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2021年3月10日水曜日

下品下生(げほんげしょう) ① どんな悪人でも救われる?!

浄土宗の教えは


「凡夫(ぼんぶ)が極楽浄土へ往生する」


ための教えです。


また「どんな悪人でも極楽浄土へ


往生することができる」と説かれます。


そう聞いて「それならどんなに悪いことを


してもいいじゃないか」と考える人が


昔からたくさんいました。


でもそんな意味であるはずがありません。


このことは以前


「所求(しょぐ)・所帰(しょき)・去行(こぎょう)」


の項に書きました。



所求(しょぐ)・所帰(しょき)・去行(こぎょう)

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_20.html




この「どんな悪人でも救われる」ということは、


浄土三部経の中


『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


最後に説かれます。


仏教における代表的な罪である


「十悪(じゅうあく)」「五逆(ごぎゃく)」の


罪人が救われるというのです。


誤解を招く箇所でありながら、


とても重要なところですので、


法輪寺のお経本にはこの


『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


「下品下生(げほんげしょう)」を載せています。


今回よりこの『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の内、


「下品下生(げほんげしょう)」から最後までをご紹介いたします。


尚、本文は浄土宗発行の


『浄土宗聖典』第一巻を、


現代語訳は


『【現代語訳】浄土三部経』浄土宗総合研究所編


を参考にしました。


2021年3月9日火曜日

下品下生(げほんげしょう) ② 観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』は、


釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)というところで、


側近のお弟子である阿難(あなん)さまに説法する、


という形で話が進められます。


「霊鷲山(りょうじゅせん)」は別に


「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)とも申します。


本文中には「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)」と


出てまいります。


釈尊ご在世の当時、強国であった


マガダ国の王舎城(おうしゃじょう)で、


王族の間で起こった悲劇がベースになっています。


大まかなストーリーについてはこちらをご覧ください。



https://hourinji.blogspot.com/2020/07/blog-post_12.html

https://hourinji.blogspot.com/2020/07/blog-post_13.html

https://hourinji.blogspot.com/2020/07/blog-post_14.html




『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、


極楽浄土や阿弥陀仏を目の当たりに観るための


瞑想方法が順に説かれています。


そしてそのような難しい瞑想ができない者のための


修行方法が説かれます。


難しい修行ができない者の中にも、


様々な人がいます。


それを「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」から


「下品下生(げほんげしょう)」まで九つに


分けて説かれています。


この節のテーマである


「下品下生(げほんげしょう)」につきましては、


先回「十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の


罪人が救われる」ことが説かれていると申しました。


これは『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に


登場する重要人物、阿闍世(あじゃせ)王子の


救済を念頭において説かれていると考えられます。


阿闍世(あじゃせ)王子は、


父親である頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を殺め、


更に母である韋提希夫人(いだいけぶにん)をも


殺害しようとしました。


そのような者すら救われるからこそ、


私たちも救われることになるのです。


次回から本文を読み進めてまいります。


2021年3月8日月曜日

下品下生(げほんげしょう)③ 下品下生(げほんげしょう) その一

(本文)


仏、阿難(あなん)および


韋提希(いだいけ)に告げたまわく。


下品下生(げほんげしょう)の者とは、


あるいは衆生(しゅじょう)あって、


不善の業(ごう)たる五逆(ごぎゃく)


十悪(じゅうあく)を作(な)して、


諸もろの不善を具(ぐ)す。




(現代語訳)


釈尊が阿難(あなん)と韋提希(いだいけ)に仰せになった。


「下品下生(げほんげしょう)の者とは、


次のような悪人のことである。


ある人が不善の業(ごう)である


五逆(ごぎゃく)や十悪(じゅうあく)を犯し、


その他にもあらゆる悪事に手を染めている。






下品下生(げほんげしょう)の者とは、


代表的な悪事である五逆(ごぎゃく)や十悪(じゅうあく)、


様々な悪事を働いてきた者です。


五逆(ごぎゃく)とは、


㈠母親を殺める


㈡父親を殺める


㈢阿羅漢(あらかん)を殺める


※阿羅漢(あらかん)…尊敬されるべき修行完成者。


㈣僧団をバラバラに仲違いさせる


㈤仏さまを傷つける


の五つの大罪です。


十悪(じゅうあく)については、


「所求(しょぐ)・所帰(しょき)・去行(こぎょう)」


の項に上げていますので、ご参照ください。


https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E3%80%80%E7%AC%AC4%E9%83%A8%E3%80%80%E6%89%80%E6%B1%82%E3%83%BB%E6%89%80%E5%B8%B0%E3%83%BB%E5%8E%BB%E8%A1%8C


2021年3月7日日曜日

下品下生(げほんげしょう)④ 下品下生(げほんげしょう) その二

(本文)


かくのごとき愚人(ぐにん)、


悪業(あくごう)をもっての故に、


まさに悪道に堕(だ)して、


多劫(たこう)を経歴(きょうりゃく)して、


苦を受くること窮(きわ)まりなかるべし。




(現代語訳)


このような愚かな人は悪業(あくごう)を


犯したがために、必ずや地獄・餓鬼・畜生の


三つの悪しき境涯に堕ちるであろう。


そこでとてつもなく長い時間を過ごして、


しかも果てしなく苦しみ続けるのである。






仏教では因果の道理を説きます。


善業(よい行い)には未来に楽果(楽という結果)が、


悪業(悪い行い)には苦果(苦しみという結果)が


もたらされます。


その結果は来世に持ち越されることもあります。


もちろん他人の境遇を見て、


「きっとあの人は前世に悪いことをしたに違いない」


などという判断はできません。


また因果の道理を差別に使うのはもってのほかです。


そもそも今人間として生まれてきている時点で、


前世には人間に生まれるだけの


善業を積んできたといえるのです。


そうやってせっかく人の身を受けたのに、


今この世で十悪・五逆の悪業をなした者は、


地獄・餓鬼・畜生に生まれるのだ、


と説かれているのです。


どれだけ知識や学問があろうとも、


因果の道理を知らずに悪業を積んでいると、


そのような結果が未来にもたらされてしまいます。


気をつけなくてはなりません。



「業(ごう」につきまして、以下に参考文献を


挙げておきます。



参考文献

○〈業〉とは何か   平岡聡著   筑摩選書


○業・宿業の思想   櫻部建講述  平楽寺書店


○業を見すえて    浄土宗    浄土宗出版


2021年3月6日土曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑤ 下品下生(げほんげしょう) その三

(本文)


かのごとき愚人(ぐにん)、


命終(みょうじゅう)の時に臨んで、


善知識(ぜんちしき)の、


種種に安慰(あんに)して、


為(ため)に妙法(みょうほう)を説きて、


教えて念仏せしむるに遇えり。




(現代語訳)


ところがこのような愚かな人が、


命が尽きようとする時になって


仏教へと正しく導く人(善知識)に逢う。


そしてその人は愚人(ぐにん)をなだめすかし、


その愚かな人のために、


えも言われぬすばらしい教えを説き


仏に想いを馳せさせようとする。






その愚かな人は、自分がしてきた悪事を


自覚していることでしょう。


「俺はあんな悪いこともした。


こんな悪いこともした。


こんな俺はきっと地獄へいくしかないだろう」


そんなことを思いますが、


いざ臨終を迎える時には、


苦しくて恐ろしくて仕方ありません。


そこに善知識と呼ばれる、念仏者が現れます。


その人はお坊さんなのか、


そうでないのかはわかりませんが、


念仏の教えを信じて実践している人です。


善知識はその愚かな人を慰め、


「あなたは今まで悪いことばかりを


してきたことでしょう。


でも阿弥陀さまは決して


あなたを見捨てることはありません」


と言って、極楽浄土や阿弥陀仏のことを


愚かな人がわかるように説き、


極楽浄土や阿弥陀仏を心に映し出すための


瞑想を勧めます。


2021年3月5日金曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑥ 下品下生(げほんげしょう) その四

(本文)


この人、苦に逼(せ)められて、


念仏するに遑(いとま)あらず。


善友(ぜんぬ)告げていわく。


汝(なんじ)もし念ずること能(あた)わずんば、


まさに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と


称(しょう)すべしと。




(現代語訳)


しかし、その愚かな人は苦しみに苛まれて


仏に想いを馳せる余裕すらない。


そこでその仏教へと正しく導く人(善知識)が、


『汝、仏に想いを馳せることができないなら、


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と称えなさい』


と告げる。






善知識に、極楽浄土や阿弥陀仏へ


想いを馳せる瞑想を勧められます。


しかし臨終を迎えた愚かな人は、


なかなか心を集中することができません。


なぜなら、臨終を目の前にして、身体と心の


苦痛が押し寄せてきているからです。


善知識は「苦しいのですね。


苦しさで極楽浄土や阿弥陀仏に想いを向けようと


思ってもできないのですね。


それならば、それならば無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と


称えなさい」と勧めるのです。


「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」というのは、


阿弥陀仏のことです。


つまりここで「南無阿弥陀仏」のお念仏を


お勧めになったのです。


2021年3月4日木曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑦ 下品下生(げほんげしょう)その五

(本文)


かくのごとく至心に、声をして絶えざらしめ、


十念を具足(ぐそく)して、


南無阿弥陀仏と称(しょう)す。


仏名(ぶつみょう)を称(しょう)するが故に、


念念の中において、八十億劫(はちじゅうおっこう)の


生死(しょうじ)の罪を除く。




(現代語訳)


そのように、心の底から救いを求めて、


声を絶やすことなく、十念欠けることなく


「南無阿弥陀仏」と称える。


仏の名を称えると、一念称えるごとに


八十億劫(はちじゅうおっこう)もの間、


生死(しょうじ)を繰り返さねばならない


罪の報いさえも取り除かれる。






愚かな人は苦しみの中を、か細い声で


善知識に勧められるままに


藁をも掴む思いで


「なむあみだぶ なむあみだぶ…」と


必死で称えるのです。


その人は臨終までに時間がなく、


十遍念仏を称えた時に事切れるのです。


もう少し時間があれば、


百遍称えられたのかもしれません。


場合によってはそれが一遍になるかもしれません。


念仏との出会いがいつになるかによって、


念仏を称えだしてから臨終までの時間は異なります。


この下品下生(げほんげしょう)に登場する


「愚かな人」は臨終間際に念仏の縁を得て


「南無阿弥陀仏」と称えることができました。


彼の「助けたまえ、阿弥陀仏」という心に


偽りがなければ、その声がどんなにか細かろうと、


阿弥陀仏のお耳に届きます。


そして八十億劫(はちじゅうおっこう)もの長い間


生まれ変わり死に変わり、輪廻を続ける中で


犯してきた数え切れないほど


多くの重い罪が除かれるというのです。


尚、浄土宗の葬儀では、導師が引導の最後に


この一文を称え、十遍の念仏(十念)を


臨終を迎えた人に授け、極楽浄土へと送り出すのです。


2021年3月3日水曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑧ 下品下生(げほんげしょう)その六

(本文)


命終(みょうじゅう)の時、


金蓮華(こんれんげ)の、


なおし日輪(にちりん)のごとくなるが、


その人の前に住(じゅう)するを見る。


一念の頃(あいだ)のごときに、


すなわち極楽世界に往生することを得(う)。



(現代語訳)


そして命が尽きようとするその時、


まるで太陽のように眩い金色の蓮華が


その人の前に現れて、


一瞬の間に極楽世界に往生することができる。




上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、


下品(げほん)にそれぞれ上中下があります。


それは娑婆世界にいる私たちに、能力や行いの違いが


あることを示しています。


決して極楽浄土での環境に違いが生じるのではありません。


能力や行いが違えど、阿弥陀さまは同じように


迎えに来てくださいます。


その阿弥陀さまのお迎えを「来迎(らいこう」といいます。


阿弥陀さまは同じように来迎(らいこう)して


くださるのですが、こちらには能力の違いがあります。


能力の高い人は、阿弥陀さまがはっきりと見えるでしょうし、


そうでない人は、おぼろげにしか見えないかもしれません。


「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」の人は、


阿弥陀仏が観音菩薩、勢至菩薩、無数の化仏(けぶつ)、


百千のお坊さま、や無数の神々、


素晴らしい極楽の宮殿(くうでん)と共に迎えに来て


くださる姿が見えます。


「上品中生(じょうぼんちゅうしょう)」は、


阿弥陀仏が観音菩薩、勢至菩薩、数え切れないほど


たくさんの取り巻きに囲まれて、


紫色を帯びた金の蓮台(れんだい)を持って、


お迎えくださる姿を見ます。


「上品下生(じょうぼんげしょう)」の人は、


阿弥陀仏が観音勢至菩薩、数々の取り巻きと共に、


金の蓮台(れんだい)を持って、


五百の化仏(けぶつ)が人に姿を変えて


やってきて、お迎えくださるのを見ます。


「中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)」の人は、


金色の光を放つ阿弥陀仏が、


数々のお坊さまや取り巻きと共に


お越しくださるのを見ることができます。


「中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)」は、


阿弥陀仏が数々の取り巻きと共に、


金色の光を放って、七宝(しっぽう)の蓮華を持って


お迎えくださるのを見ます。


※七宝(しっぽう)…七種類の宝玉。金・銀・

 瑠璃(るり)・頗瓈(はり)・硨磲(しゃこ)・

 赤珠(しゃくしゅ)・瑪瑙(めのう)

 の七つの宝のこと。


「中品下生(ちゅうぼんげしょう)」の人は、


善知識から阿弥陀仏の極楽浄土が


どれほど素晴らしいかを聞いて、


阿弥陀仏の本願のことを詳しく聞き終わってから


臨終を迎えます。


そして体力のある若者が屈伸するほどの、


わずかな間に極楽浄土へ往生するのだそうです。


ここには阿弥陀仏がどんな方と共に来迎(らいこう)


なさるのかが描かれていません。


一瞬の間に往生するのですから、


もちろん来迎(らいこう)は間違いなくあります。


「下品上生(げほんじょうしょう)」の人の元には、


阿弥陀仏が化仏(けぶつ)や化観音菩薩を


遣わしてお迎えがあります。


「下品中生(げほんちゅうしょう)」の人の臨終には、


清涼な風の中から天の華が舞い散って、


その華の上に化仏と菩薩が現れて、


極楽へと迎え取られるのです。


「下品下生(げほんげしょう)」の人には、


太陽のように眩い金色の蓮華が現れて、


極楽浄土へ迎え取られるのです。


「え?蓮華が現れるだけ?仏さまは来てくれないの?」


と思われるかもしれません。


いえいえ、そんなはずはありません。


念仏の者の元には、必ず阿弥陀さまがお迎えくださいます。


ただ、こちら側の能力が劣っていると、


阿弥陀さまのお姿が眩しくて、見えないのでしょう。


かろうじてお足元の蓮台だけが見えるのです。


そして蓮台に乗せていただき、


一瞬の間に極楽浄土へと往生することができるのです。


2021年3月2日火曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑨ 下品下生(げほんげしょう)その七

(本文)


蓮華の中において、十二大劫(じゅうにだいこう)を


満(まん)じて、蓮華まさに開く。


観世音(かんぜおん)、大勢至(だいせいし)、


大悲の音声(おんじょう)をもって、


それが為に広く諸法実相(しょほうじっそう)、


除滅罪(じょめつざい)の法を説く。



(現代語訳)


蓮華の中で十二大劫(じゅうにだいこう)


という時間を丸々過ごすと、


蓮華はようやく花開き、


観世音菩薩と大勢至菩薩が


大悲あふれる御声で、


その人のために諸法実相(しょほうじっそう)と


除滅罪法(じょめつざいほう)を


詳しく説き明かす。


聞き終えるとその者は大いに喜び、


まさにその時、菩提心を発(おこ)す。






下品下生(げほんげしょう)の者は、


極楽浄土に往生した後、


十二大劫(じゅうにだいこう)という長い間


蓮の中で待ち、ようやく華が開きます。


華が開くと観音勢至菩薩の声が聞こえてきて、


地獄に堕ちるはずの罪が消えるのです。


そして極楽において、仏になるための修行が


始まるのです。


2021年2月28日日曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑩ 下品下生(げほんげしょう)その八

(本文)


聞きおわって歓喜して、時に応じて


すなわち菩提(ぼだい)の心(しん)を発(おこ)す。


これを下品下生(げほんげしょう)の者と名づく。


これを下輩生想(げはいしょうそう)と名づけ、


第十六の観と名づく。




(現代語訳)


このような者を下品下生(げほんげしょう)の者といい、


以上の下品三生(げほんさんしょう)を


下輩生想(げはいしょうそう)といい、


第十六観(だいじゅうろっかん)というのである。





このように上品上生(じょうぼんじょうしょう)から


下品下生(げほんげしょう)まで、


九種類の人々の臨終の様子が描かれます。


この九種類の人々にはそれぞれの人生があります。


そして色んな縁があり、善い行いをする人もおれば、


悪事に手を染める人もいます。


ただ、どの人もおしなべて


凡夫(ぼんぶ)であることに違いはありません。


その凡夫(ぼんぶ)が極楽浄土へ往生する教えが


阿弥陀仏の本願念仏です。


阿弥陀仏の本願を信じ、極楽浄土への往生を願い、


「南無阿弥陀仏」と称える者は、


どんな者でもすべて極楽浄土への往生が叶います。


ではなぜ、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう』に


九種類の人々の臨終の状況に違いがあると


説かれるのでしょうか。


法然上人は、これは釈尊の巧みな手立てであり、


善人も悪人も同じところに往生するというと、


悪事に手を染める者が


「それならどんな悪いことをしていいじゃないか」と


慢心をおこすであろうから、


方便として階位の違いが説かれるのだ、とおっしゃいます。


ですから上品(じょうぼん)であっても


下品(げほん)であっても、念仏を信じて称える者は


必ず極楽浄土に往生することができます。


華の開く早さなども心配するに及びません。


ただ信じて称えるのみです。


2021年2月27日土曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑪ 得益分(とくやくぶん) その一

(本文)


この語を説きたまう時、韋提希(いだいけ)、


五百の侍女(じにょ)と与(とも)に、


仏の所説を聞き、時に応じて


すなわち極楽世界の広長(こうじょう)の相を見る。


仏身(ぶっしん)および二菩薩を見ることを得て、


心に歓喜(かんぎ)を生じて、


未曾有なりと歎(たん)じて、


廓然(かくねん)として大悟(だいご)して、


無生忍(むしょうにん)を得(う)。




(現代語訳)


さて釈尊は以上のことをお説きになった。


その間、韋提希(いだいけ)と


五百人の侍女たちは釈尊の説法を聞き、


適宜に極楽世界の広大ですぐれたありさまを見て取った。


そして阿弥陀仏と観世音、大勢至の二菩薩の


お姿を見奉ることができると、


韋提希(いだいけ)は心に歓びが生まれ、


「かつてないことだ」と感激して、


目から鱗が落ちるような境地を開き、


無生法忍(むしょうぼうにん)


という覚りを得たのである。






「得益分(とくやくぶん)」とは、


釈尊の説法を聞いた韋提希夫人(いだいけぶにん)と


五百人の侍女たちが得た利益(りやく)が


説かれるところです。


韋提希夫人(いだいけぶにん)と侍女たちは、


釈尊の説法を聞いて極楽浄土や阿弥陀さま、


観音勢至菩薩を目の当たりに


見ることができました。


つい「見たことがないから信じられない」と


言ってしまいますが、韋提希夫人(いだいけぶにん)と


侍女たちは、疑いようがありません。


韋提希夫人(いだいけぶにん)は、我が子


阿闍世王子(あじゃせおうじ)の暴悪に


「なぜ私がこんな目に遭わなくてはいけないの?!」と


恨み嘆いていましたが、今はそれらの迷い事は


すべて忘れてただ法の悦びに浸るのでした。


2021年2月26日金曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑫ 得益分(とくやくぶん) その二

(本文)


五百の侍女(じにょ)、


阿耨多羅三藐三菩提心


(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)を


発(おこ)して、かの国に生(しょう)ぜんと願ず。




(現代語訳)


また五百人の侍女は、


この上ない完全な覚りを求める心を発(おこ)し、


かの阿弥陀仏の極楽世界に生まれたいと願った。





お釈迦さまから直接、自分にぴったり合う教えを


授かった人たちは多く覚りの境地に


誘(いざな)われました。


韋提希夫人(いだいけぶにん)は


覚りの境地へ導かれ、


侍女たちには覚りを求め「極楽浄土に生まれたい!」


という強い心が生まれました。


2021年2月25日木曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑬ 得益分(とくやくぶん) その三

(本文)


世尊、悉く皆まさに往生すべし、


かの国に生(しょう)じおわりなば、


諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんざんまい)を


得んと記(き)したまう。


無量の諸天は、無上道心(むじょうどうしん)


を発(おこ)す。




(現代語訳)


釈尊は彼女たち一人一人に


「汝らはかの極楽世界に必ずや往生するはずだ。


かの極楽世界に往生した後に


諸々のみ仏が目の前にまします境地を得る」


との予言をお与えになった。


また会座に連なった無量の天界の神々は


無上道心(むじょうどうしん)を


発(おこ)したのである。






釈尊に「極楽浄土へ必ず往生して、


間違いなく仏さまに逢えるよ」と


言われたら、どれほど嬉しいことでしょう。


釈尊滅後の修行者たちが、


多く「お釈迦さまに会いたかったなあ」


「お釈迦さまのおられる時代に生まれたかったなあ」


と嘆かれました。


釈尊に直接指導を受けることができれば、


韋提希夫人(いだいけぶにん)や


侍女たちと同じように、「いずれ覚りを開いて成仏できるよ」と


太鼓判をいただくことができたのでしょう。


法然上人は「釈尊のおられる時代に生まれることが


できなかったのは悲しみではあるが、


まだ仏教の教えが残っている時代に生まれたことは


悦ばしいことだ」とおっしゃっています。


私たちは釈尊の時代から遠く遅れて生まれてきましたが、


まだ仏法が残り、しかも「南無阿弥陀仏」と称えるだけで


極楽浄土へ生まれることができる教えを


知ることができました。


そう考えると、私たちも韋提希夫人(いだいけぶにん)や


侍女たちと同じように、悦ぶべき環境にあるのです。


2021年2月24日水曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑭ 流通分(るづうぶん) その一

(原文)


その時阿難(あなん)、


すなわち座より起(た)ちて、


前(すす)んで仏にもうしてもうさく。


世尊。


まさに何(いか)んがこの経を名づくべき。


この法の要(よう)をば、


まさに云何(いかん)が受持(じゅじ)すべき。




(現代語訳)


するとその時、阿難(あなん)は


すかさず自席から立ち上がって前に出て、


釈尊に次のように申し上げた。


「世尊よ、今、説き示されたこの経を


どのように名付けたらよいのでしょうか。


またこの教えの肝要をどのように理解し、


心に刻んでおいたらよいのでしょうか」






ここからが『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


流通分(るづうぶん)です。


「流通分(るづうぶん)」というのは、


お経の結びに当たるところです。


側近のお弟子である阿難(あなん)さまは、


ずっと釈尊の法話を聞いていました。


韋提希夫人(いだいけぶにん)がどのようにして


救われていったのか、詳細に聞きました。


阿難(あなん)さまはお釈迦さまの十大弟子の


お一人で、「多聞(たもん)第一」と讃えられる方です。


お釈迦さまのお側で長い間身の回りのお世話をされ、


最も多くの教えを聞いておられます。


その阿難(あなん)さまが、


「今拝聴した法話をどのように名付け、


またこの法話の要旨をどう理解すれば


よろしいでしょうか?」


とお尋ねになったのです。


阿難(あなん)さまは今まで


釈尊から度々、「仏の言葉を広め伝えよ」とか


「仏の言葉を忘れてはならぬ」と


言われてきました。


阿難(あなん)さまは「仏法を後の人に伝える」


という重大な役割を担っておられるのです。


2021年2月23日火曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑮ 流通分(るづうぶん) その二

(本文)


仏(ほとけ)、阿難(あなん)に告げたまわく。


この経を観(かん)極楽国土(ごくらっこくど)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)


観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)


大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)と名づけ、


また浄除業障生諸仏前


(じょうじょごっしょうしょうしょぶつぜん)


と名づくべし。


汝(なんじ)まさに受持して、


忘失(もうしつ)せしむることなかるべし。




(現代語訳)


釈尊が阿難(あなん)に仰せになった。


「この経を『観極楽国土(かんごくらっこくど)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)


観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)


大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)』と名付けよう。


あるいは『浄除業障生諸仏前


(じょうじょごっしょうしょうしょぶつぜん)』


とも名付けよう。


阿難(あなん)よ、汝はこの経を理解し心に刻み、


決して忘れてはならない。






「今拝聴した法話をどのように名付け、


またこの法話の要旨をどう理解すれば


よろしいでしょうか?」


という阿難(あなん)さまからの質問に対する


釈尊のご返答です。


「この話を表すには、【極楽浄土と無量寿仏、


観音勢至菩薩を観る】という意味の名前にしよう」


※無量寿仏…阿弥陀仏のこと


そしてこの話の大要は、「【数々行ってきた業(ごう)の


障りを消し去り、仏の前に生まれるお経】である。


そうであるから阿難(あなん)よ、


これを信じて受け入れて伝え、後の世までも


忘れさせるでないぞ!」との仰せです。


2021年2月22日月曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑯ 流通分(るづうぶん) その三

(本文)


この三昧(さんまい)を行(ぎょう)ぜん者は、


現身(げんしん)に、


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)および


二大士(にだいし)を見ることを得ん。


もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)、


ただ仏(ほとけ)の名(みな)、


二菩薩(にぼさつ)の名(な)を聞くすら、


無量劫(むりょうこう)の生死(しょうじ)の罪を除く。


何(いか)にいわんや憶念(おくねん)せんをや。




(現代語訳)


これまで説いてきた精神集中(三昧)を


実践する者は、今生の身で


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と


偉大なる観世音、大勢至の二菩薩を


見奉ることができる。


またもし男であれ女であれ善良なる人々が、


ただ単に無量寿仏の名と二菩薩の名を


耳にするだけでも、無量劫(むりょうこう)もの間


生死(しょうじ)を繰り返さねばならない


罪の報いさえ除かれる。


ましてや無量寿仏と二菩薩を憶念すれば、


さらに多くの罪の報いが除かれるのは言うまでもない。





三昧(さんまい)というのは、


仏さまや浄土に心を寄せて集中し、


目の前にそのお姿や情景を映し出す瞑想の境地です。


「贅沢三昧」とか「カニ三昧」などという言葉の


元は「瞑想の境地」なのです。


阿弥陀さまと観音菩薩、勢至菩薩の


お名前を聞くだけでも無量劫(むりょうこう)という


長い間積んできた罪が消えるというのです。


阿弥陀さまと目の前でお目にかかれたら、


どれほどの功徳がありましょうか。


2021年2月21日日曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑰ 流通分(るづうぶん) その四

(本文)


もし念仏せん者は、まさに知るべし。


この人は、これ人中(にんじゅう)の


分陀利華(ふんだりけ)なり。


観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)


大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)、


その勝友(しょうう)となる。


まさに道場に坐(ざ)すべきをもって、


諸仏の家に生(しょう)ずべし。




(現代語訳)


よくよく知っておけ。


もし念仏する者は、この人こそが


煩悩多き人々の中に咲く、


汚れなき白蓮華のようである。


そして観世音菩薩と大勢至菩薩が


その人のすぐれた友(勝友)となるのである。


未来には覚りを開く座に坐るべく、


諸仏の家系に連なるのである。






分陀利華(ふんだりけ)とは


古代インド語(サンスクリット語)で


白蓮華のことをいいます。


煩悩にまみれたこの世で念仏を称える人を


泥の中から真っ白な美しい華を咲かせる蓮に


譬えられたのです。


善導大師はこの箇所を注釈して、


念仏を称える人を好人(こうにん)、


妙好人(みょうこうにん)、上上人(じょうじょうにん)、


希有人(けうにん)、最勝人(さいしょうにん)であると


おっしゃっています。


阿弥陀さまから誉め讃えられる人だというのです。


ここから、浄土宗の教えを五つ重ねにして


しっかりと相伝する「五重相伝」を受けた人には


戒名に「○誉」という二文字が加えられるのです。


現世において、念仏を称える人には


観音菩薩や勢至菩薩に友となっていただけるという


素晴らしい特典が与えられます。


更には他の菩薩方も影の如くに寄り添ってくださり、


昼夜ずっとお護りくださいます。


未来にはなんと阿弥陀さまと座を共にすることができます。


いずれ仏になるべく、阿弥陀さまのご家庭たる


極楽浄土に生まれることができるのです。


2021年2月20日土曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑱ 流通分(るづうぶん) その五

(本文)


仏(ほとけ)、阿難(あなん)に告げたまわく。


汝(なんじ)好(よ)くこの語を持(じ)せよ。


この語を持(じ)せよとは、


すなわちこれ無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の


名(みな)を持(じ)せよとなり。




(現代語訳)


そして最後に釈尊は阿難(あなん)に仰せになった。


「汝、今、私が説き示したこの教えを


しっかりと胸に刻み込め。


この教えを胸に刻み込めとは、


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の御名(みな)を


胸に刻み込め、ということに他ならない」






観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には


瞑想修行や様々な善行が説かれています。


その数々の修行を差し置いて、


釈尊は「無量寿仏の名前」を


未来の人々に伝え残せと阿難(あなん)さまに


託されました。


「無量寿仏」はすなわち「阿弥陀仏」です。


つまりは「南無阿弥陀仏」と称える「念仏」を


未来に伝え残せとおっしゃっているのです。


このように師匠が弟子に教えの奥義を相伝し、


後世に伝え託すことを「付属(ふぞく)」といいます。


法然上人はこのことを重視され、


「釈尊は種々の行を付属せずに、


ただ念仏をもって阿難(あなん)さまに付属なさった」


とおっしゃています。


「南無阿弥陀仏」と称える念仏は


阿弥陀仏が自ら「我が名を呼べよ」と


指定された「本願」であるだけでなく、


釈尊が種々の行を差し置いて


「付属」なさった行なのです。


2021年2月19日金曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑲ 流通分(るづうぶん) その六

(本文)


仏(ほとけ)、この語を説きたまう時、


尊者(そんじゃ)目犍連(もっけんれん)・


阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)等、


仏(ほとけ)の所説(しょせつ)を聞きたてまつりて、


皆(みな)大いに歓喜(かんぎ)す。




(現代語訳)


釈尊がこの言葉を説き終えると、


目連尊者と私阿難(あなん)


そして韋提希(いだいけ)たちは


釈尊がお説きになったお言葉を聞いて、


誰もがみな大いに歓んだのである。






「この語を説きたまう時」とは、


この念仏を付属して宮中における説法を


終えられた時を示します。


この時左右におられた目連さま、


阿難(あなん)さまはもちろんのこと、


韋提希夫人(いだいけぶにん)と


五百人の侍女たち、その他空中で


説法を聴いている天人に至るまでが


この説法を聴き終わり、みんな大いに


悦ばれたのです。


2021年2月18日木曜日

下品下生(げほんげしょう) ⑳ 耆闍分(ぎしゃぶん)

(本文)


その時世尊(せそん)、足(みあし)、


虚空(こくう)を歩みて、


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に還りたまう。


その時阿難(あなん)、


広く大衆(だいしゅ)の為に、


上(かみ)のごとき事(じ)を説く。


無量の諸天および龍・夜叉(やしゃ)、


仏(ほとけ)の所説(しょせつ)を


聞きたてまつりて、皆大いに歓喜(かんぎ)して、


仏(ほとけ)を礼(らい)したてまつりて退きぬ。


仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)




(現代語訳)


それから釈尊は空中を歩いて、


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)にお帰りになった。


そして私阿難(あなん)は、


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に集っていた


大衆のために以上の王舎城(おうしゃじょう)での


出来事を述べたのである。


その場にいた出家修行者たちや諸菩薩はもちろん、


数限りない神々や龍神、夜叉もまた


釈尊がお説きになった教えを聞いて、


誰もがみな大いに喜んで釈尊を礼拝して


立ち去ったのである。


仏説(ぶっせつ)観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)






この最終の項を「耆闍分(ぎしゃぶん)」といいます。


釈尊の命により、阿難(あなん)さまが


王宮で聴いた釈尊の教えを


耆闍崛山(ぎしゃくっせん)に帰って、


大衆にもう一度説くところです。


大衆は教えを聴いて歓喜して、


各々釈尊に礼拝して帰っていくのです。


このように一つのお経の中で、


繰り返し教えが説かれるのは、極めて稀なことです。


釈尊は人々の能力に合わせて、


種々の行を説かれました。


ですから能力の高い人は瞑想などの


高度な修行をして覚りに至ればいいのです。


一方念仏は、能力の差に関係なく


「阿弥陀仏の本願を信じて南無阿弥陀仏と称える


だけで誰もが救われる」という行です。


釈尊は「すべての者を救いたい」と


願っておられるに違いありません。


それならば、あらゆる種々の行は説きながらも


「本当の目的は念仏を説くことにあった」と


言っても過言ではないでしょう。


法然上人はこのことを「釈迦の出世の本懐(ほんがい)」


とおっしゃっています。


「釈尊がこの世にお姿を顕されたのは、


お念仏を説くことが目的であった」ということです。


この耆闍分(ぎしゃぶん)で繰り返し教えを説かれたのは、


この念仏の教えを末代の人々に知らしめて、


みな悉く極楽へ往生させたい、という


釈尊の御心を表すのです。


お慈悲の深さ、いかに懇切丁寧であるかに


感じ入らずにはおれません。


仰いで信じなくてはなりません。



解説は以下の二書によりました。

謹んで感謝申し上げます。


『浄土三部経概説』坪井俊映著

『浄土三部経和解』川合梁定著


「下品下生」の項終わる。

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...