2020年10月31日土曜日

四障四機(ししょうしき)③ 〈疑心(ぎしん)〉その二

お釈迦さまは、一人一人の能力や素質、 人柄などを考慮して、

「人に合わせて」 「お経」を説かれました。 

これを「対機説法(たいきせっぽう)」といいます。 

この「対機説法(たいきせっぽう)」の 「機」が「私の正体」です。

 たとえば、Aさんという人に対して、

 お釈迦さまがAさんの素質や能力、性格を見て  

「あなたはこういう修行をしなさい」と示され、 

 その教えを素直に信じ修行すれば、 覚ることができることでしょう。 

 しかし、 「お釈迦様がそうおっしゃるけれど、 信じられないからしない」

 という人はダメです。 

 「お釈迦様を信じて実行する人」 が導かれてゆくのです。   

同じようにBさんにはBさんに合う教え、 

 CさんにはCさんに合う教えが説かれます。

 しかし、Aさんが覚るのをみて、

 TさんがAさんと同じ修行をしても 

 必ずしも覚ることはできないかもしれません。  

素質や能力、人柄つまり「機」が異なるからです。

2020年10月30日金曜日

四障四機(ししょうしき)④〈疑心(ぎしん)〉その三

お釈迦さまのお弟子に周利槃特(しゅりはんどく) 

 という方がおられました。

 彼は生来物覚えが悪く、 

 一緒に仏門に入った兄からは

 「お前は修行に向いていないよ。 早い内に辞めた方がいい」 

と言われて落ち込んでいました。

 お釈迦さまは落ち込んでいる周利槃特(しゅりはんどく) に声をかけ、  

「お前にはお前のよさがある。

 お前は何事も真面目にするのがよい。 

お前はひたすら塵を”払い垢を落とす” と言いながら掃除をしなさい」 

 とホウキを与えます。

 周利槃特(しゅりはんどく)は 「お釈迦さまの言うとおり」  

その修行をひたすら続けてやがて覚ったのです。

 しかしかといって 「掃除をすれば覚ることができる」 

 ということではありません。 

 周利槃特だからその修行が合ったのです。 

 そのようにして多くの教えは生まれました。

 その中で我々のお念仏の教えは 

 「未来の凡夫(ぼんぶ)」を対象に説かれました。

 お釈迦さまの時代の方は 宗教的な素養が豊かであったので、  

高度な修行もできましたが、 

 時代が下るにつれて人々の宗教的素養が 貧しくなり、

覚ることが難しくなりました。 

 ですから、 

 「昔の人と同じ修行では後の時代の 煩悩だらけの凡夫は救われない」

 とお釈迦さまがお考えくださり、  

「遙か西の彼方に極楽という世界がある。 
そこに阿弥陀仏という仏がおられて
 我が名を呼べば救うとおっしゃっている。
 阿弥陀仏は昔法蔵と名乗っておられて・・・」 

 と説かれました。 

 「これをこのまま信じよ。 そして南無阿弥陀仏と称えよ」

 と示してくださっているのです。 

 それなのに疑い心を持ち、 信じることができないのは、 

 いかにももったいない話です。  

実際に見て来ないと信じられないと言う人は多いですが、 

心配しなくても念仏を称えてきた人の 臨終には

阿弥陀さまのお迎えがあります。

 その時には間違いなく会うことができます。 

 疑いが我々の極楽往生を妨げます。 

 どうか疑いなきように

「 信」を育てていただきたいと思います。

2020年10月29日木曜日

四障四機(ししょうしき)⑤ (懈怠〈けだい〉)

懈怠(けだい)は怠け心です。

 

先の「疑心(ぎしん)」によって、

 

極楽や阿弥陀仏が信じられないと、

 

お念仏を称える気も起こらないでしょう。

 

あるいは、

 

「念仏はありがたいことだとわかっているけれども、

 

称えるのが面倒くさい」

 

ではダメですよね。

 

続けなくてはなりません。

 

毎日称えていたら、称えられない日があると、

 

物足りなくなります。

 

毎日お念仏を称えて習慣づけることが大切です。

2020年10月28日水曜日

四障四機(ししょうしき)⑥ (自力〈じりき〉)

次に自力です。

 

阿弥陀さまの力に頼るほかない私達であると

 

繰り返し申し上げてきました。

 

それを信じることができず、

 

お念仏を称える気が起こらない人は、

 

阿弥陀さまにお任せすることができません。

 

「宗教は心の弱い者のためにあるんだ」、

 

「俺はそんなに弱くない」

 

という根拠のない自信を持っている人は、

 

すべてを「自分の力」で何とかしようと思います。

 

もちろん、自分で努力してできることは

 

自分ですればよいのです。

 

でも、本当に自分の力で覚ることができるのでしょうか。

 

この命尽きた後、極楽浄土へ往くには

 

自分の力は通用しません。

2020年10月27日火曜日

四障四機(ししょうしき)⑦ (高慢〈こうまん〉)

次に高慢です。

 

「自分の力で何でもできる」という「自力の人」は

 

「高慢」になりやすいと言われます。

 

最近の幼稚園や保育園、学校は大変だといいますね。

 

それは園児や生徒よりも

 

その親への対応が大変なのだそうです。

 

一時非常に話題になった

 

「モンスターペアレンツ」です。

 

ある学校では、食事の時に

 

「いただきます」「ごちそうさまでした」

 

と言わせますと、父兄からクレームがきたと言います。

 

「ちゃんと給食費払っているのに、

 

いただきます、なんて言う必要はない!」

 

というのです。

 

私の息子が幼稚園に通っていたある日、

 

子どもを迎えに行きました。

 

その時、こどもの手首の辺り、袖が少し濡れていました。

 

それに気づいた先生は、明らかに私を意識して、

 

「どうしたの?何で濡れてるの?

ちゃんとさっき拭いてあげたのに」

 

と焦った様子で、うちの子に話していました。

 

そして私に

 

「袖が濡れていましてすみません。

さっきちゃんと拭いたんですが」

 

と言い訳をなさいます。

 

子どもの袖が濡れていることぐらい

 

頻繁にあることですから、気にもなりませんし

 

それを先生のせいにすることもありません。

 

でも先生がそこまで気を遣うということは、

 

きっと文句を言う人が多いということでしょう。

 

病院では「モンスターペイシェント」

 

というのだそうですね。

 

患者が我が儘ばかり言う。

 

相手が業者だとなおのことひどいです。

 

「こっちは金を払っているんや」

 

とわずかなことに文句をつける。

 

「クレーマー」と呼ばれています。

 

クレームをつけるのをまるで生き甲斐にしているように、

 

文句ばかり言います。

 

これは、若い人だけではなく、年配の人にも多いようです。

 

「キレる老人」というのだそうです。

 

かつては

「人様の前で怒りを露わにすることは恥ずかしいこと」

 

という常識によって制御されていたことでしょう。

 

今は自分の主張を通さなかったら

 

情けないと言わんばかりに、

 

相手を見下し、ボロカスに言うことが普通になっています。

 

テレビでも人を馬鹿にし、

 

こき下ろしてゲラゲラ笑っているものばかりです。

 

何故か自分には自信満々で、

 

他人の上に立とう、立とうとします。

 

「自分は偉い」と「高慢」の心が強い人は

 

念仏信仰に入ることが難しいかもしれません。

2020年10月26日月曜日

四障四機(ししょうしき)⑧(四機〈しき〉)

極楽往生を妨げる四つの障りが

 

「疑心(ぎしん)」「懈怠(けだい)」

 

「自力」「高慢」で、

 

これを「四障(ししょう)」という、と申しました。

 

それに対して「こんな人が極楽へ往ける」という

 

四種の人柄を「四機(しき)」と申します。

 

「疑心(ぎしん)」に対しては「信心」。

 

「懈怠(けだい」に対しては「精進(しょうじん)」。

 

「自力」に対しては「他力」

 

「高慢」に対しては「卑下(謙虚)」です。

 

「疑心」が強い人は念仏なんて称える気が

 

起こりませんから、怠けます(「懈怠(けだい)」)。

 

そうすると阿弥陀さまに頼ることは

 

ありませんから「自力」になる。

 

「自力」の人は「あらゆることを自分の力で!」

 

と「高慢」になります。

 

そして逆に「私は罪多き凡夫です」と「卑下(謙虚)」

 

することができる人は、

 

阿弥陀さまの力「他力」を頼りにします。

 

そういう人は阿弥陀さまを信じて

 

お念仏を称えますから、「精進」します。

 

そして往生を願って「信心」を深めるようになっていきます。

 

へりくだって腰は低いけども、

 

それを「私は人に偉そうにしたことないんです!」

 

と誇ることは卑下慢(ひげまん)と言って、

 

やはり戒められます。

 

自分が「自力」ではとても往生なんておぼつかないと、

 

自分の力、機をしっかりと正面から見て

 

わかっている人のことを「卑下」と言っているのです。

 

そんな私であれば、阿弥陀さまの本願の力に

 

頼らざるを得ない。

 

「他力」です。

 

決して他人任せではありません。

 

阿弥陀さまの本願の力を限定して「他力」というんです。

 

この私たちは不思議なご縁でお念仏のみ教えと出会いました。

 

自分の力は覚束ない私であります。

 

自分の力を頼っていたら、何度生まれ変わっても

 

解脱などできない私です。

 

解脱どころか煩悩だらけの自分を

 

見つめれば見つめるほど、

 

この命尽きたら地獄に堕ちざるを得ないような

 

心の持ち主ではないか、と気づかされます。

 

その私を救わんがために、阿弥陀さまは

 

「我が名を呼べば救うぞ」と誓ってくださっているのです。

 

これが「本願他力」です。

 

自分の力を頼りになど到底できないことを

 

知らされます。

 

他力にすがるしかないと気づいたならば、

 

お念仏を精進する。

 

そして「私が往生させていただくためにはこのお念仏しかない!」

 

「助け給え阿弥陀仏」と「信心」が培われていくのです。

三種行儀(さんしゅぎょうぎ) ⑬ 別時行儀(べつじぎょうぎ) その三

毎日お念仏唱えているのでしたら、 それでよさそうなものですが、 私たちには怠け心がありますから、 慣れてくると心が萎えてくることがあります。 法然上人は 「時々別時(べつじ)の念仏を修(しゅ)して、 心をも身をも励まし、調え進むべきなり」 と仰っています。 そして「毎日たくさんの...