2026年1月31日土曜日

2月前半のことば

 2月前半のことば

「絶対ということは 絶対にない」

                    

 私たちは無意識に「絶対」という名の杖を頼りに歩いています。「努力は実る」「日常は続く」「組織に尽くせば安泰だ」といった確信です。しかし、その杖が不意に折れたとき、人は深い落胆という名の「苦」を味わうことになります。

 かつてこの国では「右肩上がりの成長」が信じられていましたが、経済の神話も終身雇用の約束も、時代の波に消えていきました。これは個人の生活も同様です。

 「親なら、自分ならこうあるべきだ」という思い込みが強いほど、現実に裏切られた際、人は自分を責め、他者を呪ってしまいます。移ろう現実を、己の願望という枠に無理やり固定しようとするからこそ、苦しみが生じるのです。

 仏教が説く「諸行無常」は、決して冷たい宣告ではありません。すべては移ろう。だからこそ、一つの価値観に固執しなくていいという「解放」の教えです。

 「絶対はない」と知ることは、未来を恐れることではありません。何が起きても「まあ、そういうこともあるだろう」と受け流せる、しなやかな精神を養うことです。固く握りしめた「絶対」という拳をそっと解けば、世の中の見え方はきっと軽やかに変わるはずです。

2026年1月14日水曜日

1月後半のことば「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」

 1月後半のことば

「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」  井上靖


 皆さんはこの言葉を聞いて、ドキッとしませんか?

 それは、もしかしたら「生きる姿勢」の核心を突かれている気がするからかもしれません。

 ただ、この言葉は、私たちに行動の良し悪しを裁定しているのではありません。むしろ、私たちの振る舞いには必ず「何らかの意図や目的」が隠されていることを教えてくれている、と受け取るべきでしょう。

 「怠ける人」が「不満を語る」のは、彼らは別に性格が歪んでいるからではありません。不満や不足を口にすることで、「私は本当は有能なのだが、外部の環境や他者のせいで能力を発揮できない」という、一種の自己防衛のシナリオを巧妙に構築しているとも言えます。これは、失敗や挫折という「人生の課題」に真正面から立ち向かうことを避け、傷つくことから逃れようとする、「勇気の回避」という目的を持った振る舞い、と考えてみてはいかがでしょうか。不満とは、現状維持を正当化するための、極めて便利な道具として機能してしまうものです。

 一方、「努力する人」が「希望を語る」のは、彼らが単に楽観的な性質を持っているからではないでしょう。彼らは、未来の希望を語り、目標に向かって具体的な行動を選ぶことで、「自分の人生は、外部の条件に左右されることなく、自分で選択し創り上げることができる」という、「主体性」を強く表明しています。希望とは、この「自分で人生を切り開く力」が内側から湧き出てきた結果にほかなりません。

 ですから、もし今、あなたが自分を「怠ける人」だと感じ、不満ばかりが口をついて出るとしたら、それは、あなたの心の奥底が「まだ、自己を変革する一歩を選ぶのを躊躇しているだけ」と考えてみましょう。井上氏の言葉は、決してあなたを断罪しているのではありません。その不満を語るエネルギーを、たった一つの「未来を変えるための行動」への転換を勧めてくれている、と捉えてみることをお勧めします。

2025年12月31日水曜日

1月前半のことば「今年も南無阿弥陀仏」

 1月前半のことば

「今年も南無阿弥陀仏」


 明けましておめでとうございます。

 皆さまにとってこの一年が、平穏で、そして何よりも素晴らしい年となりますように。

 さて、誰もが素晴らしい一年を願うわけですが、これがなかなか難しい。人の願いといえば、たいてい欲望を充足することでしょう。あれが欲しい、これがしたい、今の不満を解消したい。そう願って努力し、目標を達成すれば、その瞬間は満たされる。ですが、どうにも長続きしません。一つ不満を解消すれば、またすぐに別の不足が顔を出す。頑張れば幸せになれるはずなのに、我々は不思議なことに、いつまで経っても本当の意味での満足や幸せにたどり着くことができないのです。

 なぜか。それは、我々の目標設定が、この「満たされない心の渇き」を生み出し続けているからです。仏教は、この「生きていくことのどうしようもなさ」を二千五百年前から深く見抜いていました。

そして、このどうしようもない「欲望のループ」からの脱出こそ、仏の願いでした。

 阿弥陀仏は、私たちが現世の小さな充足に振り回される必要がないよう、極楽浄土という「完全に満たされた世界」を築き、人生の最終目標として用意してくださったのです。

 この世の尽きない欲望ではなく、極楽浄土への往生を確かな目標として、この現世を生きるようにと阿弥陀仏は願われます。しかも、その手立ては極めて簡単です。阿弥陀仏は「ただ我が名を呼べよ。南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救う」と約束してくださっています。

 今年も、きっと様々な出来事が起こり、喜びもあれば、予期せぬ困難もあるでしょう。しかし、欲望を満たすためだけに汲々とするのではなく、阿弥陀仏の極楽浄土という大いなる目標を持ち、「南無阿弥陀仏」と声に出して、その大いなる願いに身を任せて過ごしてまいりましょう。

 この「南無阿弥陀仏」こそが、私たちにとっての真の羅針盤なのです。

2025年12月14日日曜日

12月後半のことば 自分の罪に気づいたら…

 12月後半のことば

「雪のうちに 仏の御名を称うれば 積もれる罪ぞ やがて消えぬる」     法然上人                

 しんしんと降る雪は、一粒はか弱くても、積もれば景色を一変させ、道さえ塞いでしまいます。私たちの心に積もる「罪」も、これに似ています。

 悪気はなくとも自分と他人を傷つける、妬みや見栄といった「煩悩の行い」を私たちは日常で繰り返します。まるで音もなく降る雪のように、一つ一つは些細でも、知らないうちに心の奥底に罪が積もり、やがて重い荷物となってしまうのです。

 法然上人は、煩悩をなくせない凡夫であると自覚され、自らの救いを求め続けて、お念仏のみ教えと出会われたのです。

 このご道詠の真意は、降り積もった雪が太陽で溶けるように、私たちが積んでしまった罪も、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることによって、たちどころに消え失せるという教えです。

 阿弥陀仏は、煩悩を捨てられない私たち凡夫を、お念仏一つで救うという誓願を立てられました。ですから、嫌でも積もる罪を恐れる必要はありません。自分の罪の重さを知ったならば、阿弥陀仏のお慈悲を信じて、お念仏を称えるのみです。ただこの身を阿弥陀仏にお任せしてお念仏を称え、この世をしっかりと生き抜いていくのです。

 この雪の季節、静かにお念仏とともに、心の雪を溶かしていきましょう。

2025年11月30日日曜日

12月前半のことば この世は無常とわかっていても…

 12月前半のことば

「露の世は 露の世ながら さりながら」 小林一茶


 仏教は「この世は無常である」と教えます。どんな命もいつかは終わり、どんな形もいつかは崩れる。理屈としては誰もが知っている真理です。しかし、それを心の底から受け入れることが、どれほど難しいか。最愛の人を亡くした時、「無常だから仕方ない」と頭ではわかっても、涙は止まりません。言葉は空しく響き、心は納得しません。

 小林一茶は、長い貧乏暮らしの末にようやく家庭を持ち、子どもに恵まれました。けれどもその子は、生まれて間もなく亡くなってしまいます。悲しみの底に立ち、どうしようもない喪失の中で詠んだのが、「露の世は 露の世ながら さりながら」という句でした。この世は露のようにはかない、それはわかっている。けれども、けれども……と、言葉が続かない。理(ことわり)と情(こころ)のあいだで裂かれるような一茶の呻(うめ)きが、この十七音の中にあります。

 仏教では、こうしたどうしようもなさを抱えた存在を「凡夫(ぼんぶ)」といいます。無常を知りながら、受け入れきれず、涙する者。しかし、まさにその「凡夫」こそが、阿弥陀仏の救いの対象なのです。無常を悟りきった聖者ではなく、悟れずに泣く者こそが、救われる。

 一茶の句は、人間の弱さを突き放さず、そのまま見つめています。受け入れられない心を、そのままの形で詠みとどめた一句。そこに、凡夫として生きるほかない私たちの姿が、浮かび上がってくるのです。

2025年11月14日金曜日

11月後半のことば 念仏の念は「思うこと」ではないの?

 11月後半のことば

念仏の「念」は声


 「念」とは、ふつう「思うこと」を意味します。だから「念仏」とは「仏を思うこと」と考えるのが自然でしょう。実際、仏教の修行の中には、瞑想によって仏の姿や浄土の光景を心に思い描く行があります。静かに座り、心を澄ませ、阿弥陀仏の慈悲の相を目の前に映し出す。それも立派な「念仏」です。けれども、この心に仏を思い浮かべる行は、言うほどやさしいものではありません。心はすぐに散ってしまう。雑念が入り込み、仏どころか今日の夕飯の心配にまで及んでしまう。人間とはそういう存在です。

 唐の善導大師は、瞑想の境地に立った上で、「阿弥陀仏の本願にある念仏とは、声に出してその名を称えることだ」と説かれました。つまり、「南無阿弥陀仏」と口に出すことが、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くための道なのです。日本の法然上人はこの教えを受け継ぎ、「念は声である」と明言しました。心は不安定でままならないものです。声に出すことは、容易く確かでまっすぐです。声は空気を震わせ、自分の耳に返ってくる。すると、仏を称える声が、自分を包み、導くように感じられもします。

 極楽浄土への道は、特別な才能や深い瞑想を必要としません。ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよい。思うだけでは届かないところに、声は届く。こんなにありがたいことがあるでしょうか。声は、誰にでも与えられた往生浄土のための行なのです。

2025年10月31日金曜日

11月前半のことば「凡夫にとっての善は所詮自分のためになること」

 

11月前半のことば

凡夫にとっての善は所詮自分のためになること

 人はだれでも、善い人でありたいと思っています。けれども、心の奥をのぞいてみると、「自分だけが得したい」「あいつより上にいたい」といった思いが顔を出します。

 善いことをしても、「人に感謝されたい」「少しでも認められたい」と、どこかで打算が働いているものです。そんな自分に気づくと、少し情けなくなりますが、それが「凡夫(ぼんぶ)」の正直な姿なのでしょう。


 仏教には、「因果の道理」が説かれています。善い因を積む者は楽の果を受け、悪い因を積む者は苦の果を受けます。

 しかし、煩悩に満ちた私たちが、まことの善をなすことは容易ではありません。どうしても、自分を中心にしか物事を見られないのです。


 阿弥陀仏(あみだぶつ)は、そんな私たちを見捨てることができず、「善をなせぬ者をどうすれば救えるか」と、五劫(ごこう)という長い時間、思い悩まれました。

 そして、『南無阿弥陀仏』という名号の中に、ご自身の修めたすべての功徳(くどく)を込めてくださいました。


 私たちは、もはや自分の力に頼らずとも、『南無阿弥陀仏』と称えることで、阿弥陀仏の功徳に結ばれ、「極楽(ごくらく)へ生まれる」という楽の果をいただくことができます。

 阿弥陀仏は、因果の道理を曲げずに、凡夫のための道を開いてくださいました。

 人の弱さを知り抜いた上で、それでもなお救おうとするお慈悲の深さ。そのことを思うと、ただ『南無阿弥陀仏』**と称えたくなりませんか。

2月前半のことば

  2月前半のことば 「絶対ということは 絶対にない」                        私たちは無意識に「絶対」という名の杖を頼りに歩いています。「努力は実る」「日常は続く」「組織に尽くせば安泰だ」といった確信です。しかし、その杖が不意に折れたとき、人は深い落胆とい...