2021年2月28日日曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑩ 下品下生(げほんげしょう)その八

(本文)


聞きおわって歓喜して、時に応じて


すなわち菩提(ぼだい)の心(しん)を発(おこ)す。


これを下品下生(げほんげしょう)の者と名づく。


これを下輩生想(げはいしょうそう)と名づけ、


第十六の観と名づく。




(現代語訳)


このような者を下品下生(げほんげしょう)の者といい、


以上の下品三生(げほんさんしょう)を


下輩生想(げはいしょうそう)といい、


第十六観(だいじゅうろっかん)というのである。





このように上品上生(じょうぼんじょうしょう)から


下品下生(げほんげしょう)まで、


九種類の人々の臨終の様子が描かれます。


この九種類の人々にはそれぞれの人生があります。


そして色んな縁があり、善い行いをする人もおれば、


悪事に手を染める人もいます。


ただ、どの人もおしなべて


凡夫(ぼんぶ)であることに違いはありません。


その凡夫(ぼんぶ)が極楽浄土へ往生する教えが


阿弥陀仏の本願念仏です。


阿弥陀仏の本願を信じ、極楽浄土への往生を願い、


「南無阿弥陀仏」と称える者は、


どんな者でもすべて極楽浄土への往生が叶います。


ではなぜ、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう』に


九種類の人々の臨終の状況に違いがあると


説かれるのでしょうか。


法然上人は、これは釈尊の巧みな手立てであり、


善人も悪人も同じところに往生するというと、


悪事に手を染める者が


「それならどんな悪いことをしていいじゃないか」と


慢心をおこすであろうから、


方便として階位の違いが説かれるのだ、とおっしゃいます。


ですから上品(じょうぼん)であっても


下品(げほん)であっても、念仏を信じて称える者は


必ず極楽浄土に往生することができます。


華の開く早さなども心配するに及びません。


ただ信じて称えるのみです。


2021年2月27日土曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑪ 得益分(とくやくぶん) その一

(本文)


この語を説きたまう時、韋提希(いだいけ)、


五百の侍女(じにょ)と与(とも)に、


仏の所説を聞き、時に応じて


すなわち極楽世界の広長(こうじょう)の相を見る。


仏身(ぶっしん)および二菩薩を見ることを得て、


心に歓喜(かんぎ)を生じて、


未曾有なりと歎(たん)じて、


廓然(かくねん)として大悟(だいご)して、


無生忍(むしょうにん)を得(う)。




(現代語訳)


さて釈尊は以上のことをお説きになった。


その間、韋提希(いだいけ)と


五百人の侍女たちは釈尊の説法を聞き、


適宜に極楽世界の広大ですぐれたありさまを見て取った。


そして阿弥陀仏と観世音、大勢至の二菩薩の


お姿を見奉ることができると、


韋提希(いだいけ)は心に歓びが生まれ、


「かつてないことだ」と感激して、


目から鱗が落ちるような境地を開き、


無生法忍(むしょうぼうにん)


という覚りを得たのである。






「得益分(とくやくぶん)」とは、


釈尊の説法を聞いた韋提希夫人(いだいけぶにん)と


五百人の侍女たちが得た利益(りやく)が


説かれるところです。


韋提希夫人(いだいけぶにん)と侍女たちは、


釈尊の説法を聞いて極楽浄土や阿弥陀さま、


観音勢至菩薩を目の当たりに


見ることができました。


つい「見たことがないから信じられない」と


言ってしまいますが、韋提希夫人(いだいけぶにん)と


侍女たちは、疑いようがありません。


韋提希夫人(いだいけぶにん)は、我が子


阿闍世王子(あじゃせおうじ)の暴悪に


「なぜ私がこんな目に遭わなくてはいけないの?!」と


恨み嘆いていましたが、今はそれらの迷い事は


すべて忘れてただ法の悦びに浸るのでした。


2021年2月26日金曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑫ 得益分(とくやくぶん) その二

(本文)


五百の侍女(じにょ)、


阿耨多羅三藐三菩提心


(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を


発(おこ)して、かの国に生(しょう)ぜんと願ず。




(現代語訳)


また五百人の侍女は、


この上ない完全な覚りを求める心を発(おこ)し、


かの阿弥陀仏の極楽世界に生まれたいと願った。





お釈迦さまから直接、自分にぴったり合う教えを


授かった人たちは多く覚りの境地に


誘(いざな)われました。


韋提希夫人(いだいけぶにん)は


覚りの境地へ導かれ、


侍女たちには覚りを求め「極楽浄土に生まれたい!」


という強い心が生まれました。


2021年2月25日木曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑬ 得益分(とくやくぶん) その三

(本文)


世尊、悉く皆まさに往生すべし、


かの国に生(しょう)じおわりなば、


諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんざんまい)を


得んと記(き)したまう。


無量の諸天は、無上道心(むじょうどうしん)


を発(おこ)す。




(現代語訳)


釈尊は彼女たち一人一人に


「汝らはかの極楽世界に必ずや往生するはずだ。


かの極楽世界に往生した後に


諸々のみ仏が目の前にまします境地を得る」


との予言をお与えになった。


また会座に連なった無量の天界の神々は


無上道心(むじょうどうしん)を


発(おこ)したのである。






釈尊に「極楽浄土へ必ず往生して、


間違いなく仏さまに逢えるよ」と


言われたら、どれほど嬉しいことでしょう。


釈尊滅後の修行者たちが、


多く「お釈迦さまに会いたかったなあ」


「お釈迦さまのおられる時代に生まれたかったなあ」


と嘆かれました。


釈尊に直接指導を受けることができれば、


韋提希夫人(いだいけぶにん)や


侍女たちと同じように、「いずれ覚りを開いて成仏できるよ」と


太鼓判をいただくことができたのでしょう。


法然上人は「釈尊のおられる時代に生まれることが


できなかったのは悲しみではあるが、


まだ仏教の教えが残っている時代に生まれたことは


悦ばしいことだ」とおっしゃっています。


私たちは釈尊の時代から遠く遅れて生まれてきましたが、


まだ仏法が残り、しかも「南無阿弥陀仏」と称えるだけで


極楽浄土へ生まれることができる教えを


知ることができました。


そう考えると、私たちも韋提希夫人(いだいけぶにん)や


侍女たちと同じように、悦ぶべき環境にあるのです。


2021年2月24日水曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑭ 流通分(るづうぶん) その一

(原文)


その時阿難(あなん)、


すなわち座より起(た)ちて、


前(すす)んで仏にもうしてもうさく。


世尊。


まさに何(いか)んがこの経を名づくべき。


この法の要(よう)をば、


まさに云何(いかん)が受持(じゅじ)すべき。




(現代語訳)


するとその時、阿難(あなん)は


すかさず自席から立ち上がって前に出て、


釈尊に次のように申し上げた。


「世尊よ、今、説き示されたこの経を


どのように名付けたらよいのでしょうか。


またこの教えの肝要をどのように理解し、


心に刻んでおいたらよいのでしょうか」






ここからが『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


流通分(るづうぶん)です。


「流通分(るづうぶん)」というのは、


お経の結びに当たるところです。


側近のお弟子である阿難(あなん)さまは、


ずっと釈尊の法話を聞いていました。


韋提希夫人(いだいけぶにん)がどのようにして


救われていったのか、詳細に聞きました。


阿難(あなん)さまはお釈迦さまの十大弟子の


お一人で、「多聞(たもん)第一」と讃えられる方です。


お釈迦さまのお側で長い間身の回りのお世話をされ、


最も多くの教えを聞いておられます。


その阿難(あなん)さまが、


「今拝聴した法話をどのように名付け、


またこの法話の要旨をどう理解すれば


よろしいでしょうか?」


とお尋ねになったのです。


阿難(あなん)さまは今まで


釈尊から度々、「仏の言葉を広め伝えよ」とか


「仏の言葉を忘れてはならぬ」と


言われてきました。


阿難(あなん)さまは「仏法を後の人に伝える」


という重大な役割を担っておられるのです。


2021年2月23日火曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑮ 流通分(るづうぶん) その二

(本文)


仏(ほとけ)、阿難(あなん)に告げたまわく。


この経を観(かん)極楽国土(ごくらっこくど)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)


観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)


大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)と名づけ、


また浄除業障生諸仏前


(じょうじょごっしょうしょうしょぶつぜん)


と名づくべし。


汝(なんじ)まさに受持して、


忘失(もうしつ)せしむることなかるべし。




(現代語訳)


釈尊が阿難(あなん)に仰せになった。


「この経を『観極楽国土(かんごくらっこくど)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)


観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)


大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)』と名付けよう。


あるいは『浄除業障生諸仏前


(じょうじょごっしょうしょうしょぶつぜん)』


とも名付けよう。


阿難(あなん)よ、汝はこの経を理解し心に刻み、


決して忘れてはならない。






「今拝聴した法話をどのように名付け、


またこの法話の要旨をどう理解すれば


よろしいでしょうか?」


という阿難(あなん)さまからの質問に対する


釈尊のご返答です。


「この話を表すには、【極楽浄土と無量寿仏、


観音勢至菩薩を観る】という意味の名前にしよう」


※無量寿仏…阿弥陀仏のこと


そしてこの話の大要は、「【数々行ってきた業(ごう)の


障りを消し去り、仏の前に生まれるお経】である。


そうであるから阿難(あなん)よ、


これを信じて受け入れて伝え、後の世までも


忘れさせるでないぞ!」との仰せです。


2021年2月22日月曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑯ 流通分(るづうぶん) その三

(本文)


この三昧(さんまい)を行(ぎょう)ぜん者は、


現身(げんしん)に、


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)および


二大士(にだいし)を見ることを得ん。


もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)、


ただ仏(ほとけ)の名(みな)、


二菩薩(にぼさつ)の名(な)を聞くすら、


無量劫(むりょうこう)の生死(しょうじ)の罪を除く。


何(いか)にいわんや憶念(おくねん)せんをや。




(現代語訳)


これまで説いてきた精神集中(三昧)を


実践する者は、今生の身で


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と


偉大なる観世音、大勢至の二菩薩を


見奉ることができる。


またもし男であれ女であれ善良なる人々が、


ただ単に無量寿仏の名と二菩薩の名を


耳にするだけでも、無量劫(むりょうこう)もの間


生死(しょうじ)を繰り返さねばならない


罪の報いさえ除かれる。


ましてや無量寿仏と二菩薩を憶念すれば、


さらに多くの罪の報いが除かれるのは言うまでもない。





三昧(さんまい)というのは、


仏さまや浄土に心を寄せて集中し、


目の前にそのお姿や情景を映し出す瞑想の境地です。


「贅沢三昧」とか「カニ三昧」などという言葉の


元は「瞑想の境地」なのです。


阿弥陀さまと観音菩薩、勢至菩薩の


お名前を聞くだけでも無量劫(むりょうこう)という


長い間積んできた罪が消えるというのです。


阿弥陀さまと目の前でお目にかかれたら、


どれほどの功徳がありましょうか。


2021年2月21日日曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑰ 流通分(るづうぶん) その四

(本文)


もし念仏せん者は、まさに知るべし。


この人は、これ人中(にんじゅう)の


分陀利華(ふんだりけ)なり。


観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)


大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)、


その勝友(しょうう)となる。


まさに道場に坐(ざ)すべきをもって、


諸仏の家に生(しょう)ずべし。




(現代語訳)


よくよく知っておけ。


もし念仏する者は、この人こそが


煩悩多き人々の中に咲く、


汚れなき白蓮華のようである。


そして観世音菩薩と大勢至菩薩が


その人のすぐれた友(勝友)となるのである。


未来には覚りを開く座に坐るべく、


諸仏の家系に連なるのである。






分陀利華(ふんだりけ)とは


古代インド語(サンスクリット語)で


白蓮華のことをいいます。


煩悩にまみれたこの世で念仏を称える人を


泥の中から真っ白な美しい華を咲かせる蓮に


譬えられたのです。


善導大師はこの箇所を注釈して、


念仏を称える人を好人(こうにん)、


妙好人(みょうこうにん)、上上人(じょうじょうにん)、


希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)であると


おっしゃっています。


阿弥陀さまから誉め讃えられる人だというのです。


ここから、浄土宗の教えを五つ重ねにして


しっかりと相伝する「五重相伝」を受けた人には


戒名に「○誉」という二文字が加えられるのです。


現世において、念仏を称える人には


観音菩薩や勢至菩薩に友となっていただけるという


素晴らしい特典が与えられます。


更には他の菩薩方も影の如くに寄り添ってくださり、


昼夜ずっとお護りくださいます。


未来にはなんと阿弥陀さまと座を共にすることができます。


いずれ仏になるべく、阿弥陀さまのご家庭たる


極楽浄土に生まれることができるのです。


2021年2月20日土曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑱ 流通分(るづうぶん) その五

(本文)


仏(ほとけ)、阿難(あなん)に告げたまわく。


汝(なんじ)好(よ)くこの語を持(じ)せよ。


この語を持(じ)せよとは、


すなわちこれ無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の


名(みな)を持(じ)せよとなり。




(現代語訳)


そして最後に釈尊は阿難(あなん)に仰せになった。


「汝、今、私が説き示したこの教えを


しっかりと胸に刻み込め。


この教えを胸に刻み込めとは、


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の御名(みな)を


胸に刻み込め、ということに他ならない」






観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には


瞑想修行や様々な善行が説かれています。


その数々の修行を差し置いて、


釈尊は「無量寿仏の名前」を


未来の人々に伝え残せと阿難(あなん)さまに


託されました。


「無量寿仏」はすなわち「阿弥陀仏」です。


つまりは「南無阿弥陀仏」と称える「念仏」を


未来に伝え残せとおっしゃっているのです。


このように師匠が弟子に教えの奥義を相伝し、


後世に伝え託すことを「付属(ふぞく)」といいます。


法然上人はこのことを重視され、


「釈尊は種々の行を付属せずに、


ただ念仏をもって阿難(あなん)さまに付属なさった」


とおっしゃています。


「南無阿弥陀仏」と称える念仏は


阿弥陀仏が自ら「我が名を呼べよ」と


指定された「本願」であるだけでなく、


釈尊が種々の行を差し置いて


「付属」なさった行なのです。


2021年2月19日金曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑲ 流通分(るづうぶん) その六

(本文)


仏(ほとけ)、この語を説きたまう時、


尊者(そんじゃ)目犍連(もっけんれん)・


阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)等、


仏(ほとけ)の所説(しょせつ)を聞きたてまつりて、


皆(みな)大いに歓喜(かんぎ)す。




(現代語訳)


釈尊がこの言葉を説き終えると、


目連尊者と私阿難(あなん)


そして韋提希(いだいけ)たちは


釈尊がお説きになったお言葉を聞いて、


誰もがみな大いに歓んだのである。






「この語を説きたまう時」とは、


この念仏を付属して宮中における説法を


終えられた時を示します。


この時左右におられた目連さま、


阿難(あなん)さまはもちろんのこと、


韋提希夫人(いだいけぶにん)と


五百人の侍女たち、その他空中で


説法を聴いている天人に至るまでが


この説法を聴き終わり、みんな大いに


悦ばれたのです。


2021年2月18日木曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑳ 耆闍分(ぎしゃぶん)

(本文)


その時世尊(せそん)、足(みあし)、


虚空(こくう)を歩みて、


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に還りたまう。


その時阿難(あなん)、


広く大衆(だいしゅ)の為に、


上(かみ)のごとき事(じ)を説く。


無量の諸天および龍・夜叉(やしゃ)、


仏(ほとけ)の所説(しょせつ)を


聞きたてまつりて、皆大いに歓喜(かんぎ)して、


仏(ほとけ)を礼(らい)したてまつりて退きぬ。


仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)




(現代語訳)


それから釈尊は空中を歩いて、


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)にお帰りになった。


そして私阿難(あなん)は、


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に集っていた


大衆のために以上の王舎城(おうしゃじょう)での


出来事を述べたのである。


その場にいた出家修行者たちや諸菩薩はもちろん、


数限りない神々や龍神、夜叉もまた


釈尊がお説きになった教えを聞いて、


誰もがみな大いに喜んで釈尊を礼拝して


立ち去ったのである。


仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)






この最終の項を「耆闍分(ぎしゃぶん)」といいます。


釈尊の命により、阿難(あなん)さまが


王宮で聴いた釈尊の教えを


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に帰って、


大衆にもう一度説くところです。


大衆は教えを聴いて歓喜して、


各々釈尊に礼拝して帰っていくのです。


このように一つのお経の中で、


繰り返し教えが説かれるのは、極めて稀なことです。


釈尊は人々の能力に合わせて、


種々の行を説かれました。


ですから能力の高い人は瞑想などの


高度な修行をして覚りに至ればいいのです。


一方念仏は、能力の差に関係なく


「阿弥陀仏の本願を信じて南無阿弥陀仏と称える


だけで誰もが救われる」という行です。


釈尊は「すべての者を救いたい」と


願っておられるに違いありません。


それならば、あらゆる種々の行は説きながらも


「本当の目的は念仏を説くことにあった」と


言っても過言ではないでしょう。


法然上人はこのことを「釈迦の出世の本懐(ほんがい)」


とおっしゃっています。


「釈尊がこの世にお姿を顕されたのは、


お念仏を説くことが目的であった」ということです。


この耆闍分(ぎしゃぶん)で繰り返し教えを説かれたのは、


この念仏の教えを末代の人々に知らしめて、


みな悉く極楽へ往生させたい、という


釈尊の御心を表すのです。


お慈悲の深さ、いかに懇切丁寧であるかに


感じ入らずにはおれません。


仰いで信じなくてはなりません。



解説は以下の二書によりました。

謹んで感謝申し上げます。


『浄土三部経概説』坪井俊映著

『浄土三部経和解』川合梁定著


「下品下生」の項終わる。

2021年2月17日水曜日

二河白道(にがびゃくどう) ① 在阿(ざいあ)さまの問い

お念仏を称えるようになったら、


人格が高まり欲が消えて、


腹も立たなくなるのかと思ったら、


どうもそう簡単にはいかないようです。


在阿(ざいあ)というお坊さまが、


浄土宗の第三祖、良忠(りょうちゅう)上人に


このような質問をなさいました。


「阿弥陀さま、どうぞ極楽へ往生させて下さい」


と思って念仏しているのに、


私の欲深い心はちっとも治まらないじゃないか。


怒りの心も今なお消えそうにない。


それに対して「極楽へ往生したい!」


という思いはもっと強くなってもよさそうなのに、


ならないじゃないか。


これはどういうことでしょうか?という内容です。


例えばこれから気の合う友達や、


可愛い孫と一緒に温泉に旅行に


行くのは楽しみですよね。


ウキウキします。


でも「極楽へ往生したい」という思いは、


あるにはあるけれど、


ウキウキするほどの楽しみでもない。


念仏したいとは思うのですが、


それほど強くは沸いてこない。


「そうなんだよなあ」と同意される方も


多いのではないでしょうか。


それに対して良忠(りょうちゅう)上人は


どのようにお答えになったのでしょうか。



良忠上人のご生涯はコチラ

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2021年2月16日火曜日

二河白道(にがびゃくどう) ② 良忠(りょうちゅう)上人の回答

在阿(ざいあ)さまからの質問に対して


良忠上人(りょうちゅうしょうにん)は


このようにお答えなさいました。


「お答えしましょう。


在阿さん、貪りや瞋りの煩悩は


最近身につけたものではないでしょう?


何度も生まれ変わり死に変わりする中で


始まりのない昔から、


あなたの身についてきたものですよ。


そう簡単にはなくなりません。


しかし、極楽へ生まれたいと願う心は


最近になってようやく出てきた心でしょう。


これは当然弱いのです。


でも心配する必要はありません。


どれだけ煩悩が激しく湧いてこようとも、


阿弥陀さまの本願の力が働いています。


煩悩を持つあなたが称える念仏の声を


阿弥陀さまが聞き逃されることはありません」


と説き、「二河白道(にがびゃくどう)の譬えを


よくよく見合わせてご覧ください」


とおっしゃいました。


その「二河白道(にがびゃくどう)の譬え」とは


どういうものなのでしょうか。


2021年2月15日月曜日

二河白道(にがびゃくどう) ③ 二河白道(にがびゃくどう)の譬え その一

「二河白道(にがびゃくどう)の譬え」とは、


法然上人のお師匠さまである、


中国の善導大師(ぜんどうだいし)の


『観経疏(かんぎょうしょ)』という


書物に出る譬えです。


この「二河白道(にがびゃくどう)」は、


「極楽往生を願う心」について説くための譬えなのです。




東の方から旅人が西へ向いて


一人トボトボと歩いて来る。


道を尋ねようとも教えてくれる人とも出会わない。


その旅人の目の前に突然二つの河が現れる。


南側にはは火の河、北側には水の河。


二つの河は底なしの深さで、広さは百歩(ひゃくぶ)。


     ※善導大師が活躍された中国唐の時代は、一歩(いちぶ)が

        1.56メートル。よって百歩(ひゃくぶ)は156メートル。


南北には際限なくずっと続いている。


その水と火の二つの河の間に


白い道が一筋通っている。


その道の広さは4,5寸(12㎝~15㎝)で、


長さは川の幅と同じく百歩(ひゃくぶ)。


その白い道に北の水の河からは波が被さる。


南の火の河からは炎に覆われ、道が焼かれる。


水と火が交わって止むことがない。


旅人が一人寂しく旅をしていると、


獣や賊が狙い襲ってくる。


逃れようとして西へ西へと進んだときに


この二つの河が目の前に現れた。


2021年2月14日日曜日

二河白道(にがびゃくどう)④ 二河白道(にがびゃくどう)の譬え その二

二河を目の前にして逃げようにも


河は南北に際限なく続く。


向こう岸に逃げてしまいたいけれど、


この白い道は余りにも狭くて


向こう岸には渡れそうもない。


引き返そうとすると、盗賊や獣が追いかけてくる。


南北に避けて走ろうとすると、


獣や毒虫が向かってくる。


だからといって河を渡ろうとすると


水の河か火の河に落ちる。


引き返しても死ぬ。


立ち止まっても死ぬ。


前に進んでも死ぬ。


どうやっても死んでしまう。


旅人は覚悟を決める。


戻っても立ち止まっても進んでも死ぬのなら、


前に進もうと。


2021年2月13日土曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑤ 二河白道(にがびゃくどう)の譬え その三

旅人が覚悟を決めたその時、


東の岸、つまり旅人の後ろから声がする。


「大丈夫だと信じてその白い道を渡れよ。


立ち止まったら死んでしまうぞ」


西の岸からは


「まっすぐにやって来い。


私が護ってやるから水や火を恐れずにやって来い」


という声が聞こえてくる。


東からの行けという声と


西からの来いの声に励まされて、


旅人は決心して白い道を進もうとする。


ところが少し歩き出すと


東の岸から賊達の叫び声が聞こえる。


「帰ってこい!悪いことは言わん。


そんな細い道を通って渡れるわけがないぞ。


間違いなく死んでしまうぞ!


悪いことは言わん!


戻って来い!」


その声を聞いても一切耳を貸さずに


ただひたすらに進んで行くと、


西の岸に無事到着する。


東の賊や獣たちからの危険もなくなり、


善い友に囲まれて幸せに過ごした。





以上が善導大師(ぜんどうだいし)によって


説かれた二河白道(にがびゃくどう)という譬えです。


この譬えは何を意味しているのでしょうか。


次回からこの譬えが意味するところを


お伝えしてまいります。


2021年2月12日金曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑥ 譬えの解釈 その一

前回まで「二河白道(にがびゃくどう)」の


譬喩をご紹介してまいりました。


今回からはこの譬喩が何を意味しているのかについて、


善導大師(ぜんどうだいし)ご本人の解説をご紹介します。




東の岸というのは、私たちの「現実の苦悩の世界」


をあらわします。


西の岸は、極楽浄土をあらわします。


また、私たちは目や耳、鼻、舌、身体、心で


様々な感覚を味わい、考え、喜び、悩み、


楽しみ、苦しみます。


そういった外部からの数え切れないほど多くの


情報に反応して私たちの心は揺れ動きます。


譬えの中に出てくる獣はそれらの情報や


情報を受け取る我々自身をあらわします。


旅人が一人寂しく彷徨っているのは、


「本当に自分を良い方に導いてくれる友」と


未だに遭っていない私たちの状況をあらわします。


次回は水の河と火の河が


何をあらわすのかをお伝えします。


2021年2月11日木曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑦ 譬えの解釈 その二

「二河白道(にがびゃくどう)」の「二河(にが)」、


すなわち水の河と火の河は何をあらわすのでしょうか。


「水の河」は私たちの「貪りの煩悩」をあらわし、


「火の河」は「怒りの煩悩」をあらわします。


二河の間を通る、幅わずか四五寸の


「白道(びゃくどう)」は、貪りや怒りの


煩悩の中から、「浄土への往生を求める清い心」が


生まれることにたとえられています。


波が常に道を濡らすのは、愛欲の心が常に起こり、


善い心を汚すことをあらわします。


また、火の河が常に道を焼くというのは、


怒りの心が仏法の功徳を


焼き払ってしまうことにたとえられます。


東の岸から旅人が白道を歩むことを


勧める声は、「お釈迦さまの教え」をあらわします。


お釈迦さまはすでに入滅されて、


お姿を見ることは叶いませんが、


教えが現代にもきちんと伝わっていますので、


聞くことができます。


それをあらわすのです。


2021年2月10日水曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑧ 譬えの解釈 その三

旅人が勇気を出して、少しずつ進み出すのは、


私たちがお念仏と出会い、阿弥陀さまの御心に適うように


念仏を称え出すことをあらわします。


そこに盗賊たちが呼び返すのは、


念仏の教えと異なる見解を持つ人や、


異なる修行をする人たちが、自らの考えを説いて


私たちを念仏から遠ざけようとすることに


譬えられるのです。


西の岸から人の呼ぶ声が聞こえるのは、


阿弥陀さまの本願の御心を譬えたものです。


西の岸に着いて善き友と喜び合うというのは、


お念仏の教えと出会えた喜びです。


私たちは長い間迷いの世界を、生まれては死ぬことを


繰り返し(輪廻)、ずっと逃れることができませんでした。


お釈迦さまがそんな私たちを極楽へと


導くために「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」を


お説きくださいました。


阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を救う」という


「本願」を建ててくださり、私たちを極楽へ


迎え入れようと手を差し伸べてくださっています。


このお釈迦さまと阿弥陀さまの御心を信じ随って、


水火(貪りと怒り)の二河をかえりみずに


本願を忘れることなく念仏を称え、


命尽きた後に極楽浄土に往生して


阿弥陀さまとお会いできることは


この上ない喜びでありましょう。

2021年2月9日火曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑨ 白道 を歩む私 その一

白道(びゃくどう)を歩む旅人は、「今現在の私」です。


他人の発する言葉に反応し、喜んだり落ち込んだり、


自信を持ったり不安に陥るなど、


自分の感情に振り回されて、人生を歩んできました。


その私がつい最近、お念仏の教えと出会ったのです。


ただ、お念仏の教えと出会っても、


それですぐそのまま苦しみが無くなる


わけではありません。


だから身辺にトラブルが起こると、


「極楽浄土へ往こう!」という気持ちが


シュンと失せてしまうのです。


その私の弱い「極楽往生を願う心」を表すのが


わずか四五寸の幅しかない白道(びゃくどう)です。


白道(びゃくどう)の幅の細さは、


すなわち私たちの「極楽往生を願う心」の


弱さを表すのです。


阿弥陀さまの本願の力はとても強いのですが、


私たちの「極楽往生を願う心」は


とても弱く頼りないものです。


2021年2月8日月曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑩ 白道を歩む私 その二

念仏を称えていても、「欲しい欲しい」という


欲張りな心は起こります。


欲が過ぎれば念仏どころでは


なくなってしまいます。


それが旅人の右側、水の河です。


水の河は貪りの心を表します。


貪瞋痴(とんじんち)の貪です。


また念仏を称えていても、


自分の思い通りにならなくなると腹が立ちます。


腹が立って腹が立って腸が煮えくりかえると


念仏どころではなくなります。


それが旅人の左側、火の河です。


火の河は瞋りの心を表します。


貪瞋痴(とんじんち)の瞋です。



貪について

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_16.html


瞋と痴について

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_17.html


2021年2月7日日曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑪ 白道を歩む私 その三

ここに登場する旅人は現在の私自身であると申しました。


二河白道(にがびゃくどう)は


「私が死んでから細い道を歩む」


のではありません。


念仏を称えて生きていこうと


信仰を決めた私ですが、それですっかり心が安定して、


一生涯ずっと揺らぎ無く信仰していく、


というわけには、なかなかいきません。


私たちには煩悩があります。


念仏を称えていたら、煩悩がなくなるのではありません。


称えていても煩悩はあります。


頻繁に欲張りの心、腹立ちの心、


高慢な心、疑いの心を起こす私たちです。


それらの心が過ぎれば、念仏信仰を失いかねない


頼りない私たちです。


そんな私自身を表すのが旅人の姿なのです。


2021年2月6日土曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑫ 白道を歩む私 その四

念仏を称えて生きていこうと心が和らぐと、


他の信仰や見解を持つ人の言葉が


耳に入ってきやすくなります。


信仰と無縁の生活を送っている時には


宗教のことには耳を貸さなかったことでしょう。


しかし信仰が芽生えて、あらゆるものを


「ありがたいなあ」と思えるようになり、


素直な心になったときに、


他の信仰や見解を持つ方が言う言葉は気になるものです。


しかし、それに乗ってはいけません。


他の信仰が悪いとか、間違っているという


話ではありません。


同じ仏教の中の他の宗派も、


すべてお釈迦さまの教えですから、


それが間違っているはずはありません。


キリスト教やイスラム教、ユダヤ教、


神道、儒教、新興宗教など、


数え切れない数の宗教があります。


それらを信じている人はそれでいいのです。


ただ、念仏を信じて、


これから称えていこうという者は


他の宗教や他の見解を聞いて迷っていてはいけません。


他の宗派や宗教の話を一々に聞いて、


「それも一理ある」などと言っていたら、


信仰がフラつくのです。


宗教だけではありません。


「科学的にみたら、極楽なんてあり得ないよ」と


学のある人から言われたら、


「そうかな」と迷ってしまうのではないでしょうか。


2021年2月5日金曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑬ 白道歩む私 その五

念仏の信仰に目覚めた者だからこそ、


他の宗教や見解の方に何か言われると、


かえって迷いやすいといえます。


しかしそんなことではいけません。


お釈迦さまが浄土三部経を説いてくださり、


私たちに「阿弥陀仏を信じていけよ」と


励まし、後押しをしてくださっています。


阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を必ず極楽へ迎え取るぞ」と


両手を広げて願ってくださっているのです。


お釈迦さまは「往け!」、阿弥陀さまは「来い!」と


私たちに呼びかけてくださっています。


私達が本気で救いを求めるならば、


「こっちにもこんな教えがある」


「あっちにもこんな教えがある」と


フラついていてはいけません。


それは救いから自らを遠ざけることになります。


阿弥陀さまを信じ、極楽への往生を願い、


念仏しようという者は、


他にどんなことを言われようとも、


どういう誘いや誘惑があったとしても、


脇目もふらずお念仏を称えていきましょう。


2021年2月4日木曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑭ まとめ その一

今まで向かう方向さえも分からなかった私が、


念仏の教えと出会い、ようやく方向が定まりました。


しかし念仏を称えていこうと思って生きていても、


やはり欲はあり、腹も立ちます。


信仰の浅い人はそれだけで念仏を失ってしまいます。


「ありがたいな」と思って念仏をし始めても、


日常生活に戻るとそのありがたさも失せて、


すっかり元に戻ってしまうのです。


欲や怒りに振り回されるだけの


毎日に戻ってしまって、念仏の信を


失うことがありうるのです。


こういう状態をあらわすのが「二河白道の譬喩」


における火と水の河です。


また、念仏を称えていると他の信仰や見解の人の


言葉が入りやすくなります。


「念仏みたいな年寄り臭いものはやめて、


楽しく過ごそうよ」という誘惑もあるでしょう。


それがもしかすると、我が子や孫の誘惑かもしれません。


また「念仏なんて称えても救われないよ、


こっちの方が正しいよ」と


言ってくる人がいるかも知れません。


「科学的にみたら極楽なんてないよ」という


もっともらしいことを言う人もいるでしょう。


そういう声が聞こえてきているのが


真ん中の白い道を歩いている旅人であり、


今の私たちなのです。


2021年2月3日水曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑮ まとめ その二

念仏信仰に入ったのに、他の人からの言葉に


容易く惑わされる私たちです。


そこに東からお釈迦さまの声がします。


「絶対大丈夫だから


阿弥陀さまの本願を信じて念仏称えて進めよ」


後ろからお釈迦さまがそう励まして下さるのです。


西からは阿弥陀さまが


「私を信じて念仏して進めよ。


間違いなく救いとってやるから」と


声をかけて下さっているのです。


「釈迦は行け、弥陀は来いよの中は我 


押され引かれて参る極楽」


お釈迦さまは「行け」と言って下さる。


阿弥さまは「来い」と言って下さる。


それを信じて念仏していけばよいのです。


お釈迦さまと阿弥陀さまが間違いないと


言って下さっているのに、


わざわざ凡夫(ぼんぶ)の言うことに


振り回されるのが私たちです。


信じるのは「仏さま」です。


凡夫(ぼんぶ)ではありません。


念仏というのは誰にでもできる非常に簡単な行です。


信仰もなく一遍だけ称えるのであれば、


本当に誰だってできるでしょう。


でも続けていくのは簡単ではありません。


そして信じ続けるということは難しいものです。


信じてからが正念場なのです。


これを「信後(しんご)の用心」といいます。


「ありがたい!」と信じた後が問題です。


色んなことがあるけれど、


お釈迦さまと阿弥陀さまのおっしゃることを信じて、


それに励まされて念仏を称えて生きていくのです。


これこそが二河白道(にがびゃくどう)の譬喩を


説かれた意味です。


2021年2月2日火曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑯ まとめ その三

最後にもう一度、在阿さまの質問に戻ります。


「生きていく中で貪りや怒りは放っておいても


どんどん湧いてくる。


でも極楽へ往生したい!という気持ちは


そこまで強くはならない。


どうしたらいいのですか?」という質問でした。


お答えになる良忠(りょうちゅう)上人は、


「貪りとか怒りといった煩悩は、


誰に教えられたわけでもないのに


どんどん湧いてくる。


これは生まれ変わり死に変わり、


輪廻(りんね)を続ける中で、


記憶にない遠い昔から


培ってきたものであるから強いのは仕方がない。


それに対して極楽往生したいという心は


最近ようやく身についたことだ。


だから弱いのは仕方がない。


二河白道(にがびゃくどう)の譬喩を


よくよく見直しなさいよ」ということでした。


自分の煩悩や他人の言葉など、


色んな誘惑があるけれど、


お釈迦さまと阿弥陀さまが、


「念仏を称えていけよ。


必ず極楽浄土へ往生することができるから」と


お示しくださるのですから、


ただそれだけを信じて念仏を称えればいいのです。


危うい時にはお釈迦さま、阿弥陀さま、


善導大師(ぜんどうだいし)、法然上人、


二祖聖光(しょうこう)上人、


三祖良忠(りょうちゅう)上人の言葉を


確認しつつ信仰の道を歩みましょう。


自分の感情にまかせていると、


好き勝手な方へと簡単に行ってしまいます。


頼りない自分自身の本質を自覚して、


危うい方向へ行かないように


今後も気をつけていきたいものです。


(二河白道の項終わる)


仏説阿弥陀経①

 釈尊が説かれた多くの経典の中で、 浄土宗は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の 三経典を所依(しょえ)の経典として大切にします。 この三経典を法然上人は 『浄土三部経』と名づけられました。 これらの概要は先にこのブログ内で上げています。 「浄土宗の教え第1部 浄土三部経」 ...