2020年11月25日水曜日

一紙小消息(いっしこしょうそく)』②(本文)


『一紙小消息(いっしこしょうそく)』の


本文と現代語訳を紹介いたします。

 

(本文)

末代(まつだい)の衆生(しゅじょう)を

 

往生極楽の機(き)にあてて見るに、

 

行(ぎょう)少なしとても疑うべからず。

 

一念十念に足りぬべし。

 

罪人なりとても疑うべからず。

 

「罪根(ざいこん)深きをも嫌わじ」と宣(のたま)えり。

 

時(とき)下(くだ)れりとても疑うべからず。

 

法滅(ほうめつ)以後の衆生、なおもて往生すべし。

 

(いわん)や近来(きんらい)をや。

 

我が身(み)わろ(悪)しとても疑うべからず。

 

「自身はこれ煩悩具足せる凡夫(ぼんぶ)なり」と

 

(のたま)えり。

 

十方に浄土多けれど西方(さいほう)を願うは、

 

十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)

 

衆生の生まるる故なり。

 

諸仏の中に弥陀に帰()したてまつるは、

 

三念五念に至るまで、自ら来迎(らいこう)し給う故なり。

 

諸行の中に念仏を用うるは、

 

彼の仏の本願なる故なり。

 

今弥陀の本願に乗じて往生しなんに、

 

願として成(じょう)ぜずと云(い)うことあるべからず。

 

本願に乗ずることは、信心の深きによるべし。

 

受け難(がた)き人身(にんじん)を受けて、

 

遇い難き本願に遇いて、

 

発(お)こし難き道心(どうしん)を発(お)こして、

 

離れ難き輪廻(りんね)の里を離れて、

 

生まれ難き浄土に往生せん事、

 

悦びの中の悦びなり。

 

罪は十悪五逆の者も生まると信じて、

 

小罪(しょうざい)をも犯さじと思うべし。

 

罪人なお生まる、況(いわん)や善人をや。

 

(ぎょう)は一念十念なお虚しからずと信じて、

 

無間(むけん)に修(しゅ)すべし。

 

一念なお生まる、況(いわん)や多念(たねん)をや。

 

阿弥陀仏(あみだぶつ)

 

不取正覚(ふしゅしょうがく)の言(ことば)

 

成就(じょうじゅ)して、

 

現に彼の国(かのくに)に在(ましま)せば、

 

めて命終(みょううじゅう)の時(とき)

 

来迎(らいこう)し給(たま)わん。

 

釈尊(しゃくそん)は「善(よ)き哉(かな)

 

我が教えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離る」

 

と知見(ちけん)し給(たま)い、

 

六方(ろっぽう)の諸仏は「悦(よろこ)ばしき哉(かな)

 

我が証誠(しょうじょう)を信じて、不退の浄土に生まる」

 

と悦び給うらんと。

 

天に仰ぎ地に臥(ふ)して悦ぶべし、

 

このたび弥陀(みだ)の本願に遇う事を。

 

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、

 

()の仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。

 

頼みても頼むべきは、

 

「乃至十念(ないしじゅうねん)の詞(ことば)

 

信じてもなお信ずべきは、

 

「必得(ひっとく)往生」の文(もん)なり。

 

 

 

(現代語訳)

 

末法の時代の衆生を、

 

極楽に往生できるかできないかの能力に

 

当てはめて考えるとき、(たとえ)行が少なくても、

 

疑ってはなりません。

 

一遍や十遍(の念仏)で充分なのです。

 

(たとえ悪業を犯す)罪人であっても、

 

疑ってはなりません。

 

「罪深くても、分けへだてはしない」と説かれています。

 

(たとえ)時代が下ったにしても、疑ってはなりません。

 

仏教が滅んだ後の衆生でさえ

 

往生することができるのです。

 

まして末法の今については言うまでもありません。

 

(たとえ)自身が悪くても疑ってはなりません。

 

(善導大師でさえも)「私たちは煩悩を具えた凡夫である」

 

と説かれています。

 

あらゆる方角に浄土は多くありますが、

 

西方(浄土)を願うのは、十悪・五逆の

 

罪を犯した衆生までもが生まれるからであります。

 

様々な仏がおられるなかで、

 

阿弥陀仏に救いを求めるのは、

 

三遍や五遍(しか念仏できずに死に臨む者)に至るまで、

 

(阿弥陀さまが)自らお迎え下さるからであります。

 

様々な行のなかで念仏を用いるのは、

 

かの阿弥陀仏の本願(の行)だからです。

 

今、阿弥陀仏の本願に乗じて往生したならば、

 

いかなる願いも成就しないはずはありません。

 

本願に乗じることは、信心の深さによります。

 

受け難い人間としての生を受け、

 

遇い難い(阿弥陀仏の)本願にめぐり合い、

 

起こし難い覚りを求める心を起こして、

 

離れ難い輪廻の境涯を離れ、

 

生まれ難い浄土に往生すること、

 

それは悦びのなかの悦びであります。

 

罪については

 

「十悪・五逆の罪を犯した者でも生まれる」

 

と信じながら、

 

「少しの罪も犯すまい」と思いなさい。

 

罪人でさえ生まれます。

 

まして善人は言うまでもありません。

 

行については、

 

「一遍や十遍の念仏でも必ず実を結ぶ」

 

と信じながら、絶え間なく称えなさい。

 

一度の念仏でさえ往生します。

 

まして多く念仏する者は言うまでもありません。

 

阿弥陀仏は「〔四十八の本願が叶わない限りは〕

 

正しい覚りを開くまい」という

 

〔誓いの〕言葉を成就して、

 

現にかの極楽国におられますので、

 

必ず命の終わる時にはお迎えくださるでしょう。

 

釈尊は「よいことだ。〔念仏者は〕私の教えに随って、

 

迷いの境涯を離れる」とお見通しになり、

 

六方の世界におられる諸仏は、

 

「悦ばしいことだ。私たちの証言(証明)を信じて、

 

覚りに向かって退くことのない極楽浄土に生まれる」

 

とお悦びくださっているでしょう。

 

天を仰ぎ、地にひれ伏して悦びなさい、

 

この生涯で阿弥陀仏の本願にめぐり合えたことを。

 

立ち居起き臥しにも報いるべきです、

 

かの阿弥陀仏の恩徳に。

 

頼みとした上になお頼みとすべきは、

 

「最低十念する人でも〔救い取ろう〕」

 

というお言葉であります。

 

信じた上にもなお信じるべきは、

 

「〔念仏すれば〕必ず往生することができる」

 

という一文であります。

 

(『法然上人のお言葉』総本山知恩院布教師会より)

仏説阿弥陀経①

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