2026年6月30日火曜日

 7月前半のことば

「生(しょう)ずれば死あるべし」                           

 人はこの世に生を受ければ、必ず死を迎えます。なぜ死ぬのか。その答えは残酷なほどシンプルです。「生まれたから」それ以外に理由はありません。これは誰もが知っている、動かしがたい真理です。

 けれど、頭で理解していても、感情で受け入れるのは容易ではありません。茶碗がいつか割れると知っていても、実際にお気に入りだった一品が壊れれば、深く落胆します。母校の校舎が取り壊されるとき、「形あるものはいつか消える」と承知していても、胸が締めつけられるような寂しさを覚えます。家族やペットとの別れを、平然と受け入れられる人などいないでしょう。「失いたくない」と願うのは、人間としてのありのままの心です。

 阿弥陀仏は、死を恐れ、悲しみに震える私たちのために、極楽浄土を用意されました。仏さまの世界へ往生(おうじょう)すれば、もう二度と死に惑わされることはありません。死の恐怖そのものが消え去り、永遠の安らぎを得ることができるのです。

 極楽へ至る道は、たった一つ。「南無阿弥陀仏」と称(とな)えること。 それだけです。散歩の途中でも、椅子に座っている時でも構いません。日々の暮らしの中で、お念仏を声に出しましょう。阿弥陀仏は、称える者を一人も見捨てることなく、極楽浄土へ確実に導いてくださるのです。

2026年6月14日日曜日

6月後半のことば「私の物差し 目盛は都合で変化する」

6月後半のことば

「私の物差し 目盛は都合で変化する」


 私たちは、自分の基準こそが「普通」だと思って毎日を過ごしています。しかし、立場が一つ変われば、ものの見方は驚くほど変わってしまうものです。

 たとえば、交通の場面を思い浮かべてみてください。車を運転している時は、道をゆっくり渡る歩行者を「邪魔だな」と感じてしまうことがあります。ところが、いざ自分が歩行者として道を渡る側になると、止まろうとしない車に対して「自分勝手だ」と憤(いきどお)りを感じる。身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。

 これは、お仕事や家庭の中でも同じです。人に指示を出す立場になれば、相手がすぐに動かないことに苛立ちを覚えます。逆に指示を受ける立場に回れば、今度は相手の言い方にトゲがあると感じて反発したくなる。

 私たちは、その時々の都合に合わせて、自分だけの「物差し」の目盛りを書き換えています。そして恐ろしいことに、その自分勝手な変化には、なかなか自分自身で気づくことができません。仏教では、このように自分を中心において物事を見てしまう心を「我執(がしゅう)」と呼び、私たちを苦しめる煩悩の根源であると説きます。

この我執を完全に消し去ることは、容易ではありません。私たちは常に「自分」というフィルターを通してしか、世界を見ることができないからです。

 しかし、「自分は我執の塊なのだ」と意識することなら、今日からでも始められます。自分の物差しは決して絶対ではないと自覚する。そこが救いへの第一歩です。まずは自分の目盛りが自分勝手に動いていないか。ふとした瞬間に立ち止まって、心を確認してみませんか。 

2026年5月31日日曜日

6月前半のことば「遭いがたき 法門に遭う」

 6月前半のことば

「遭いがたき 法門に遭う」                           

 

 仕事の失敗や病気など、人生は思い通りにいかないことばかりです。 あまりの辛さに「生まれてこなければよかった」と、後ろ向きに悩む日もあるでしょう。

 しかし、仏教が説く「輪廻(りんね)」という視点に立つと、今のあなたの価値がガラリと変わります。命は、地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天という「六つの世界」を巡り続けます。苦痛に耐え続ける地獄や、飢えに苦しむ餓鬼の世界では、自分のことで精一杯になり、他者を思いやる余裕など持てません。

 そんな厳しい世界をくぐり抜け、今、人間として生きている。それは、あなたが過去の苦難を自らの努力で乗り越えてきた「誇らしい証(あかし)」なのです。 誰もが、必死に頑張ってこの人間界へやってきました。

 ただし、人間に生まれることが極めて稀なのですから、いずれもっと苦しい境遇へ落ちる恐れがあります。その連鎖から私たちを救うため、阿弥陀仏は「わが名を呼ぶ者は、必ず極楽浄土へ迎えとろう」と誓われました。

 奇跡的に人間となれた私たちが、この救いの教えに出遇(あ)える機会は、さらに貴重で尊いものです。これこそが「遭(あ)いがたき法門に遭う」という言葉の真意です。「南無阿弥陀仏」と口に出して称えましょう。ただそれだけで、長くさまよい続けてきた苦しみの連鎖を抜け出し、極楽浄土へ往生できるのです。

2026年5月14日木曜日

5月後半のことば 「与うる者に功徳は増す」

 5月後半のことば

与うる者に功徳(くどく)は増す


 「他者に何かを与えると、自分に良い報いが返ってくる」仏教には、そんな教えがあります。

 私たちはつい「少しでも得をしたい」と考えがちです。仏教ではこのむさぼる心を「貪(とん)」と呼び、人を苦しめる煩悩の一つと捉えます。

 「家族のために家事をしたのに、感謝されない」

 「楽しみにしていたお弁当が、売り切れている」

 「会議で自分の意見が、なかなか通らない」

 思い通りにならない現実に直面したとき、私たちの心は乱れ、怒りや悲しみが生まれます。こうした「欲求」が満たされない状態こそが、苦しみの正体です。

 この苦しみを手放す方法があります。それが「布施(ふせ)」です。

 布施とは、物やお金を与えることだけではありません。電車で席を譲る。家族に「ありがとう」と伝える。出会った人に笑顔を向ける。こうした小さな行いも、すべて立派な布施です。

 誰かのために行動することで、私たちは自己中心的な欲から解き放たれます。他者を喜ばせる行いは、巡り巡って、あなた自身の心を穏やかにしてくれるはずです。

 今日から少しだけ、周りに「与える」生活を始めてみませんか。

                    


2026年4月30日木曜日

5月前半のことば「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」ビクトル・ユーゴー

 5月前半のことば

「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」

                                                   ビクトル・ユーゴー

 名作『レ・ミゼラブル』の著者ユーゴーは、人生の苦難を「木」に、そこから得られる喜びを「果実」になぞらえました。この比喩は、仏教の教えと響き合います。

 仏教が目指すのは「苦」からの解放です。それは単なる目の前の困難ではなく、迷いの世界で生を繰り返す「輪廻(りんね)」という仕組みそのものを指します。この連鎖を断つには、原因である「煩悩」を消さねばなりませんが、凡夫にとってそれは容易ではありません。

 浄土宗の宗祖・法然上人も、自らの力で煩悩を消せない無力さに深く悩まれました。模索の末に出会ったのが、阿弥陀仏の「本願」です。「わが名を呼ぶ者は必ず極楽へ迎え取る」というこの約束こそ、私たちが輪廻の苦しみから離れる唯一の道でした。

 病を経て健康を尊ぶように、失敗を越えて成功を掴むように。深い闇があるからこそ、光の喜びは際立ちます。果てなき苦しみを繰り返してきた私たちが、「必ず救われる」という確信を得る。それこそが、人生という大木に実る、最も尊い「喜びの果実」なのです。

2026年4月14日火曜日

4月後半のことば 「誰一人として 平均的な人などいない」

4月後半のことば

「誰一人として 平均的な人などいない」

私たちは日常生活で、つい「普通」や「平均」という物差しで自分や他人を測ってしまいます。「平均より背が高い」「普通の家庭」といった言葉は便利ですが、実態を捉えてはいません。

 仏教には諸法無我(しょほうむが)という教えがあります。これは、すべての物事はさまざまな原因や条件が重なり合って成立しており、固定不変な実体(我)はどこにも存在しないという意味です。

 たとえば、目の前にある一杯のお茶を考えてみてください。茶葉の産地、注いだ水の温度、淹れた人の加減によって、その味は刻一刻と変化します。昨日のお茶と今日のお茶は、厳密には同じではありません。

 人間も同様です。私たちは、生まれ持った性質、経験した出来事、周りの環境、時の情勢、その日の体調といった無数の要素が組み合わさって存在しています。

・計算は得意だが、運動は苦手な人

・朝は元気に挨拶するが、夜は静かに過ごしたい人

・普段は冷静だが、特定の趣味には熱中する人

 これらの要素は常に移ろい、一人として同じ組み合わせはありません。「平均的な人」という型は頭の中にある概念に過ぎず、現実には存在しないのです。

 自分を誰かと比べることに、あまり意味はありません。変化し続ける唯一無二の自分を、そのまま受け止めることから始めてみませんか。


2026年3月31日火曜日

4月前半のことば「一切の行は無常なり」

4月前半のことば

4月前半のことば

「一切の行は無常なり」


仏教の根本的な教え「諸行無常」。すべてのものは移り変わり、同じ状態で止まるものは何一つないということです。


 私たちの生活を振り返ってみましょう。

・子どもが独立して、家族の形態が変わります。

・年を重ねて、自分の老いを実感します。

・時代が移り、世の中の価値観が変わります。

 このように、身の回りの環境も自分自身も常に変化します。同じ状態を保つことは不可能です。

 鎌倉時代、鴨長明は、『方丈記』で次のように記しました。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

 川はいつも同じ川に見えます。しかし、流れる水は一瞬一瞬入れ替わっています。人生や社会も、この川の流れと同じです。

 私たちは「今の状態が続いてほしい」と望みます。仏教ではこの願いを「執着(しゅうじゃく)」と呼びます。変わらないことを望むと、苦しみが生じます。物事は必ず変わるという事実はなかなか受け入れるのが難しいことです。しかし、ときどき「諸行無常なんだよなあ」と思い出してみましょう。変化は自然なことなのだと自分に言い聞かせて、今この瞬間を大切に生きるのです。 

 7月前半のことば 「生(しょう)ずれば死あるべし」                             人はこの世に生を受ければ、必ず死を迎えます。なぜ死ぬのか。その答えは残酷なほどシンプルです。「生まれたから」それ以外に理由はありません。これは誰もが知っている、動かしがた...