2026年9月14日月曜日

9月後半のことば「お彼岸はお念仏の強化週間」

 9月後半のことば

「お彼岸はお念仏の強化週間」

                 

 春分と秋分を中心とした七日間、「お彼岸」の季節を迎えます。

 彼岸とは、阿弥陀さまがいらっしゃる「西方極楽浄土」のこと。迷いや悩みの尽きない私たちの世界「此岸(しがん)」に対し、西の彼方にある究極の安らぎの世界を指します。私たちはいつか、自らの欲望や怒りで苦しむこの世界を離れ、極楽浄土を目指すのです。

 では、その極楽へ往くためにはどうすればよいのでしょうか。

阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を、必ず救い取る」と温かいお約束をしてくださっています。その温かなお慈悲に身を委ね、「南無阿弥陀仏」とお応えする。それが念仏です。

 お彼岸の時期は、太陽が真東から昇り、真西へと沈みます。

つまり、目指すべき極楽の方角が一年で最もはっきりと示される時期。西の空へと思いを寄せ、しっかりと念仏を称えましょう。

「いつか極楽浄土へ往きたい」と、自らの往生を願う。

「先に往かれたあの人に会いたい」と、亡き人を偲ぶ。

「阿弥陀さま、どうか見守っていてください」と祈る。

 念仏は毎日の暮らしの中で称えるものですが、お彼岸は、その念仏の心をさらに深める「強化週間」と受け止めましょう。

 西へ沈む美しい夕日を見つめながら、ともに念仏をお称えいたしましょう。

2026年8月31日月曜日

9月前半のことば「こけたら立ちなはれ 立ったら歩きなはれ」松下幸之助

9月前半のことば

「こけたら立ちなはれ 立ったら歩きなはれ」

                              松下幸之助

 「経営の神様」と呼ばれ、一代でパナソニックを築き上げた松下幸之助氏の、率直で温かい言葉です。

 私たちは日々を生きる中で、時としてつまずくことがあります。仕事でのミス、家族との意見のすれ違い、突然の病。こうした思い通りにならない出来事は、誰にでも訪れるものです。

 仏教では、物事は直接の原因だけでなく、周囲のさまざまな条件が影響し合って起きると考えます。この外からの作用を「縁」と呼びます。つまり、あなたがこけたのは、決して努力不足だけが理由ではありません。いくつもの縁が重なった結果なのです。ですから、どうか自分ばかりを責めないでください。

 しかし、座り込んだままでは目の前の景色は変わりません。

 大切なのは、次にどのような行動を起こすかです。仏教では人間の行いを「業(ごう)」と呼びますが、私たちは常に、いま置かれた縁の中で「自分がどう動くか」を問われています。

 まずはご自身のペースで、ゆっくりと立ち上がってみてください。そして、前を向いて一歩を踏み出す。転んで痛みを知った経験自体が新しい縁となり、これからのあなたの歩みを、きっと力強く支えてくれることでしょう。 

2026年8月14日金曜日

8月後半のことば 「他人を尊重することが自分を尊重する一歩 」

 8月後半のことば

「他人を尊重することが自分を尊重する一歩 」

 私たちはつい、自分や家族、会社など「身近な集団」の利益ばかりを優先してしまいます。「自分たちさえ損をしなければいい」という考えは、知らず知らずのうちに他者への関心を奪ってしまいます。

 仏教では、こうした自己中心的な心の働きを「煩悩」と呼びます。実は、「自分だけは得をしたい」と願う心こそが、あなたを苦しめる真の原因なのです。意見を押し通して衝突する。利益を優先して孤立する。これらはすべて、自分を優先した結果にほかなりません。

 人は放っておけば、どこまでも自分の得になるように動く生き物です。だからこそ、意識して「他者」へ心を向け、大切に扱う必要があります。

 相手の立場に立って話を聴く。電車で席を譲る。こうした小さな思いやりが、あなたを煩悩の呪縛から解き放ちます。誰かを尊重し喜ばせる行いは、巡り巡って、あなた自身の心を守り、穏やかな安らぎをもたらしてくれるのです。

ただし、実践を重ねるほど、他人を尊重することの難しさに直面するでしょう。「いかに自分は自己中心的なのか」と、鏡を見るように己の姿を省みること。その自覚こそが、心を調えるための尊い第一歩となります。

2026年7月31日金曜日

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば

「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。

 しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親のまなざしの温かさを、痛いほどに実感するものです。「親もまた、自分と同じように悩み、迷いながら生きていたのだ」と、今なら寄り添える気がします。

 阿弥陀さまは「私を呼ぶ者は、一人残らず極楽浄土へ迎え取る」と、温かい手を差し伸べてくださっています。私たちはただ、そのお慈悲を頼りに「南無阿弥陀仏」と声を出すだけでよいのです。

 大切な人が亡くなったら、南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せしましょう。きっと極楽浄土へ誘ってくださいます。そして残ったあなたも、南無阿弥陀仏と称えてこの人生を歩みましょう。先に往かれた大切な人は、お念仏を称えるあなたを、阿弥陀さまと一緒に今も優しく見守り、導いてくださっています。

 もうすぐお盆。じりじりと響く蝉の声は、まるで「お念仏を忘れるなよ」という、懐かしい人からの呼びかけのよう。極楽の同じ蓮の台(うてな)に生まれるという「一蓮托生(いちれんたくしょう)」の言葉通り、いつかまた再会できるその日まで、今日も手を合わせ、お念仏の声を響かせましょう。

2026年7月14日火曜日

7月後半のことば「人の過ちは見やすく、おのれの咎(とが)は見難し」

 7月後半のことば

「人の過ちは見やすく、おのれの咎(とが)は見難し」                           

 

 他人の欠点はすぐ目につくのに、自分の非にはなかなか気づけない。私たちは日頃、無意識に「自分」という物差しで世界を裁いています。

 たとえば、知人の機嫌が悪ければ「冷たい人だ」と憤り、意見が食い違えば「理解してくれない」と不満を募らせる。挨拶がなければ「無視された」と腹を立てる。

 けれど、自らの行動をそっと振り返ってみてください。心に余裕を失い、家族へきつい言葉を投げていませんか。自説を押し通すあまり、友人の発言を遮っていませんか。悩み事に囚われ、近隣の方の声かけを見落としていませんか。

 人間は、他者の振る舞いには厳格な審判を下します。一方で、おのれの言動には理由をつけて正当化してしまう。この偏った視点こそが、私たちを惑わす「煩悩(ぼんのう)」の働きです。

 「自分は自己中心的な存在である」と日常的に意識すること。鏡を見るように自身の姿を省みる習慣こそが、心を調える大切な第一歩となります。

2026年6月30日火曜日

7月前半のことば 「生(しょう)ずれば死あるべし」

 7月前半のことば

「生(しょう)ずれば死あるべし」                           

 人はこの世に生を受ければ、必ず死を迎えます。なぜ死ぬのか。その答えは残酷なほどシンプルです。「生まれたから」それ以外に理由はありません。これは誰もが知っている、動かしがたい真理です。

 けれど、頭で理解していても、感情で受け入れるのは容易ではありません。茶碗がいつか割れると知っていても、実際にお気に入りだった一品が壊れれば、深く落胆します。母校の校舎が取り壊されるとき、「形あるものはいつか消える」と承知していても、胸が締めつけられるような寂しさを覚えます。家族やペットとの別れを、平然と受け入れられる人などいないでしょう。「失いたくない」と願うのは、人間としてのありのままの心です。

 阿弥陀仏は、死を恐れ、悲しみに震える私たちのために、極楽浄土を用意されました。仏さまの世界へ往生(おうじょう)すれば、もう二度と死に惑わされることはありません。死の恐怖そのものが消え去り、永遠の安らぎを得ることができるのです。

 極楽へ至る道は、たった一つ。「南無阿弥陀仏」と称(とな)えること。 それだけです。散歩の途中でも、椅子に座っている時でも構いません。日々の暮らしの中で、お念仏を声に出しましょう。阿弥陀仏は、称える者を一人も見捨てることなく、極楽浄土へ確実に導いてくださるのです。

2026年6月14日日曜日

6月後半のことば「私の物差し 目盛は都合で変化する」

6月後半のことば

「私の物差し 目盛は都合で変化する」


 私たちは、自分の基準こそが「普通」だと思って毎日を過ごしています。しかし、立場が一つ変われば、ものの見方は驚くほど変わってしまうものです。

 たとえば、交通の場面を思い浮かべてみてください。車を運転している時は、道をゆっくり渡る歩行者を「邪魔だな」と感じてしまうことがあります。ところが、いざ自分が歩行者として道を渡る側になると、止まろうとしない車に対して「自分勝手だ」と憤(いきどお)りを感じる。身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。

 これは、お仕事や家庭の中でも同じです。人に指示を出す立場になれば、相手がすぐに動かないことに苛立ちを覚えます。逆に指示を受ける立場に回れば、今度は相手の言い方にトゲがあると感じて反発したくなる。

 私たちは、その時々の都合に合わせて、自分だけの「物差し」の目盛りを書き換えています。そして恐ろしいことに、その自分勝手な変化には、なかなか自分自身で気づくことができません。仏教では、このように自分を中心において物事を見てしまう心を「我執(がしゅう)」と呼び、私たちを苦しめる煩悩の根源であると説きます。

この我執を完全に消し去ることは、容易ではありません。私たちは常に「自分」というフィルターを通してしか、世界を見ることができないからです。

 しかし、「自分は我執の塊なのだ」と意識することなら、今日からでも始められます。自分の物差しは決して絶対ではないと自覚する。そこが救いへの第一歩です。まずは自分の目盛りが自分勝手に動いていないか。ふとした瞬間に立ち止まって、心を確認してみませんか。 

9月後半のことば「お彼岸はお念仏の強化週間」

 9月後半のことば 「お彼岸はお念仏の強化週間」                     春分と秋分を中心とした七日間、「お彼岸」の季節を迎えます。  彼岸とは、阿弥陀さまがいらっしゃる「西方極楽浄土」のこと。迷いや悩みの尽きない私たちの世界「此岸(しがん)」に対し、西の彼方にあ...