2020年6月7日日曜日

良忠上人のご生涯②(仏門に入る)

3歳で良忠上人は出雲の鰐淵寺に入られます。

今の小学6年生か中学1年生の頃からお寺で

過ごされたということになります。

やはり相当優秀であったようです。

14歳になられたお正月のことです。

建暦二年の元日。

建暦二年ってみなさん聞き覚えありませんか?

そうです。
「建暦二年正月二十三日大師在御判」とありますように

『一枚起請文』が記された年であり、

その二日後に法然上人が往生された年でもあります。

奇しくもその同じ正月に良忠上人はこんな歌を詠まれたといいます。

五濁(ごじょく)の憂き世に生まれしは 

恨みかたがた多けれど 

念仏往生と聞くときは 

かえりて嬉しくなりにけり

五濁」と申しますのは

①劫濁②見濁③煩悩濁④衆生濁⑤命濁  の五つです。

『浄土宗大辞典』によりますと

①劫濁(こうじょく)とは「時代のみだれで、

戦乱・飢饉・疫病などが多くなること」です。

②見濁(けんじょく)は

「思想のみだれで、邪悪な思想がはびこること」

③煩悩濁(ぼんのうじょく)は

「  貪・瞋・痴の三毒煩悩などが盛んになること」

④衆生濁(しゅじょうじょく)は

「人びとの資質が低下して教えの理解力が劣化すること」

⑤命濁は

「人びとの寿命が短くなること」です。

現代のことを指しているように感じませんか?

仏教の時代感覚は800年前も現代も同じ括りなのです。

良忠上人のお歌は

五濁の世に生まれてきたことは辛いことだけれど、

念仏を称えていたら必ず往生できることを知ると、

この世に生を受けたことがかえって嬉しくなるものである

というものでした。

それを聞いた先輩が

「正月早々縁起でもない!」

と良忠上人を叱ったといいます。

かの一休禅師も正月早々にドクロを持って

「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

とふれて歩いたといいます。

良忠上人は先輩に言われたことであるから

反論はしなかったけれども、心の中で

「人の命は時を選ばない。そう考えると正月も盆もない。

今日もしあなたの命が終わるとしたらどうするのか!?」

と思われたといいます。

2020年6月6日土曜日

良忠上人のご生涯①(ご生誕)

これから浄土宗の第三祖「良忠上人」の略伝をお伝えしてまいります。

「聖光上人のご生涯」の冒頭で「初代がいくら偉くても、

二代目三代目が頼りないと潰れてしまいます」と申し上げました。

聖光上人は「一本筋の入った貫禄ある念仏行者」というイメージです。

良忠上人は「浄土宗教団の地盤を固めた行動力の人」と言えるでしょう。

良忠上人は著作が多いことから

「記主禅師」(きしゅぜんじ)とも呼ばれています。

またご自身のことを

「然阿」(ねんな)ともおっしゃいます。

良忠上人は正治元年(1199)石見の国

つまり今の島根県三隅町というところのお生まれです。

法然上人は長承2年(1133)のお生まれですから、

66歳違いということになります。

「おじいさんと孫」ほどの年齢差です。

残念ながら、法然上人のご在世中に良忠上人との

ご対面は叶いませんでした。

お父さまは藤原一族の名門の末裔ですが、

出家して天台宗のお坊さんになられ、

お名前を「円尊」とおっしゃいました。

後に岩見の国に移住されましたが、その理由は定かではありません。

お母さまは伴氏とだけわかっていますが、こちらも詳細は不明です。

今お生まれになった場所には良忠寺というお寺が建っていますが、

明治になってから良忠上人を讃えて建てられたお寺です。

法然上人や聖光上人と同じく、

幼いときからとても聡明なお子であったようです。

11歳の時に三智法師という方がお父さまの円尊さまを訪ねて来て、

恵心僧都源信さまの『往生要集』という書物のお話しを

傍で聞いて感激したといいます。

恵心僧都源信さまは日本の浄土教の基礎を築いた方です。

『往生要集』には、地獄、餓鬼、畜生、

そして極楽の様子がつぶさに記されています。

みなさんは「地獄絵図」をご覧になったことはありますか?

地獄の獄卒が罪人を苦しめる絵は一度観たら脳裏に焼き付けられます。

あの絵の元になっているのが『往生要集』です。

極楽浄土についても詳しく記されています。

本書には法然上人も大きく影響を受けておられます。

良忠上人は11歳の時にその地獄の様子、

そして極楽の様子を聞いて打ち震えたというのです。

2020年6月5日金曜日

霊膳の供え方

お寺での様々な行事ではもちろんのこと、ご自宅ではお年忌法要や

お盆の棚経の際に「お霊膳」をお供えしてくださるお家が多くあります。

お家によっては月参りや中陰法要でもお供えくださるところもあります。

一汁三菜の精進料理が基本です。

ニンニク・らっきょう・ネギ・ニラ・はじかみなど

匂いのきついものは避けましょう。

その中身について、具体的に説明してまいります。








①飯椀(めしわん)…ご飯


ご飯を入れる飯椀は一番大きなお椀です。

山盛りに形よく盛りましょう。

一番小さいフタが飯椀用ですのでご注意。




②汁椀(しるわん)…味噌汁・おすまし

飯椀と同じような形をしていますが、一回り小さいお椀です。

フタは飯椀より大きいですが、落とし蓋です。

汁物の出汁は昆布などの植物性のものを使いましょう。




③平(ひら)…煮物

平の器には真ん中に横線が入ったものが多いです。

フタはかぶせ蓋です。

汁物と同じく出汁は鰹やいりこではなく、

植物性のものからだしましょう。

もちろん肉・魚や卵、じゃこなどは避けましょう。




④壺(つぼ)…なます・和え物

壺の器にも真ん中に横線が入ったものが多いです。

こちらもフタはかぶせ蓋です。




⑤高坏(たかつき)…香の物(漬物等)

高坏にはフタはありません。

お膳の真ん中に配置します。





⑥箸(はし)

塗りのお箸か柳箸を使います。

↓の写真のように、仏さま側にお箸がくるようにお供えします。

正式には箸袋に入れておきます。

僧侶は箸袋から箸を出してお箸を清める作法をします。





※浄土宗では飯椀の前に壺、汁椀の前に平を配置します。

 壺と平の位置がややこしいので、「飯壺、汁平」(めしつぼ、しるひら)

 覚えよ、と教えられます。

 ご参考まで!










2020年6月4日木曜日

聖光上人のご生涯⑧(往生院での別時念仏・そしてご往生)

8年に渡って法然上人の元で過ごされた聖光上人は、

43歳にして九州へ帰郷されます。

法然上人から「私が知っていることはすべて伝えた」と認められ、

九州での布教を志されたのです。

九州へ帰られた聖光上人は、いくつものお寺を建て、

念仏の布教に努められます。

その内の一つが久留米の善導寺です。

浄土宗の大本山の一つです。

浄土宗は総本山が知恩院、その下に大本山が全国に七ヵ寺あります。

東から東京芝の増上寺鎌倉光明寺、長野の善光寺大本願

黒谷金戒光明寺百萬遍知恩寺清浄華院、そして久留米の善導寺です。

聖光上人は善導寺の他、吉祥寺、博多善導寺、正定寺、光明寺、

本誓寺、極楽寺、安養寺、天福寺、無量寿院、等多くの寺院を開かれました。

その数は四十八ヵ寺に及ぶといわれています。

安貞2年(1228)聖光上人67歳、法然上人の十七回忌の年のことです。

九州へ帰って今日の都の現状を聞き伝えるによると、

どうも法然上人の教えと違った教えが跋扈しているようだ。

これではダメだと熊本県白川河の畔、往生院にて、

20数名の弟子や信者達と共に48日間の別時念仏を行います。

往生院は熊本地震(2016)で大きな被害があり、

その翌年私は仲間と共に災害見舞いに参りました。

本堂も傷み、境内の墓石の多くが倒壊し、揺れの大きさを物語ります。

往生院は聖光上人の時代は白川河の畔にありましたが、

江戸時代に現在の地へ移転されました。

元の地は「旧往生院」として碑が建てられています。

別時とは普段の念仏と違い、

「時と場所を定めて集中的にお念仏を称える」ことです。

聖光上人は往生院に於いて、48日間毎日、

ずっとお念仏をお称えになりました。

その最後の3日間で法然上人から口伝えにて聞いた教えを弟子達に伝えられます。

そして末代、つまり後々の人々に正しい教えが伝わるように、

末代念仏授手印』を書いて、その最後には

自らの両手の手印を押して証しとされます。

「この書物の内容が嘘偽りであるならば、

私は両手が爛れても構いません!!」

との決意を表明されたのが『末代念仏授手印』です。

「末代念仏授手印」とは

「末代の者を救う念仏の教えを間違いなく伝えるぞ」

という意味です。

昔、師匠から弟子に教えを伝える時に、

師匠の左手と弟子の右手をしっかりと合わせて、

「正しく伝えたぞ」と確認しました。

これを「授手印」と申します。

聖光上人も八女天福寺にて弟子の良忠上人に授手印でもって、

しっかと教えを伝えられました。

そして良忠上人は浄土宗の第三祖となられます。

聖光上人は浄土宗の第二祖として、

念仏のみ教えを広げられた先達です。

法然上人との出会いから一生涯、

欠かさず念仏を称えられた行の人が聖光上人です。

日々六万辺の念仏を行じ、良忠上人という後継者に

しっかりと教えを伝授して安心なさったのでしょう。

良忠上人が故郷へ戻られた翌年、嘉禎四年(1238)閏2月29日

77歳にてご往生なさいました。
                             (以上「聖光上人のご生涯」の項おわる)


参考文献
『聖光上人傳』了慧道光
『浄土仏教の思想 弁長 隆寬』梶村昇・福原隆善
『聖光と良忠』梶村昇
『聖光上人-その生涯と教え-』藤堂俊章

2020年6月3日水曜日

聖光上人のご生涯⑦(法然門下としての日々)

法然上人の元へ戻られた聖光上人、毎日毎日法然上人の元へ通い、

念仏のみ教えを求められました。

聖光上人の熱意に応えて法然上人も毎日

長時間に渡って教えを説かれます。

法然上人の古くからの門弟、真観房感西上人が心配して、

「聖光上人、あなたの熱意は分かるけれども法然上人もご高齢の身。

せめて二日に一度になさいませよ。」

と仰った。

聖光上人も

「そうか、気づかなかった。法然上人もお疲れであろう。

申し訳ないことをした。」

と反省なさり、一日法然上人の元を訪ねるのを控えました。

ところがなんと、法然上人から使いが来て、

「法然上人がお待ちですよ。聖光房は病気か?と

心配なさっていますよ。」とのお言葉です。

こんな嬉しいことがありましょうか。

感激した聖光上人は、以後一層念仏に励みます。

その後法然上人から、

「あなたは教えを伝承するのに相応しい僧侶である。」

と認められ、法然上人のお念仏のみ教えがまとめられた

法然上人の著書、『選択本願念仏集』を書き写すことを許されます。

『選択本願念仏集』は略して『選択集』ともいい、

関白九条兼実公からの請いにより建久九年に撰述されました。

『選択集』は、浄土宗の教えが理路整然と説かれた

法然浄土教の集大成ともいえる書物です。

現在は岩波文庫からも発刊されていますが、

法然上人は一読した後、壁底に埋めよと本書の末尾に記しておられます。

「極楽へ往生するには念仏をおいて他にない」ということが

力強く説かれていますので、仏教全体に理解がない者に見せると

念仏以外の教えを誹謗する可能性があると危惧されたのだと思われます。

ですからしっかりと教えを受け取った弟子にのみ、

その書写を許されたのです。

また聖光上人は、「一枚起請文」も法然上人から授けられています。

いわゆる「一枚起請文」は、法然上人が往生される二日前、

いつも身の回りの世話をする側近の弟子である勢観房源智上人

法然上人に「最後に浄土宗の教えの要を一筆お示し下さい。」

と頼まれ、その願いに応えて書かれたものとして知られています。

しかし、これはご臨終間際に考えて書かれたものではなく、

生前から「この人に」という人が現れたら授けておられたようです。

聖光上人は源智上人と共に、法然上人から

厚い信頼を受けた弟子のお一人なのです。

2020年6月2日火曜日

聖光上人のご生涯⑥(法然上人との出会い)

このお二人の出会いがあったからこそ、

今の浄土宗があります。

時に法然上人御歳65歳聖光上人36歳

法然上人はすでに円熟した年齢、聖光上人は男盛りです。

対面するなり法然上人は聖光上人に尋ねます。

「あなたはどんな修行をしているのですか?」

聖光上人は

「今は勧進をして五重の塔の建立に努めています。

普段は念仏を称えています」

と応えます。

法然上人は

念仏には色んな種類がある。

瞑想して浄土を観ようとする観念の念仏。

難しい修行ができない、レベルの低い人が称えるという念仏。

そして善導大師が勧めた念仏。

あなたはどれを学びに来たのか?!

法然上人が浄土宗を建てられたのでは、

三番目の善導大師が説かれたところの、

阿弥陀仏の本願念仏を拠り所としてのことでした。

博学の聖光上人が答えられないこはないでしょうが、

法然上人のオーラに圧倒されて押し黙ってしまわれました。

聖光上人は頭を下げ、法然上人の人格に深く帰依なさいました。

学徳兼備の聖光上人でありますが、

「自分は仏教の修行を積んではいるが、

死の恐怖から逃れる術すら知らない」

と気づかれました。

一流は一流を見抜く力をお持ちだといいます。

自分が求める先をご存じであろう先達、

法然上人という方と出会ったならば、

即座に頭を下げて教えを請われるのです。

法然上人も目を見ればわかります。

求める者にはとことん教えを伝えよう。

聖光上人に善導大師が説かれる

お念仏のみ教えを順々に説かれます。

最初面会されたのが午後2時頃。

それから夜中の12時まで、

10時間もぶっ通しで説かれたんです。

求める聖光上人と、説く法然上人、

一発で信頼し合ったのでしょう。

「この方からもっともっとみ教えを聞きたい。

法然上人とお会いすることがなかったら、

虚しく一生を過ごしたことだろう」

と聖光上人は法然上人の門弟になります。

それ以来今まで培った学問と修行を捨てて念仏の道へ入られます。

これは大変なことです。

今までの蓄積を一切捨てるということですから。

でも本当に救いを求めるにはこういう決断が必要です。

今までの学問と修行を捨てるということは、

自力を捨てるということです。

聖光上人はお母さまとの死別、

三明房さまの出来事などを経験されています。

「いつ死ぬかも分からない」ということを

人一倍強く思っておられたことでしょう。

そして人一倍修行に明け暮れたことでしょう。

しかし修行をすればするほど、学問を重ねれば重ねるほど

ゴールが遠いことがわかってきます。

そんな時に法然上人と出会われたのです。

法然上人が説かれる念仏の教えは、自分を磨いて力をつけて

覚りを開くという自力の教えではありません。

「私は愚かな凡夫である」と自覚して、

阿弥陀さまに救っていただく他力の教えです。

自分の力では覚りには覚束ないということを、

目をそらさずにしっかりと見つめられたからこそ今までしてきた

修行と学問をあっさりと捨て去ることができたのでしょう。

5月から7月までの3ヶ月間毎日法然上人の元で教えを聞きます。

そんな充実した毎日を送っておられた時、

先に康慶に頼んでいた仏像ができたので、一旦九州の明星寺へ戻ります。

そして五重塔に仏像を安置して落慶法要を行います。

福岡県飯塚市の飯塚観光協会ホームページにこのような記載があります。

  「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
   一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、
   従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが
   兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い
  「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、
   名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれます。

   また、一つには聖光上人が、当市太養院において
   旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、
   民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって
   小山をつくり、 それがあたかも塚のようであったので
   「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになった
   とも伝えられています。
  (飯塚市観光ポータル http://www.kankou-iizuka.jp/history/  )

二つ目の説に聖光上人のお話が出ています。

ここでは三重塔と記されていますが、聖光上人の伝記と符合します。

このように明星寺としては聖光上人は大切な人です。

しかし聖光上人は一刻も早く法然上人の元へ戻りたい。

人生決断の時です。

聖光上人は明星寺にて一応のお役を果たした後、

京都へと向かうことになります。

2020年5月31日日曜日

聖光上人のご生涯⑤(康慶の屋敷にて)

ある時、明星寺五重の塔再建の計画が持ち上がり、

衆徒からその勧進に聖光上人をとの声が挙がりました。

かつて明星寺には五重の塔があったのですが、

その当時はすでに廃絶して基礎の石だけが残っていたのだそうです。

「勧進」というのはいわゆる寄付集めですが、

勧進の役には学徳兼備の優れた方が選ばれます。

人望や信用のない人が集めても集まりませんよね。

その点からも聖光上人は、明星寺を代表する

名僧だったということがわかります。

聖光上人の勧進により、3年で五重塔が復興しました。

五重塔は完成しても肝心の仏さまがおられなくては何にもなりません。

そこで聖光上人は京都に出向いて、有名な仏師である

康慶に仏像の造立を依頼します。

康慶は運慶の父親です。

興福寺に祀られる不空羂索観音像や四天王などは康慶の作です。

聖光上人は仏像が出来るまでの数ヶ月を康慶の屋敷の離れで待ちます。

時代の違いですね。

のんびりしているというよりも、当時九州から京都まで出る

というのは大変さを物語ります。

この康慶の屋敷跡には現在聖光上人ゆかりの寺として、

浄土宗の聖光寺というお寺が建っています。

四条寺町を少し下がったとてもにぎやかな場所です。

康慶の屋敷に居りますと、毎日多くの人々が

東山に向かって歩く姿を多く目にします。

何事かと尋ねてみますと、

「今東山の吉水というところで、法然上人がお念仏の教えを説いておられる、

それを聞きに行く人々の群れですよ。」との応えです。

「あの有名な法然上人が来ておられるのか。

法然上人はとても優秀であったと聞く。

それほど優秀な方なのに比叡山を下りて

念仏一筋の教えを説いているというではないか。

なぜ比叡山を下りたのであろうか。

もしや死の恐怖から逃れる術をご存じかも知れない」

という思いもあったのかもしれません。

そして聖光上人ご自身も優等生ですから

「しかし法然上人といえども知識の上では私の方が上であろう」

といういささか高慢な思いを両面に持ちつつ、

法然上人のおられる吉水の庵、今の知恩院の地を訪ねます。

良忠上人のご生涯②(仏門に入る)

3歳で良忠上人は出雲の 鰐淵寺 に入られます。 今の小学6年生か中学1年生の頃からお寺で 過ごされたということになります。 やはり相当優秀であったようです。 14歳になられたお正月のことです。 建暦二年の元日。 建暦二年ってみなさん聞き覚えありませんか? そうです。 「建暦二年正...