2021年3月31日水曜日

一枚起請文④ 往生のためには念仏だけ

本文

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、

疑いなく往生するぞと思い取りて申す外(ほか)には

別の仔細(しさい)候わず。」

 

現代語訳

「ただ、極楽へ往生するためには、南無阿弥陀仏と

称えるのです。

間違いなく往生するのだ、と思い定めて

お念仏を称える以外には何も細かなことはありません。」

 

 

 

極楽浄土は、「極楽浄土へ往きたい」と願う人が

 

往く所です。

 

往きたくない人を阿弥陀さまが

 

無理矢理連れて行くのではありません。

 

「極楽浄土へ往きたい」と願う、

 

誰もができるのがお念仏です。

 

往きたくない人にとれば、

 

これほど簡単なお念仏でも、「面倒くさい」と

 

思うことでしょう。

 

「極楽なんて往かなくてもいい。

 

私には地獄でじゅうぶんです」

 

などと、うそぶく人もいるかもしれません。

 

私たちは過去世の苦労を忘れてしまうので、

 

同じ過ちを繰り返してしまいます。

 

かつてあれほど地獄で苦しんだのに、

 

そんなことは一切記憶に残っていないので、

 

極楽浄土を求める心が起きにくいのです。

 

しかし、このわずか数十年の人生を生き抜くだけでも

 

これほど苦労が多いのです。

 

地獄の苦しみは、その比ではありません。

 

決して地獄行きを望むようなことがあってはならないのです。

 

「極楽浄土に往きたい」と願い、お念仏を称えるならば、

 

100%極楽往生は叶うのです。

2021年3月30日火曜日

一枚起請文③ 学識でもない

本文


「また学問をして、念の心をさとりて

申す念仏にもあらず。」

 

現代語訳

「また、仏教の教えを学んで、

念仏の意味内容を理解し尽くした上で

称える念仏でもありません。」

 

 

仏教のことを詳しく知っている人が

 

称える念仏の方が、あまり知らない人の念仏よりも

 

格上のような気がしませんか?

 

しかし、たとえばテレビの構造を知らなくても

 

リモコンの操作をすれば、

 

テレビを観ることができるように、

 

仏教のことを詳しく知らなくても、

 

「念仏を称えれば」極楽浄土へ往生できます。

 

阿弥陀仏は「苦しむ人々をすべて救いたい」と

 

願ってくださっています。

 

もし、「仏教の教えを深く知り尽くした人が救われる」

 

のであれば、学問が不得手な人は

 

極楽往生ができない、ということになります。

 

私たちは「勝敗」「優劣」「賢愚」「強弱」「貧富」

 

など、他者と比較して自分の位置を確認します。

 

そして「勝敗」なら「勝」がよく、

 

「優劣」なら「優」がよく、

 

「賢愚」なら「賢」がよく、

 

「強弱」なら「強」がよく、

 

「貧富」なら「富」がよいと思い込んでいます。

 

しかし、阿弥陀さまがご覧になれば、

 

比べ合いをしている両者共、

 

煩悩に苛まれてもがいている「凡夫(ぼんぶ)」です。

 

自分の力で苦しみ迷いの世界から逃れる術を知らず、

 

自分で自分を救うことができない者でしかありません。

2021年3月29日月曜日

一枚起請文② 観念の念仏にあらず

今回から本文を解説してまいります。

 

本文

「もろこし我が朝(ちょう)に、

もろもろの智者達の沙汰し申さるる、

観念の念にもあらず。」

 

現代語訳

「〈浄土宗の念仏は、〉中国や日本において、

多くの智慧(ちえ)ある学僧たちが

議論なさっている、

仏を観想(かんそう)によって

見ようとする念仏でもありません。」

 

「もろこし」は「唐土」とも書き、

 

今の「中国」を指します。

 

「我が朝(ちょう)」は「日本」です。

 

念仏は「仏を念じる」と書きます。

 

「念じる」というのは普通「心で思う」ことです。

 

浄土宗でいう「念仏」は「称名(しょうみょう)念仏」

 

といって、「声に出す」念仏です。

 

今の私たちは「念仏」といえば、

 

「称名(しょうみょう)念仏」のことだと

 

思い込んでいますが、

 

実は、念仏にはいくつかの種類があります。

 

その内の一つが「観念の念」です。

 

『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』の中、

 

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には

 

「極楽浄土」や「阿弥陀仏」「観音菩薩」「勢至菩薩」

 

を目の前に映し出すための瞑想のやり方が

 

記されています。

 

簡単に申しましたが、もちろん非常に高度で

 

難しい修行ですから、実際にできる人は殆どいません。

 

その瞑想の境地を三昧(さんまい)といいます。

 

善導大師(ぜんどうだいし)や法然上人は、

 

その「三昧の境地」を体験されています。

 

ただ、私たちにそれができるかと言えば・・・

 

現実的ではありません。

 

阿弥陀さまが、もし、極楽浄土へ往くための条件を

 

「三昧の境地に達したならば」とされたならば、

 

私たちは極楽往生の望みを絶たれたことになります。

 

しかし、阿弥陀さまはそんな困難な修行を

 

極楽往生の条件にはなさいませんでした。

 

極楽浄土へ往くための条件は、ただ一つ。

 

「我が名を呼べ」です。

 

「阿弥陀仏の名を呼ぶ」、

 

すなわち「南無阿弥陀仏と称える」ことが

 

極楽浄土へ往生する唯一の条件なのです。

2021年3月28日日曜日

一枚起請文① 一枚起請文(いちまいきしょうもん)とは

法然上人が残された文章の中で、

 

私たちが最もよく拝読するのが

 

この『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』

 

だといえるでしょう。

 

法然上人は建暦(けんりゃく)二年の正月二十五日に

 

極楽浄土へ往生されました。

 

そのわずか二日前に、側近のお弟子である

 

勢観房源智(せいかんぼう げんち)上人が

 

「浄土宗の肝要をお示しください」と懇願され、

 

その願いに応えて病床の身を起こし、

 

一枚の紙にしたためられたと言われています。

 

源智(げんち)上人は、浄土宗にとって

 

とても重要な方です。

 

その源智(げんち)上人につきましては

 

以前「聖光上人のご生涯」と「良忠上人のご生涯」


で触れましたのでそちらをご覧ください。

 



 「聖光上人のご生涯」より

https://hourinji.blogspot.com/2020/06/blog-post_3.html



「良忠上人のご生涯」より

 https://hourinji.blogspot.com/2020/06/blog-post_11.html

 



『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』と同内容の書簡を

 

浄土宗第二祖「聖光(しょうこう)上人」も

 

授かっておられ、「ご誓言の書(ごせいごんのしょ)」

 

として今に伝えられています。

 

聖光(しょうこう)上人が、いつ法然上人から

 

この書簡を授かったのかはわかりませんが、

 

臨終間際ではありませんから、

 

法然上人は、かねてより「浄土宗の肝要」として

 

この文章を用意されていたのだと思われます。

 

もしかしたら、このお二方以外にも法然上人から

 

授かった方もおられるかもしれません。

 

その中、私たちが日々拝読している

 

『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』は

 

法然上人の臨終間際に、

 

今の総本山知恩院勢至堂(せいしどう)

 

辺りにあった庵にて、

 

源智(げんち)上人に授けられたと伝わるものです。

真身観文(しんじんがんもん)④

 (本文) 仏身(ぶっしん)の高さ、六十万億(ろくじゅうまんのく) 那由他(なゆた)恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)なり。 (現代語訳) 阿弥陀仏の背の高さは、六十万億(ろくじゅうまんのく) 那由他(なゆた)恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)です。 (解説) 次に阿弥陀さまの背の高...