブッダの処世術』平岡聡
○『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』名越康文
○『苦の探求』蜂屋賢喜代
○『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司
○『感じて、ゆるす仏教』藤田一照・魚川祐司
○『反応しない練習』草薙龍瞬
○『ANGER 怒り』ティク・ナット・ハン
○『FEAR 恐れ』ティク・ナット・ハン
○『なぜ悟りを目指すべきなのか』アルボムッレ・スマナサーラ
○『ブッダの小ばなし』釈徹宗・多田修


瞑想
○『ブッダの〈気づき〉の瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダ「愛」の瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダの智慧』アルボムッレ・スマナサーラ
○『瞑想入門』山下良道

                 仏教入門の項終わる


『怒り 心の炎の静め方』
ティク・ナット・ハン




2020年6月15日月曜日

良忠上人のご生涯①(ご生誕)

これから浄土宗の第三祖「良忠上人」の略伝をお伝えしてまいります。

「聖光上人のご生涯」の冒頭で「初代がいくら偉くても、

二代目三代目が頼りないと潰れてしまいます」と申し上げました。

聖光上人は「一本筋の入った貫禄ある念仏行者」というイメージです。

良忠上人は「浄土宗教団の地盤を固めた行動力の人」と言えるでしょう。

良忠上人は著作が多いことから

「記主禅師」(きしゅぜんじ)とも呼ばれています。

またご自身のことを

「然阿」(ねんな)ともおっしゃいます。

良忠上人は正治元年(1199)石見の国

つまり今の島根県三隅町というところのお生まれです。

法然上人は長承2年(1133)のお生まれですから、

66歳違いということになります。

「おじいさんと孫」ほどの年齢差です。

残念ながら、法然上人のご在世中に良忠上人との

ご対面は叶いませんでした。

お父さまは藤原一族の名門の末裔ですが、

出家して天台宗のお坊さんになられ、

お名前を「円尊」とおっしゃいました。

後に岩見の国に移住されましたが、その理由は定かではありません。

お母さまは伴氏とだけわかっていますが、こちらも詳細は不明です。

今お生まれになった場所には良忠寺というお寺が建っていますが、

明治になってから良忠上人を讃えて建てられたお寺です。

法然上人や聖光上人と同じく、

幼いときからとても聡明なお子であったようです。

11歳の時に三智法師という方がお父さまの円尊さまを訪ねて来て、

恵心僧都源信さまの『往生要集』という書物のお話しを

傍で聞いて感激したといいます。

恵心僧都源信さまは日本の浄土教の基礎を築いた方です。

『往生要集』には、地獄、餓鬼、畜生、

そして極楽の様子がつぶさに記されています。

みなさんは「地獄絵図」をご覧になったことはありますか?

地獄の獄卒が罪人を苦しめる絵は一度観たら脳裏に焼き付けられます。

あの絵の元になっているのが『往生要集』です。

極楽浄土についても詳しく記されています。

本書には法然上人も大きく影響を受けておられます。

良忠上人は11歳の時にその地獄の様子、

そして極楽の様子を聞いて打ち震えたというのです。

『然阿上人傳』
了慧道光


良忠上人のご生涯②(仏門に入る)

3歳で良忠上人は出雲の鰐淵寺に入られます。

今の小学6年生か中学1年生の頃からお寺で

過ごされたということになります。

やはり相当優秀であったようです。

14歳になられたお正月のことです。

建暦二年の元日。

建暦二年ってみなさん聞き覚えありませんか?

そうです。
「建暦二年正月二十三日大師在御判」とありますように

『一枚起請文』が記された年であり、

その二日後に法然上人が往生された年でもあります。

奇しくもその同じ正月に良忠上人はこんな歌を詠まれたといいます。

五濁(ごじょく)の憂き世に生まれしは 

恨みかたがた多けれど 

念仏往生と聞くときは 

かえりて嬉しくなりにけり

五濁」と申しますのは

①劫濁②見濁③煩悩濁④衆生濁⑤命濁  の五つです。

『浄土宗大辞典』によりますと

①劫濁(こうじょく)とは「時代のみだれで、

戦乱・飢饉・疫病などが多くなること」です。

②見濁(けんじょく)は

「思想のみだれで、邪悪な思想がはびこること」

③煩悩濁(ぼんのうじょく)は

「  貪・瞋・痴の三毒煩悩などが盛んになること」

④衆生濁(しゅじょうじょく)は

「人びとの資質が低下して教えの理解力が劣化すること」

⑤命濁は

「人びとの寿命が短くなること」です。

現代のことを指しているように感じませんか?

仏教の時代感覚は800年前も現代も同じ括りなのです。

良忠上人のお歌は

五濁の世に生まれてきたことは辛いことだけれど、

念仏を称えていたら必ず往生できることを知ると、

この世に生を受けたことがかえって嬉しくなるものである

というものでした。

それを聞いた先輩が

「正月早々縁起でもない!」

と良忠上人を叱ったといいます。

かの一休禅師も正月早々にドクロを持って

「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

とふれて歩いたといいます。

良忠上人は先輩に言われたことであるから

反論はしなかったけれども、心の中で

「人の命は時を選ばない。そう考えると正月も盆もない。

今日もしあなたの命が終わるとしたらどうするのか!?」

と思われたといいます。


『良忠上人御法語』
大本山光明寺


2020年6月14日日曜日

良忠上人のご生涯③(出家と苦悩)

良忠上人は仏教の勉強に没頭し、16歳で正式に出家されました。

18歳になった良忠上人は、中国の法照禅師という方の

大聖竹林寺記』という書物を読まれました。

そこには

末法の時代の凡夫は、お釈迦様がこの世を去られてから

長い時間が経って、人々の知識は劣り、罪は深い。

そのような時代には念仏が最も適している

と書かれていました。

良忠上人はそれ以来、念仏一万遍称えるようになったといいます。

「何か劇的なことがあって念仏信仰に入られた」ことを

つい求めてしまいますが、経典や先達の解釈やその文言を

素直に受け取っていかれたことが尚ありがたく感じます。

後の偉業へと続く、その土台が18歳の時にできていたのです。

そこから良忠上人は非常にアクティブに移動を重ねられます。

山陰、山陽、京都、奈良と旅から旅へ教えを求めて移動を繰り返されるのです。

天台密教、真言密教、唯識、三論、華厳、禅の

み教えまでもを学んでいかれます。

法然上人も若き日に自分が本当に救われる教えを

探し求めて奈良を遍歴されました。

当時はもちろん徒歩です。

歩いては教えを聞いて学び、実践し、

歩いては歩いてはの繰り返しです。

良忠上人もまた教えを貪るように学び実践するけれども、

自分が救われるみ教えに中々出会うことができませんでした。

『看病用心鈔』
良忠上人


2020年6月13日土曜日

良忠上人のご生涯④(生仏法師)

18歳から数えると16年の月日が経ちます。

良忠上人34歳の時、まだ答えを得ることもできないまま

故郷の石見の奥の多陀寺に籠もって不断念仏を行ったといいます。

「不断念仏」とは食事や睡眠の時間を除いて

ずっとお念仏を称える行です。

このことから、まだ答えは得られていないけれども、

お念仏に傾倒しておられたことに間違いはないとわかります。

浄土教のみ教えに、何かしら惹かれておられたのでしょう。

そんな鬱々とした日々を過ごしておられた良忠上人に、

大きな転機が訪れます。

あるとき友人の生仏法師(しょうぶつほっし)

訪ねて来られました。

生仏法師もまた、教えを求めて旅を続けておられました。

生仏法師もお念仏、とりわけ法然上人のみ教えに触れてみたいと

思っておられたといいます。

しかし法然上人はすでに極楽へ往生された後です。

直接教えを聞くことができないならば、

そのお弟子さんに教えを聞こうと思うけれども、

法然上人にはたくさんのお弟子さんがおられる。

その中でも時に、法然上人往生の後、

教団のリーダー的な存在になっておられた隆寛律師

それから秀才の証空上人

そして九州におられる聖光上人

隆寛律師、証空上人、聖光上人のお三方が法然上人ご往生の後、

各地でお念仏のみ教えを説かれている、

いわばトップスリーだったのです。

京都の長岡京に粟生の光明寺という、

紅葉でも有名な大きなお寺があります

粟生の光明寺は西山浄土宗の総本山です。

この証空上人の流れが「西山浄土宗」となっていくのです。

話を生仏法師に戻します。

隆寬律師、証空上人、聖光上人のお三方の中の

どなたについたらよいのかがわからない。

そこで生仏法師は、三人の名前を紙に書いて、

それを懐にしまって信濃の善光寺に向かいました。

昔の人のこういう行動に惹かれます。

教えを求めるためにはどれだけ旅するのも厭わないのです。

生仏法師はそれから遠い遠い善光寺へと向かいました。

その途中、榊の宿場に泊まりました。

現在、坂城町という町があります。

昔は「榊」とか、「坂木」と書いたようです。

お伝記には「榊宿」とあります。

榊宿は「善光寺には翌日到着」という位置にあります。

その榊宿に泊まった夜に生仏法師は夢をご覧になりました。

夢に登場したのは身の丈八尺、今の単位では240センチもの大男。

紙は雪のように白く、法衣をまとい、

威儀を整えて杖をついたお坊さんが枕元に立って言うのです。

聖光房がよく往生の道を知っているから、聖光房の元を訪ねよ

翌朝生仏法師は、隆寛律師と証空上人の名前を書いた紙を捨てて、

聖光上人のお名前だけを残しました。

もう目的は達成したので、善光寺には行かなくもよいはずですが、

そんな不義理な生仏法師ではありません。

昔の信仰者には本当に頭が下がります。

夢のお告げは善光寺の阿弥陀如来さまが

お坊さんに姿を変えて私の夢に現れてくださった、

その恩に報いるためにと七日七晩善光寺にお参りしたといいます。

そしてまたその足で九州へと向かうのです。

その途中に、同じように教えを求めている友人の良忠上人の元を訪ねてやってきた。

あなたも聖光上人の元へ行きませんか、という訳です。

良忠上人は大喜びで、早速筑後、

今の久留米の善導寺へ向かうことにしました。

『浄土宗行者用意問答』
良忠上人


2020年6月12日金曜日

良忠上人のご生涯⑤(聖光上人の元へ)

生仏法師がすぐに出発し、良忠上人は翌日に出発しました。

良忠上人はご準備などのあったのでしょう。

不思議なことにお伝記にはこれ以降生仏法師についての記述がありません。

個人的には生仏法師がこの後どうなさったのか、気になるところです。

それはともかく、、、

良忠上人は長い道のりを歩いてようやく善導寺(福岡県久留米市)に着きました。

ところが残念なことに聖光上人はお留守でした。

善導寺から20キロほど離れた天福(福岡県八女市)におられると聞いて、

翌日天福寺へと向かいました。

そこで運命の出会いです。

浄土宗二祖と三祖が出会われたのです

聖光上人75歳、良忠上人38歳でありました。

聖光上人にもたくさんのお弟子がいました。

しかしお弟子はたくさんいるけれども、

自分の跡を譲ることができる者がいないことを嘆いておられました。

そこに38歳男盛りの良忠上人が現れたのです。

良忠上人は他のお弟子以上に、

今まで必死の思いで教えを求めてこられましたから、

学識は豊富。

体力も抜群。

そしてなにより求める心が強い。

聖光上人は良忠上人を「私の若いときのようだ」とお喜びになり、

良忠上人も聖光上人の人格と信仰に強烈に惹かれた。

尊敬する師匠の「私の若いときのようだ」

という言葉は最高の褒め言葉でしょう。

お互い火花を散らすように聞き、答える。

わずか一年足らずの間に一器の水を一器に写すが如く

法然上人のお念仏のみ教えを伝え尽くされました。

その証として聖光上人の御著

『末代念仏授手印』(まつだいねんぶつじゅしゅいん)

『徹選択本願念仏集』(てつせんちゃくほんがんねんぶつしゅう)

授けられた良忠上人。

一生懸命読んですぐに、お師匠さまの

『末代念仏授手印』をこのように理解しました、

と一冊の書物をお師匠さまに差し出しました。

聖光上人目を通し、「よし、これで宜しい!」と喜んでくださった。

この書物が『領解末代念仏授手印鈔』

(りょうげまつだいねんぶつじゅしゅいんしょう)です。

略して『領解鈔』(りょうげしょう)ともいいます。

良忠上人は「記主禅師」と呼ばれるほど多くの書物を著されましたが、

『領解鈔』はその多くの著作の最初の一冊です。

領解」とは「頭だけでなく、全身でしっかりとわかった」という意味です。

「合点」です。

ですからこの『領解鈔』を別名「合点の書」とも申します。

当然『領解鈔』の内容と『末代念仏授手印』の内容には変わりはありません。

変わっていたらいけません。

当然同じなんです。

良忠上人が「こうですね。わかりました!」と書かれた書物。

「本当にわかる」ということです。

「わかる」とは「変わる」ことであるといいます。

親しく色々と教えてくださった先輩が、

これからお坊さんになる若い人によくこうおっしゃっていました。

思いが変われば姿が変わる。姿が変われば言葉が変わる。」

本当に思いがわかればその姿も変わってくる。

姿が変われば、人と話す言葉も自ずと変わっていくのです。

良忠上人はずっとご自分でお勉強なさってきて、ずっと救いを本気で求めて来られました。

私たちも念仏生活の中で、

「そうか、こういうことか。わかった!」

と心の底から合点することが何度もあります。

何度も「領解」「合点」を繰り返して信仰は深まっていくのです。

この正式な教えの相承をもって

浄土宗の第二祖聖光上人から良忠上人は

後継者と認められたのです。

『三祖良忠上人』
大橋俊雄


良忠上人のご生涯⑥(源智上人のこと)

聖光上人からすべてを授与された良忠上人は帰郷を申し出ます。

聖光上人も

「津々浦々に浄土の教えを広め、多くの人に念仏を勧めよ」

と快く送り出されます。

聖光上人は立派な跡取りを送り出され、

翌年嘉禎四年(1238)二月二十九日

極楽浄土へ往生されました。

ようやく後継者を見つけてホッとなさったことでしょう。

良忠上人のそこから約10年後、50歳の時に京都で

『選択集』の講義をされるまでの足跡は残念ながら不明です。

法然上人には多くのお弟子がおられました。

その中に身の回りの世話を十八年にもわたってされた

側近のお弟子、勢観房源智(せいかんぼうげんち)上人がおられます。

源智上人は平師守(たいらのもろもり)の子ですから、平家の直系です。

源氏に見つかればすぐさま殺される身です。

その源智上人を幼いときから預かり、

かくまって弟子として育てたのが法然上人なのです。

源智上人は法然上人の一周忌にあたり、

三尺の阿弥陀如来像を造立しその胎内に、

この像を造立する趣旨「造立願文」を納めます。

その中で法然上人への恩義を

恩山尤も高きは教道の恩にして、徳海尤も深きは厳訓の徳なり

と表現されています。

かくまってもらい、育ててもらったご恩はもとより、

念仏一行で極楽浄土へ往生できるみ教えを伝授していただいた恩。

そして常に身の回りのお世話をし、

付き従う中で法然上人より甘やかすことなく厳しくご指導いただいた、

そのことを源智上人は喜んでおられるのです。

感謝してもしきれない。

「そのご恩に報いるために、三尺の阿弥陀仏像をお造りして、

この胎内に数万人の名前を納めよう」と書かれています。

事実胎内には「造立願文」の他に四万六千人以上の名前を記した

結縁交名(けちえんきょうみょう)」が納められていました。

この阿弥陀仏像が発見されるまで源智上人は法話に人が多く集まると

中止するほど消極的な方だとされていました。

それは源氏による平家の残党狩りの厳しさを物語る、ということでした。

ところがこの結縁交名の発見により、わずか一年の間に四万六千人の

名前を集めるほど行動的な人であったということがわかりました。

法然上人のご恩に報いるために、東奔西走されたのです。

その四万六千人の中にはご自身の親族である平家一門や

法然上人門下の先達のお名前、

全国北から南まで歩き回って縁をつないだ

有名無名の人々の名が綴られています。

そのような縁の深い、お世話になった方々の名が連なるのは理解できますが、

他にはなんと平家一門を皆殺しにした、

憎んでも憎みきれないであろう源頼朝以下源氏の名前が並んでいるのです。

「憎んでも憎みきれない」というのは勝手な想像ですが、

決して良好な関係であろうはずのない人々の名前さえ

納められていることに驚かされます。

更には

「その人々が皆法然上人のお導きを受けて

極楽浄土へと往生されるであろう。

そしてその中の一人が極楽浄土へ往生したら、

すぐにこの娑婆世界に戻ってきて、残った人々を導いてください」

と記されています。

源智上人は法然上人が極楽浄土へ往生された後も

このように人々に念仏教化を続けられました。

その源智上人の一門を「紫野門徒(むらさきのもんと)」といいます。

法然上人ご往生の後、大谷の禅房(今の知恩院勢至堂あたり)で

お弟子たちは毎月のご命日に「知恩講」を勤め、

集まってお念仏を称えていました。

しかし比叡山の衆徒に廟堂を破却されてしまいます。

嘆いた源智上人は廟堂を復興して法然上人の

ご遺骨を納め、伽藍を整えていきます。

それが後の「知恩院」となっていきます。

また、源智上人が住まわれた「加茂の河原屋」は

後に大本山「百万遍知恩寺」となります。

このように「知恩」というのは源智上人をはじめとした

法然上人門下が「法然上人の恩を知る」という意味なのです。


『勢観房源智』
梶村昇著



『勢観房源智上人』
総本山知恩院布教師会刊


良忠上人のご生涯⑦(赤築地〈あかつじ〉の談合)

源智上人は法然上人門下の中でも、

法然上人の元で常随給仕された側近のお弟子として、

一目おかれる存在でありました。

その源智上人は奇しくも聖光上人と同じ年の年末に

極楽浄土へと往生されます。

源智上人にも多くのお弟子がおられました。

その中で源智上人の跡を継がれたのは蓮寂(れんじゃく)上人です。

京都に立ち寄った良忠上人は、

教えを確認するために蓮寂(れんじゃく)上人を訪ねました。

聖光上人の弟子である良忠上人。

源智上人のお弟子蓮寂上人。

どちらも法然上人からすると孫弟子です。

このお二人が京都は東山の赤築地(あかつじ)にて

四十八日間の談義をして、聖光上人の流れと

源智上人の流れを付き合わせたところ、

間違いなく符合することを確認しました。

そこで蓮寂上人は

「紫野(むらさきの)門徒は鎮西(ちんぜい)聖光上人の流れと同じである」

として別流を立てないことを明らかにされたのです。

教えを伝えている間に自分の考えを盛り込んでいくと、

徐々に異なったものになってきます。

浄土宗は聖光上人が良忠上人に伝えたように

「一器の水を一器へ写す」ようにして

同じ教えをそのままに伝授してゆくのです。

源智上人も同じく蓮寂上人へ伝授されました。

こうして大切な確認を終え、良忠上人は東国へと向かわれます。
『勢観房源智上人』
総本山知恩院

2020年6月11日木曜日

良忠上人のご生涯⑧(東国へ)

良忠上人は京都から伊勢路を通り、

現在の四日市六呂見(ろくろみ)にあります観音寺にて

人々に念仏の教えを伝えました。

そして長野善光寺へと向かわれます。

善光寺は良忠上人にとっては一度はお参りしたいところであったでしょう。

友人の生仏法師が善光寺如来から夢のお告げを受け、

「浄土の教えは聖光上人に聞くべし」と感得されたのでした。

生仏法師が聖光上人に浄土の教えを授かりたいと九州へ向かう途中に

「良忠上人にも教えてやろう。きっと喜ぶに違いない」

と立ち寄ってくださったことが、

今の良忠上人の行動の端緒でありました。

「いつかは善光寺の阿弥陀さまをお参りしたい」

と思っておられたことでしょう。

善光寺に参り、そこからしばらくの間、

信濃に滞在して辺りの人々に念仏教化をされました。

その後、今の千葉県下総(しもうさ)

上総(かずさ)へと向かいます。

鎌倉の御家人、千葉氏から援助を受けて、

千葉で念仏布教に努めます。

『近世浄土宗教団の足跡』
宇高良哲


2020年6月10日水曜日

良忠上人のご生涯⑨(在阿さまとの一問一答)

 千葉氏の帰依を受けて良忠上人は

下総(しもうさ)の国で布教と著作に励んでおられました。

そこに一人の天台の学僧が良忠上人を訪ねてきました。

血を吐く病といいますから、今で言う結核かもしれません。

もう余命いくばくもない、そういう状況です。

この学僧、名前は在阿(ざいあとおっしゃいます。

今まで天台を学んできたが、

胸を病んでもう自分には時間がないとさとります。

「もう間に合わない」と念仏のみ教えを求めた。

在阿(ざいあ)さまは聖光上人の

末代念仏授手印』(まつだいねんぶつじゅしゅいん)

を手に入れて読みました。

しかし、今まで自ら覚りを目指して修行してこられたので、

「仏に救われる」浄土宗のみ教えに納得できないところが多い。


「ただ阿弥陀さまの本願を信じて南無阿弥陀仏と称える」という

み教えを素直に信じることができない。

そこで在阿(ざいあ)さまは病の体で法然上人のお弟子を訪ねて歩きました。

まだ直接教えを聞いた方が生き残っておられたのです。

静岡に禅勝房(ぜんしょうぼう)さまという

法然上人のお弟子の中でもひたむきな念仏者として

尊敬を集めた方がおられました。

在阿(ざいあ)さまはその禅勝房(ぜんしょうぼう)さまを訪ねたけれども、

「私は難しい学問はわかりません。

私はただ南無阿弥陀仏と称えれば救われるというみ教えを

法然上人からお聞きして、それを人々にお伝えし、

自ら実践しているだけです」

とおっしゃいます。

ありがたいですね。

しかし在阿(ざいあ)さまはそれでは納得できない。

そして時間がない。

禅勝房(ぜんしょうぼう)さまから相模(さがみ)、

今の藤沢市の石川というところにおられる

道遍(どうへん)さまを紹介されます。

道遍さまも

「私にはあなたのご質問にお答えする学識はありません。」

とおっしゃる。

そしてまた道遍さまから、聖光上人の跡取りの

良忠上人が下総の福岡というところにおられると聞いて、

訪ねてきたというのです。

その数々の質問に対して良忠上人が答えた記録が『決答綬手印疑問鈔』です。

良忠上人59歳のときのことでした。

その後良忠上人は鎌倉へと向かいます。

『禅勝房』
梶村昇


良忠上人のご生涯⑩(鎌倉から京都へ、そしてご往生)

良忠上人は鎌倉へ向かう途中、先に在阿(ざいあ)さまが訪ねた

道遍(どうへん)さまにお会いします。

道遍(どうへん)さまは法然上人の直弟子です。

法然上人のお言葉やお人柄もお聞きになったことでしょう。

教えに関して、あるいは教団のことなども相談なさったのかもしれません。

良忠上人は鎌倉武士北条朝直(ほうじょうともなお)公が

建立した悟真寺(ごしんじ)に招かれました。

このお寺は後に蓮華寺と名前を変え、

さらに光明寺と寺名を改めて、材木座へと移りました。

それが今の大本山光明寺です。

そこで良忠上人にもたくさんのお弟子がおられました。

中でも良暁(りょうぎょう)上人、性心(しょうしん)上人、

尊観(そんかん)上人、道光(どうこう)上人、

然空(ねんくう)上人、慈心(じしん)上人の六名は

学徳共に勝れ各地で教えを広めました。

然空(ねんくう)上人と慈心(じしん)上人は京都で布教なさっていました。

お二人からの願いに応えて良忠上人は78歳で再び上洛し、

さらには88歳で鎌倉へ帰って来られるのです。

その間にも資料を吟味し講義を重ね、

多くの著述をなされたといいます。

何というバイタリティーでしょうか。

驚くばかりです。

しかしご自身そう先が長くないと感じられたのでしょう。

お弟子の寂恵良暁(じゃくえりょうぎょう)上人に

付法状(ふほうじょう)と九条袈裟(くじょうげさ)、

松蔭の硯(まつかげのすずり)、

法然上人・聖光上人・良忠上人三代にわたって伝わる

『阿弥陀経』一巻を授与されます。

平家物語で平重衡(たいらのしげひら)公が

東大寺を焼き討ちした罪で処刑される前、

法然上人に会い念仏の教えを受けます。

それを喜んだ重衡(しげひら)公より法然上人に贈られたのが「松蔭の硯」です。

それで安心なさったのでしょう。

お弟子の了慧道光(りょうえどうこう)上人の

『然阿上人傳』(ねんなしょうにんでん)には

念仏の音声殊に鮮やかにして声々相い続き、

亥の刻に至りて止み、面容に笑みを含み、禅定に入るが如く、

湛然として逝く。時に世齢八十九、法臘七十四

とあります。

「法臘」(ほうろう)というのは出家してからの年数です。

「お顔に笑みを含んで、心静かに往生された」ということです。

弘安十年(1289)7月6日でありました。

ご遺骨は鎌倉光明寺の天照山にあるお墓に埋葬されています。

                (以上 「良忠上人のご生涯」の項終わる)

『浄土宗史』
浄土宗


参考文献

○『聖光と良忠』梶村昇   

 梶村昇先生は令和2年2月15日満95歳で西方極楽浄土へ往生なさいました。

 かなりの部分を本書に頼りました。

 これまでのご業績に敬意を表し、

 ご教導に感謝を込めて念仏回向いたします。

                      南無阿弥陀仏

○『然阿上人傳』了慧道光

○『近世浄土宗教団の足跡』宇高良哲

○『浄土宗史』成田俊治・伊藤唯真・平祐史

○『勢観房源智』梶村昇

○『勢観房源智上人』「源智上人と阿弥陀仏像造立願文」伊藤唯真



2020年6月4日木曜日

聖光上人のご生涯①(ご生誕)

浄土宗をお開きくださったのは「法然上人」ということは、ご存じの方が多いのですが、

「二代目はどなた?」と尋ねられて答えることができる人はどれほどおられましょうか?

しかし初代がいくら偉くても、二代目三代目が頼りないと潰れてしまいます。

浄土宗第二祖聖光上人」は法然上人の数多いお弟子の中で、浄土宗を継いでくださった

大切な方であります。

「聖光上人」とお呼びすることが多いですが、別名をたくさんお持ちです。

聖光上人は正式には「聖光房弁長」とおっしゃいいますので、

弁長上人」ともお呼びします。

九州のご出身ですので「鎮西上人」ともいいます。

昔九州のことを鎮西と申しました。

それからご自身のことはよく「弁阿」(べんな)と名乗られます。

弁阿上人」です。

「弁阿弥陀仏」の略です。

さらには浄土宗の第二祖なので単に「二祖さま」とお呼びすることもあります。

「聖光上人」、「弁長上人」、「鎮西上人」、「弁阿上人」、「二祖さま」

このような呼び方があることをご承知おきください。

聖光上人は応保二年(1162)のお生まれです。

法然上人より29歳お若いということになります。

ちなみに同じく法然上人門下の親鸞聖人は承安三年(1173)のお生まれですから、

聖光上人より11歳お若いということになります。

時代は平安時代の最末期。

お父さまは法然上人と同様、武士です。

九州今の福岡県北九州市、筑前の国香月城の城主の弟、香月弾正左右衛門則茂という

お名前です。

出家して「順乗」と名乗られました。

お母さまのお名前は「聖養さま」といいます。

これはお戒名です。

聖光上人がお生まれになった場所には現在「吉祥寺」という浄土宗のお寺が建立されています。

見事な藤棚が有名です。

本堂の裏手に石塔があり、そこには

「究竟院殿大譽教阿順乗大居士 承安三年八月二十八日」とお父さまの戒名が

彫られておりその隣に

「大宝院殿安譽聖寿妙養大姉 応保二年五月六日」と

お母さまの戒名が並んで彫られています。

おそらくこの戒名の「聖寿妙養」の二字をとって「聖養」とされたのでしょう。

聖光上人の孫弟子にあたる了慧道光上人が著された『聖光上人伝』には

お母さまについては注釈の中で「上人母法號聖養」とのみ記されています。

法然上人のお母さまは秦氏さまでしたね。

一族の名前です。

昔は女性が個人名を語ることはなかったのですね。

もちろん身内では何らかの呼び名はあったでしょうが、それを公にはしなかったようです。

ですから普通のお名前ではなしにお戒名のみが伝わっています。

ご両親共に信仰篤く、これも法然上人のご両親と同じく、日本三戒壇の一つ、

太宰府の観世音寺というお寺の観音さまに七日間参籠なさったとも伝えられます。

子授け祈願です。

子供を授かるのは簡単なことではありません。

今でも決して当たり前ではありません。

子供を授かるということは、今も昔も本当に「有ること難い」稀なことなのです。

お参りされて七日目、夢をご覧になりました。

法然上人のお母さま、秦氏さまも法然上人をお腹に身ごもられる時に

剃刀を呑む夢をご覧になりました。

このように神仏に祈願して見る夢を霊夢と申します。

聖光上人のお母さま、聖養さまも霊夢で、立派なお坊さんが現れて、

「お前のお腹を借りて人々を救うぞ」とおっしゃったともいいます。

そしてめでたくご懐妊であります。

十月十日かけて赤ん坊が生まれてきましたが、それと同時に聖養さまは命を落とされます。

友人の救命救急医が言っていました。

「出産というのは本当は相当に危険なことなんだ。みんなが怖がるから医者は一々言わないけども、本当は母子共に命がけなんだ。
母子共に元気な出産は決して当たり前ではないんだ」

現在でもそうです。
ましてや800年以上前のことです。

生まれてきた赤ん坊は「文殊丸」と名付けられました。

法然上人は「勢至丸」です。

昔はよく子供に「○○丸」と名付けられました。
牛若丸もそうですね。

子供だけでなく、今でも船には○○丸というものが多いですね。

これは魔除けなのだそうです。

「麻呂」というのも同じ意味です。

出産同様、生まれた後、大人になるまで育つこと自体が大変なことなのです。

法然上人の幼名「勢至丸」も聖光上人の「文殊丸」も、どちらも尊い菩薩さまのお名前がついています。

勢至菩薩、文殊菩薩、どちらも知恵の菩薩と言われます。

どちらのご両親も信心深い方でしたから、そのように菩薩さまの名を付け、

「丸」をつけて、

「仏の知恵をいただけるような子に、元気な子になって欲しい」

と願われたのです。

「重刻聖光上人傳叙」貞厳
「聖光上人傳凡例」信冏

2020年6月3日水曜日

聖光上人のご生涯②(比叡山へ)

どういう事情か記すものがないので詳細はわかりませんが、

聖光上人はわずか七歳で仏教の勉強を始められ、

九才で出家して頭を剃り、聖光房弁長というお名前を授かります。

さらには十四歳で、授戒を受けられて一人前のお坊さんになられたんです。

おそらくご両親が参籠なさった観世音寺での受戒と思われます。

その後、ご生誕の地近くにある白岩寺にて三年、飯塚の明星寺で五年にわたって

必死に勉学修行に励まれます。

福岡県久留米市に浄土宗の大本山「善導寺」があります。

善導寺の聖光上人像は、一般にイメージされる九州人、九州男児そのものです。

「威風堂々」という形容がふさわしい、力強い姿のお像がお祀りされています。

その風貌通り、力強く一生涯「行」を続けられました。

22歳で比叡山に登り、観叡上人に師事した後、観叡上人の勧めで、

証真上人という方のお弟子になります。

この証真上人という方は、学徳共非常に優れた方で、学問と修行に打ち込むが余り、

源平の戦いがあったこともご存じなかったといわれています。

にわかには信じがたい逸話ですが、それ程に厳しく修行をされた方だったのでしょう。

聖光上人は、証真上人に付いて比叡山で八年間修行なさり、九州へと帰って行かれます。

証真上人は法然上人の智徳に敬意を持っておられましたから、

聖光上人もその頃法然上人のお名前を耳にされていたのかもしれません。

『聖光上人傳』
了慧道光



2020年6月2日火曜日

聖光上人のご生涯③(三明房さま死の淵を彷徨う)

聖光上人がお生まれになると同時にお母さまがお亡くなりになったことを先にお伝えしました。(聖光上人のご生涯①)https://www.blogger.com/blog/post/edit/2937894655821144415/6366219382260676008

聖光上人は29歳で比叡山から九州に帰郷されます。

そして故郷の誕生の地に吉祥寺というお寺を建てられました。

本尊の「腹帯阿弥陀如来」と呼ばれる仏さまは、お産のために

亡くなったお母さまへの報恩のために自ら刻まれたお像です。

その翌年には、当時九州の仏教を学ぶ中心であった油山という山の、学頭になられます。

博多の南西6キロの所にあるのですが、当時は東西にそれぞれ360もの

お堂があったそうです。

九州における仏道修行の中心地である油山で、仏教の学校の

校長先生になられたのが御年30歳の時です。

いかに秀でておられたかがわかります。

聖光上人を慕って、多くの学僧が集まったといいます。

32歳の秋、聖光上人は若い頃学んだ明星寺へ久しぶりに訪ねました。

当時はたくさんのお堂があり、修行僧も多くおられたようです。

数年前に友人の案内で明星寺を訪れました。

説明板にはかつても隆盛が紹介されていました。

しかし今は人の気配もなく、ひっそりとたたずんでいました。

時代を聖光上人当時に戻します。

聖光上人には異母弟がおられ、当時明星寺で修行なさっていました。

お名前を三明房さまとおっしゃいます。

久しぶりに弟と会って、積もる話をしていたその時、突然

三明房さまは顔面蒼白になり、苦しみだしました。

もがき、あえいで生死を彷徨います。

了慧道光上人の『聖光上人傳』には「申より戌に至りて蘇生す」

と書かれていますので、午後四時頃に苦しみだし、

八時頃まで意識不明状態であったということです。

よく一命を取り留められたものです。

「忽ち眼前の無常に驚き、速やかに身後の浮沈を思ふ」と記されています。

「人の生き死にはいつどうなるかわからない。
そうだ!我が身もどうなるかわからないのだ!」

ニュースを観て、死を客観的にみることはあるかもしれません。

でもそれは他人事の域を出ません。

しかし死と隣り合わせなのは実は「この私」です。

聖光上人は「一人称の死」をはっきりと自覚されたのです。

聖光上人は大変ショックを受けられます。

さっきまで楽しく話をしていた、自分よりも年の若い、

元気であった弟が突然に苦しみ出したかと思うと、

生死を彷徨っている現場を目の当たりにしたときには

「死」を我がこととして自覚せざるを得ません。

聖光上人ご自身は、体格もしっかりとしておられます。

体力も知力も自信満々であったことでしょう。

しかし目の前の現実を見たときにはそんな自信も虚しく崩れ去ります。

「いつ死ぬかも知れない身とはいえ、命というのはこんなに儚いものなのか。

これを無常というのであるか。

何と恐ろしいことであろうか」

このように思われたことでしょう。

聖光上人はお生まれになると同時にお母さまを失われました。

そして幼い頃から仏道修行をしてこられました。

ですから「死」についてはずっと意識されてきたことでしょう。

しかし実際に目の前でつい先ほどまで元気で話していた

三明房さまの苦しむ姿を見た時に、

これ以上無い恐怖を感じられたのです。

私達の誰もが「いつか死ぬ」ということは知っています。

でもそれが本当に今来るかも知れないとまでは思っていません。

もし「今」死ぬならば、お金儲けなんて必要ないですね。

どんなに高級な車に乗っていても仕方ないですね。

もっと大事なことを今しなくてはなりません。

そうです。

今自分の命が尽きても、間違いなく極楽浄土へ往けるように

お念仏(なむあみだぶつと称えること)を称えるしかないのです。

『聖光上人御法語』前後編
大本山善導寺刊


2020年6月1日月曜日

聖光上人のご生涯④(念死念仏)

三明房さまが死の淵を彷徨われたお話を思うとき、

私の頭の中を駆け巡る過去の出来事があります。

実は私、京都の仏教大学を卒業してから三年間

一般企業に勤めたことがあります。

その会社に入社したばかりの頃のことでした。

バブル崩壊直後のことで、まだその余韻が残る頃です。

勤めていた会社の専務は大学時代ヨット部で活躍されていたこともあり、

福利厚生の一つとしてヨットを持っていました。

入社して間もなく、新入社員の歓迎会として、

我々もヨットに乗せてもらうことになりました。

大阪の北港のヨットハーバーを出ますと非常に

強い風が吹いていました。

大きめのヨットですが、すごく揺れます。

新入社員4名の他に専務と船舶免許をもっているグループ会社の

先輩が二人乗り、必死にヨットを操って下さいました。

そのお陰で何とか風に乗ることができました。

ようやく落ち着いたとばかりに先輩の一人、

Kさんが「フー」と安堵の溜息をついて、

ヨットの横の部分についているロープに寄りかかりました。

1メートルぐらいの高さのところに横にかけられているロープです。

Kさんが寄りかかったその時に大きな波がきて、

ヨットが大きく揺れました。

その瞬間Kさんは海の中に「ドボーン!」と落ちてしまいました。

私たち新入社員は思わず「アッ!?」と声をあげて驚いたのですが、

専務ともう一人の先輩は

「あーあ、落ちよった」と余裕の表情で言っています。

だから私も

「よくあることなのかも?」と思い落ち着きを取り戻しました。

すぐに残った先輩が手際よく、落ちたKさんに浮き輪を投げました。

でも少しのところで取ることができませんでした。

ヨットは帆に風をあてて進む乗り物ですからすぐに戻ることができません。

先輩と専務が必死にヨットを操作してKさんのところに戻りました。

そして急いで再び浮き輪を投げました。

今度はうまくKさんの届くところに浮き輪を投げ込むことに成功しました。

私たち新入社員は何もできずただ祈るだけです。

「よかった!Kさん!つかまって!」

ところがKさんの顔はこっちを向いているのですが、

浮き輪を目の前にしているのに手が挙がりません。

再度ヨットを操作しようとした時、Kさんは

もう海面に顔をつけて気を失っていました。

慌てて先輩が自分の体にロープを括り付けて飛び込んで助けに向かいます。

先輩がKさんの元まで泳いでゆき、Kさんをしっかと抱き「引張れ!」と叫びます。

私もロープを引っ張り、二人をたぐり寄せます。

しかし引き上げられたKさんはダラーンとして意識をなくしています。

専務と先輩が交代でKさんに心臓マッサージと人工呼吸を繰り返します。

最近救命救急の研修を受けますと人工呼吸はせず、

心臓マッサージを繰り返すように教わりましたが、

30年近く前にはこの二つを繰り返すことが推奨されていたようです。

その時の私は「こうしていれば息を吹き返すよね?!大丈夫なのね?!」

と信じていました。

専務と先輩は何度救命措置を繰り返したでしょうか。

専務がフラフラとへたり込んで「あかん」と力なく言いました。

私は「え?!あかん?どういうこと?!」と焦り、

専務に代わって、やったこともない心臓マッサージと人工呼吸をしました。

しかし全く意識を取り戻してくれません。

泳ぎは達者だそうですが、残念なことにライフジャケットも

着けていませんでしたので、洋服が体にピターンと張り付いて

身動きできなくなってしまったのでしょう。

Kさんは救急車で病院に運ばれましたが、そこから意識を取り戻すことなく、

二日後に亡くなりました。

Kさんはグループ会社の社員ですので、新入社員の私とは初対面でした。

そんな私たちにも気さくに優しい言葉をかけてくださいました。

私たち新入社員ははすぐに家に帰るようにとの指示を受けました。

帰宅すると家人はおらず、一人になりました。

すると涙があふれ出て止まらなくなりました。

怖いのです。

恐ろしいのです。

さっきまで元気でヨットを操作してくれてた人、

笑顔で冗談を言ってた人がほんの少しの時間海に浸かっただけで

息を引き取ってしまう。

もう怖くて怖くて震えながら「ナムアミダブ、ナムアミダブ」

とお念仏を称えている自分がいました。

その時すでに僧侶になるための行も終えてはいました。

企業には就職しましたけれども社会勉強をしていずれおに戻ろうと思ってはいました。

でも、恥ずかしながら本気で阿弥陀さまにおすがりしてお念仏を

お称えしたことがありませんでした。

情けないことでありますけれども、その時が初めてです。

「死」というものを本当に身近に感じました。

自分のこととして感じました。

Kさんが亡くなって悲しいということはもちろんですが、

それ以上に「死」が怖かったのです。

そして「今、このまま死んでしまったら自分に何があるんだろう?

自分は何をやってきてこれから死んだらどうなるんだろう?  」

本当に怖くて怖くて、口に出たのがお念仏でした。

まさに

「阿弥陀さま、お助け下さい。」という思いでした。

振り返りますと人生の転機が幾度かあります。

お念仏のみ教えに入る転機、深まる出来事、何度もありました。

Kさんの死は私にとって大きな転機でありました。


さて、聖光上人のお話に戻ります。

聖光上人は後に法然上人と出会い、お念仏のみ教えと出会われます。

それ以前も常に「死」を意識しつつ生きてこられた聖光上人です。

お念仏と出会ってからも「死」を常に念頭において、

ひたすらお称えになりました。

出ずる息、入る息を待たず、入る息、出ずる息を待たず、

助け給え阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏

といつもおっしゃっていたといいます。

出る息が入る息を待たない、入る息が出る息を待たない、

一息の間に命は尽きるものであるぞ、というのです。

「だから今お念仏なんだ」

「またいずれ称えましょうではだめなんだ」

「今称えねば、もう間に合わないかも知れないんだ!」

「常に死を念ぜよ、そして常に念仏せよ!」

ということです。

念死念仏」といいます。

この「念死念仏」が聖光上人のみ教えのベースになります。

死というものは決して他人事ではない。自分のことである

という強い自覚を持たれたのです。

福岡県久留米市にあります浄土宗の大本山善導寺の境内には

この念死念仏の碑が建っております。

三明房さまの出来事は聖光上人32歳の時のことでありました。

『聖光と良忠』
梶村昇