2020年5月31日日曜日

聖光上人のご生涯⑤(康慶の屋敷にて)

ある時、明星寺五重の塔再建の計画が持ち上がり、

衆徒からその勧進に聖光上人をとの声が挙がりました。

かつて明星寺には五重の塔があったのですが、

その当時はすでに廃絶して基礎の石だけが残っていたのだそうです。

「勧進」というのはいわゆる寄付集めですが、

勧進の役には学徳兼備の優れた方が選ばれます。

人望や信用のない人が集めても集まりませんよね。

その点からも聖光上人は、明星寺を代表する

名僧だったということがわかります。

聖光上人の勧進により、3年で五重塔が復興しました。

五重塔は完成しても肝心の仏さまがおられなくては何にもなりません。

そこで聖光上人は京都に出向いて、有名な仏師である

康慶に仏像の造立を依頼します。

康慶は運慶の父親です。

興福寺に祀られる不空羂索観音像や四天王などは康慶の作です。

聖光上人は仏像が出来るまでの数ヶ月を康慶の屋敷の離れで待ちます。

時代の違いですね。

のんびりしているというよりも、当時九州から京都まで出る

というのは大変さを物語ります。

この康慶の屋敷跡には現在聖光上人ゆかりの寺として、

浄土宗の聖光寺というお寺が建っています。

四条寺町を少し下がったとてもにぎやかな場所です。

康慶の屋敷に居りますと、毎日多くの人々が

東山に向かって歩く姿を多く目にします。

何事かと尋ねてみますと、

「今東山の吉水というところで、法然上人がお念仏の教えを説いておられる、

それを聞きに行く人々の群れですよ。」との応えです。

「あの有名な法然上人が来ておられるのか。

法然上人はとても優秀であったと聞く。

それほど優秀な方なのに比叡山を下りて

念仏一筋の教えを説いているというではないか。

なぜ比叡山を下りたのであろうか。

もしや死の恐怖から逃れる術をご存じかも知れない」

という思いもあったのかもしれません。

そして聖光上人ご自身も優等生ですから

「しかし法然上人といえども知識の上では私の方が上であろう」

といういささか高慢な思いを両面に持ちつつ、

法然上人のおられる吉水の庵、今の知恩院の地を訪ねます。

『聖光上人 その生涯と教え』
藤堂俊章


2020年5月30日土曜日

聖光上人のご生涯⑥(法然上人との出会い)

このお二人の出会いがあったからこそ、

今の浄土宗があります。

時に法然上人御歳65歳聖光上人36歳

法然上人はすでに円熟した年齢、聖光上人は男盛りです。

対面するなり法然上人は聖光上人に尋ねます。

「あなたはどんな修行をしているのですか?」

聖光上人は

「今は勧進をして五重の塔の建立に努めています。

普段は念仏を称えています」

と応えます。

法然上人は

念仏には色んな種類がある。

瞑想して浄土を観ようとする観念の念仏。

難しい修行ができない、レベルの低い人が称えるという念仏。

そして善導大師が勧めた念仏。

あなたはどれを学びに来たのか?!

法然上人が浄土宗を建てられたのでは、

三番目の善導大師が説かれたところの、

阿弥陀仏の本願念仏を拠り所としてのことでした。

博学の聖光上人が答えられないこはないでしょうが、

法然上人のオーラに圧倒されて押し黙ってしまわれました。

聖光上人は頭を下げ、法然上人の人格に深く帰依なさいました。

学徳兼備の聖光上人でありますが、

「自分は仏教の修行を積んではいるが、

死の恐怖から逃れる術すら知らない」

と気づかれました。

一流は一流を見抜く力をお持ちだといいます。

自分が求める先をご存じであろう先達、

法然上人という方と出会ったならば、

即座に頭を下げて教えを請われるのです。

法然上人も目を見ればわかります。

求める者にはとことん教えを伝えよう。

聖光上人に善導大師が説かれる

お念仏のみ教えを順々に説かれます。

最初面会されたのが午後2時頃。

それから夜中の12時まで、

10時間もぶっ通しで説かれたんです。

求める聖光上人と、説く法然上人、

一発で信頼し合ったのでしょう。

「この方からもっともっとみ教えを聞きたい。

法然上人とお会いすることがなかったら、

虚しく一生を過ごしたことだろう」

と聖光上人は法然上人の門弟になります。

それ以来今まで培った学問と修行を捨てて念仏の道へ入られます。

これは大変なことです。

今までの蓄積を一切捨てるということですから。

でも本当に救いを求めるにはこういう決断が必要です。

今までの学問と修行を捨てるということは、

自力を捨てるということです。

聖光上人はお母さまとの死別、

三明房さまの出来事などを経験されています。

「いつ死ぬかも分からない」ということを

人一倍強く思っておられたことでしょう。

そして人一倍修行に明け暮れたことでしょう。

しかし修行をすればするほど、学問を重ねれば重ねるほど

ゴールが遠いことがわかってきます。

そんな時に法然上人と出会われたのです。

法然上人が説かれる念仏の教えは、自分を磨いて力をつけて

覚りを開くという自力の教えではありません。

「私は愚かな凡夫である」と自覚して、

阿弥陀さまに救っていただく他力の教えです。

自分の力では覚りには覚束ないということを、

目をそらさずにしっかりと見つめられたからこそ今までしてきた

修行と学問をあっさりと捨て去ることができたのでしょう。

5月から7月までの3ヶ月間毎日法然上人の元で教えを聞きます。

そんな充実した毎日を送っておられた時、

先に康慶に頼んでいた仏像ができたので、一旦九州の明星寺へ戻ります。

そして五重塔に仏像を安置して落慶法要を行います。

福岡県飯塚市の飯塚観光協会ホームページにこのような記載があります。

  「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
   一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、
   従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが
   兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い
  「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、
   名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれます。

   また、一つには聖光上人が、当市太養院において
   旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、
   民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって
   小山をつくり、 それがあたかも塚のようであったので
   「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになった
   とも伝えられています。
  (飯塚市観光ポータル http://www.kankou-iizuka.jp/history/  )

二つ目の説に聖光上人のお話が出ています。

ここでは三重塔と記されていますが、聖光上人の伝記と符合します。

このように明星寺としては聖光上人は大切な人です。

しかし聖光上人は一刻も早く法然上人の元へ戻りたい。

人生決断の時です。

聖光上人は明星寺にて一応のお役を果たした後、

京都へと向かうことになります。

浄土仏教の思想『弁長 隆寬』
梶村昇・福原隆善


2020年5月29日金曜日

聖光上人のご生涯⑦(法然門下としての日々)

法然上人の元へ戻られた聖光上人、毎日毎日法然上人の元へ通い、

念仏のみ教えを求められました。

聖光上人の熱意に応えて法然上人も毎日

長時間に渡って教えを説かれます。

法然上人の古くからの門弟、真観房感西上人が心配して、

「聖光上人、あなたの熱意は分かるけれども法然上人もご高齢の身。

せめて二日に一度になさいませよ。」

と仰った。

聖光上人も

「そうか、気づかなかった。法然上人もお疲れであろう。

申し訳ないことをした。」

と反省なさり、一日法然上人の元を訪ねるのを控えました。

ところがなんと、法然上人から使いが来て、

「法然上人がお待ちですよ。聖光房は病気か?と

心配なさっていますよ。」とのお言葉です。

こんな嬉しいことがありましょうか。

感激した聖光上人は、以後一層念仏に励みます。

その後法然上人から、

「あなたは教えを伝承するのに相応しい僧侶である。」

と認められ、法然上人のお念仏のみ教えがまとめられた

法然上人の著書、『選択本願念仏集』を書き写すことを許されます。

『選択本願念仏集』は略して『選択集』ともいい、

関白九条兼実公からの請いにより建久九年に撰述されました。

『選択集』は、浄土宗の教えが理路整然と説かれた

法然浄土教の集大成ともいえる書物です。

現在は岩波文庫からも発刊されていますが、

法然上人は一読した後、壁底に埋めよと本書の末尾に記しておられます。

「極楽へ往生するには念仏をおいて他にない」ということが

力強く説かれていますので、仏教全体に理解がない者に見せると

念仏以外の教えを誹謗する可能性があると危惧されたのだと思われます。

ですからしっかりと教えを受け取った弟子にのみ、

その書写を許されたのです。

また聖光上人は、「一枚起請文」も法然上人から授けられています。

いわゆる「一枚起請文」は、法然上人が往生される二日前、

いつも身の回りの世話をする側近の弟子である勢観房源智上人

法然上人に「最後に浄土宗の教えの要を一筆お示し下さい。」

と頼まれ、その願いに応えて書かれたものとして知られています。

しかし、これはご臨終間際に考えて書かれたものではなく、

生前から「この人に」という人が現れたら授けておられたようです。

聖光上人は源智上人と共に、法然上人から

厚い信頼を受けた弟子のお一人なのです。

「二祖鎮西上人讃仰御和讃」
作詞・藤堂俊章
作曲・松濤 基


2020年5月28日木曜日

聖光上人のご生涯⑧(往生院での別時念仏・そしてご往生)

8年に渡って法然上人の元で過ごされた聖光上人は、

43歳にして九州へ帰郷されます。

法然上人から「私が知っていることはすべて伝えた」と認められ、

九州での布教を志されたのです。

九州へ帰られた聖光上人は、いくつものお寺を建て、

念仏の布教に努められます。

その内の一つが久留米の善導寺です。

浄土宗の大本山の一つです。

浄土宗は総本山が知恩院、その下に大本山が全国に七ヵ寺あります。

東から東京芝の増上寺鎌倉光明寺、長野の善光寺大本願

黒谷金戒光明寺百萬遍知恩寺清浄華院、そして久留米の善導寺です。

聖光上人は善導寺の他、吉祥寺、博多善導寺、正定寺、光明寺、

本誓寺、極楽寺、安養寺、天福寺、無量寿院、等多くの寺院を開かれました。

その数は四十八ヵ寺に及ぶといわれています。

安貞2年(1228)聖光上人67歳、法然上人の十七回忌の年のことです。

九州へ帰って今日の都の現状を聞き伝えるによると、

どうも法然上人の教えと違った教えが跋扈しているようだ。

これではダメだと熊本県白川河の畔、往生院にて、

20数名の弟子や信者達と共に48日間の別時念仏を行います。

往生院は熊本地震(2016)で大きな被害があり、

その翌年私は仲間と共に災害見舞いに参りました。

本堂も傷み、境内の墓石の多くが倒壊し、揺れの大きさを物語ります。

往生院は聖光上人の時代は白川河の畔にありましたが、

江戸時代に現在の地へ移転されました。

元の地は「旧往生院」として碑が建てられています。

別時とは普段の念仏と違い、

「時と場所を定めて集中的にお念仏を称える」ことです。

聖光上人は往生院に於いて、48日間毎日、

ずっとお念仏をお称えになりました。

その最後の3日間で法然上人から口伝えにて聞いた教えを弟子達に伝えられます。

そして末代、つまり後々の人々に正しい教えが伝わるように、

末代念仏授手印』を書いて、その最後には

自らの両手の手印を押して証しとされます。

「この書物の内容が嘘偽りであるならば、

私は両手が爛れても構いません!!」

との決意を表明されたのが『末代念仏授手印』です。

「末代念仏授手印」とは

「末代の者を救う念仏の教えを間違いなく伝えるぞ」

という意味です。

昔、師匠から弟子に教えを伝える時に、

師匠の左手と弟子の右手をしっかりと合わせて、

「正しく伝えたぞ」と確認しました。

これを「授手印」と申します。

聖光上人も八女天福寺にて弟子の良忠上人に授手印でもって、

しっかと教えを伝えられました。

そして良忠上人は浄土宗の第三祖となられます。

聖光上人は浄土宗の第二祖として、

念仏のみ教えを広げられた先達です。

法然上人との出会いから一生涯、

欠かさず念仏を称えられた行の人が聖光上人です。

日々六万辺の念仏を行じ、良忠上人という後継者に

しっかりと教えを伝授して安心なさったのでしょう。

良忠上人が故郷へ戻られた翌年、嘉禎四年(1238)閏2月29日

77歳にてご往生なさいました。


『鎮西上人讃仰』
望月信享
椎尾辨匡

参考文献
『聖光上人傳』了慧道光
『浄土仏教の思想 弁長 隆寬』梶村昇・福原隆善
『聖光と良忠』梶村昇
『聖光上人-その生涯と教え-』藤堂俊章

2020年5月27日水曜日

浄土宗 お仏壇の祀り方(三具足・五具足)



三具足(みつぐそく)と五具足(ごぐそく)


下のお仏壇をご覧下さい。
 
香炉が一つ、燭台が一つ、お花が一つです。

この組み合わせを三具足(みつぐそく)といいます。

香炉が一つ、燭台とお花が一対ずつ供える場合はこれを五具足(ごぐそく)といいます。

この下のお仏壇は三具足です。

水色の文字で番号がふってあります。

番号の順に説明しましょう。

                 三具足の仏壇

            

① 阿弥陀さま
  
  浄土宗のご本尊です。
  人々を救うために西方極楽浄土を建ててくださり、
  今現在も極楽浄土で説法してくださっています。
  
  そして「極楽へ来たい者は私の名をよびなさい」と願い導いてくださっています。
  「名を呼べよ」という願いに応えて「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称える者は
  命終わる時に阿弥陀さまが自ら迎えに来てくださいます(来迎)。
  浄土宗のお仏壇にお祀りする阿弥陀仏像の多くは立像で、来迎のお姿に
  なっています。(もちろん例外あり)
  仏像は「仏ここに在す(まします)」つまり「仏さまがここにいらっしゃるのだ」と
  思ってお祀りします。
  もちろん祖師像やお位牌も同じです。
  
  仏さまを新たに家に迎えたら、僧侶に「開眼(かいげん)」という仏に魂を入れる
  作法を依頼してください。
  引っ越しする時には同じく僧侶に「撥遣(はっけん)」という魂を抜く作法を依頼
  し、引っ越し先でまた「開眼」の作法をしてもらいましょう。
  普通の荷物と同じように扱ったり、ましてやゴミのように捨てることは
  決してなさらないでください。
  

② 善導大師(ぜんどうだいし)
  
  中国は唐の時代に浄土宗の教えを完成された方です。
  
  法然上人は「善導大師は阿弥陀さまの化身である。だから善導大師のお言葉は
  阿弥陀さまの直説である」とまでおっしゃって尊敬されました。
  
  法然上人はいつも「善導大師にお会いしたいものだ」と思っておられました。
  そんなある日、夢中に善導大師が現れ「あなたが念仏の教えを広めることが尊いから
  私はあなたの前に姿を現したのですよ」おっしゃったと伝わります。
  その夢の中のお姿が、上半身は凡夫を表す墨染め、下半身は仏を表す金色の
  「半金色」のお姿でした。
  そこから浄土宗のお仏壇では多く(例外あり)「半金色の善導大師」をお祀りします。

③ 法然上人
  
  承安五年(1175)に法然上人は浄土宗を開かれました。
  阿弥陀さま・お釈迦さま・諸々の諸仏がみなこぞって「阿弥陀仏の本願念仏」を
  お勧めくださいました。
  この仏が選択(せんちゃく)された「選択本願念仏」を開示し、煩悩にまみれた愚かな
  凡夫が救われるために、浄土宗を開いてくださったのです。
  もっと詳しく知りたい方は「法然上人のご生涯」のラベルからお入りください。

 位牌
  
  浄土宗のお仏壇は「西方極楽浄土」そのものをあらわします。
  ですから位牌は「極楽浄土に往生された方」そのものなのです。
  
  臨終の時に阿弥陀さまがたくさんの菩薩を引き連れてお迎えくださいます。
  その先頭で観音菩薩さまが蓮の台をさしだして、その方を蓮台の上に乗せて
  くださいます。
  そしてその花が閉じたら一瞬の間に極楽浄土の蓮池に生まれ、蓮の花が開き、
  先に往生した方と、手に手を取り合って再会を喜ばれます。
  ですから位牌の多くは戒名や法名が彫られた札の下に蓮の花びらがほどこされて
  います。
  
  極楽へ行くと、あらゆる苦しみ、悩み、痛みは取り去られて、諸々の楽だけを
  受けます。
  だから「極楽」というのです。
  
  極楽に往生した方は娑婆に残した人々を見守りお導きくださいます。
  位牌を我々の方に向けてお祀りするのは、極楽からその方が見守ってくださっている
  ことを表します。
  
  どうかそう思っていつも話しかけてください。
  嬉しいことも悲しいことも悔しいことも極楽におられる大切な方に聞いてもらって
  ください。
  そのように「いますが如く」に接してください。
  

 茶湯器(ちゃとうき)・仏飯器(ぶっぱんき)
  
  「仏ここに在す」「いますが如く」と思ってくださいましたら、
  仏さまや極楽に往生された方々に喜んでいただきたい、という
  気持ちが出てきます。
  その気持ちを「お供え」であらわしましょう。
  
  毎朝一番にお水やお茶をお供えしましょう
  
  またご飯を炊いたらまず一番にお仏壇にお供えしましょう
  そして「湯気がたたなくなったら」おさがりをいただきましょう。
  
  写真のお仏壇は「お仏飯」をさげた後の状態ですのであしからず。
  パンを食べる方はパンをお供えくださっても結構です。  

 供物(くもつ)
  
  くだもの、野菜、お菓子などをお供えしましょう。
  
  肉や魚介(もちろんおじゃこや卵、タラコ、動物性の出汁なども)、お酒、
  そしてネギ、ニラ、ニンニク、らっきょ、はじかみ等の匂いのものは避けるのが
  普通です。
  
  ただし、国や地域によっては肉や魚介をお供えするところもありますので、
  それに従えばいいでしょう。
  
  また、たとえば亡くなった方がお肉が大好きだった、お酒が大好きだった、という
  こともあるでしょう。
  「お供えしたい」と思うお気持ちを大切にして、正式ではなくても
  「自分の気持ち」としてお供えすればよいでしょう。  

 香炉
  
  主に線香を立てます。
  あるいは炭を入れて焼香します。
  
  浄土宗では線香を横に寝かさず、立てるのが正式です。

  お香はできるだけ上等のものをお供えしましょう。
  驚くほど高価なものをということではありません。
  しかし「自分には高価なものを、仏さまには安物を」ということではなく、
  「よいものを」をお供えする気持ちが大切です。
  
  線香の本数と意味について知りたい方は「作法」のラベルから入ってください。
  
  香炉はきれいにしておきましょう。
  放っておくと、湿気で灰が固まりゴロゴロとしてきます。
  そうなると線香は立ちにくくなり、燃え残りの線香でますます汚れます。
  
  「我が身きよきこと香炉のごとく」とお唱えするように、
  香炉は「きれいなもの」の象徴です。
  
  できれば粗めのザル状のもので濾してください。
  たまには新聞紙の上で灰を乾燥させてください。 
  
  また、線香は意外に火が長く残ります。
  外からは消えているように見えても、灰の中に火が残ることもしばしばです。
  そこに線香を立てたら、下から燃えて線香が倒れ、火事のもとになります。
  線香を折って使うなど、火の扱いにはくれぐれもご注意ください。

 燭台(しょくだい)
  
  和ろうそく、洋ろうそく、あるいは油に火を灯してそれをお供えすることもあります。
  
  一般には洋ろうそくを使うことが多いことでしょう。
  
  祝儀には朱いろうそくを使います。
  それ以外は白いろうそくを使います。
  
  香炉と同じように、燭台には火を灯しますから、
  その扱いにはじゅうぶんに注意してください。
  お参りした後には必ず火を消しましょう。

 供花(くか)
  
  お花屋さんで売っている仏花でなくてもかまいません。
  色花でももちろん結構です。
  ↑の写真で供えられているピンクのお花は
  昨年往生されたご主人が育ててこられた蘭です。
  
  ただし、毒のある花、トゲのある花、香りの強い花は避けましょう。
  
  お仏壇は極楽を表しますので、お花でお仏壇を飾ります。
  ですから普通我々の方を向けてお供えします。
  しかし「綺麗なお花を仏さまにご覧いただきたい」と思われたら、
  まず仏さまにお花をご覧いただいた後、外へ向けてもいいでしょう。
  
  お花は毎日水を差したり水を入れ替えて大切にしましょう。
  枯れたまま放っておいたり、水が腐ったままにならないようにこまめに手入れ
  しましょう。

※三具足の場合、燭台と供花の配置がわかりにくいので、
 
 「ほとけのさとうけ」と覚えよ!と教えられました。

 「仏から見て」なのか、「私から見て」なのかがわかりにくいので
 

 「ほとけの左(さ)」と「右(う)華(け)」ということです。

  これを覚えればまず間違えません!
                  

                 五具足の仏壇



五具足の仏壇は

① 香炉(一つ)

② 燭台(一対)

③ 供花(一対)

です。

心がけることは三具足のお仏壇と同じです。

仏ここに在す」「いますが如く」という気持ちで毎日拝みましょう。






2020年5月26日火曜日

霊膳の供え方

お寺での様々な行事ではもちろんのこと、ご自宅ではお年忌法要や

お盆の棚経の際に「お霊膳」をお供えしてくださるお家が多くあります。

お家によっては月参りや中陰法要でもお供えくださるところもあります。

一汁三菜の精進料理が基本です。

ニンニク・らっきょう・ネギ・ニラ・はじかみなど

匂いのきついものは避けましょう。

その中身について、具体的に説明してまいります。








①飯椀(めしわん)…ご飯


ご飯を入れる飯椀は一番大きなお椀です。

山盛りに形よく盛りましょう。

一番小さいフタが飯椀用ですのでご注意。




②汁椀(しるわん)…味噌汁・おすまし

飯椀と同じような形をしていますが、一回り小さいお椀です。

フタは飯椀より大きいですが、落とし蓋です。

汁物の出汁は昆布などの植物性のものを使いましょう。




③平(ひら)…煮物

平の器には真ん中に横線が入ったものが多いです。

フタはかぶせ蓋です。

汁物と同じく出汁は鰹やいりこではなく、

植物性のものからだしましょう。

もちろん肉・魚や卵、じゃこなどは避けましょう。




④壺(つぼ)…なます・和え物

壺の器にも真ん中に横線が入ったものが多いです。

こちらもフタはかぶせ蓋です。




⑤高坏(たかつき)…香の物(漬物等)

高坏にはフタはありません。

お膳の真ん中に配置します。





⑥箸(はし)

塗りのお箸か柳箸を使います。

↓の写真のように、仏さま側にお箸がくるようにお供えします。

正式には箸袋に入れておきます。

僧侶は箸袋から箸を出してお箸を清める作法をします。





※浄土宗では飯椀の前に壺、汁椀の前に平を配置します。

 壺と平の位置がややこしいので、「飯壺、汁平」(めしつぼ、しるひら)

 覚えよ、と教えられます。

 ご参考まで!










2020年5月25日月曜日

法然上人のご生涯①(時代の背景)

浄土宗の開祖、法然上人がお生まれになった場所「誕生寺」は、岡山の北部、美作というところにあります。

もちろん元々お寺があったのではなく、法然上人の「誕生の地」だということで、お弟子の熊谷次郎直実という方が建てたお寺です。

法然上人は武士の子です。
お父さまは押領使(おうりょうし)というお役人です。

まずここで中世の政治システムについて、その一端を申し上げます。

有名な大化の改新の後、すべての土地と人民を国家のものとする「公地公民制」、や戸籍を作って民衆に土地を割り当てて耕させ、死後その土地を返させるという「班田収授法」が打ち出されました。

そして律令と呼ばれる法律が制定され、6歳以上の男女とも土地が与えられて、その収穫の一部を税として地方の役所に納めること、それ以外にも成人男性には重い税や労役・兵役が課せられました。

しかしパソコンもない時代に全国的な戸籍を作って土地の税を管理する、などということには無理があります。

人々は重い負担に耐えきれずに戸籍を偽って男性が女性であると届けたり、逃げ出すなど税逃れをします。

そこで政府は田んぼを開墾した者は三代にわたってその土地の私有を認める、という画期的な法律(三世一身の法)を制定しました。

人々は最初、先を争って開拓しましたが、当然三代目に期限が迫ると土地の耕作を放棄してしまいます。

財政難に陥った政府は、有力農民を指定して土地を耕させて、そこから税をとる、という方法に変えてきました。

そうなると、政府の様々な役所、皇族、貴族がそれぞれ有力農民を指定して田んぼを経営するようになり、班田収授法というものが有名無実化していきます。

そこでいよいよ政府は土地の私有を公認します(墾田永年私財法)。

しかし実際には民衆が土地を所有することは少なく、貴族や有力な寺社が中心となって私有地を増やしていきます。

これが荘園の始まりです。

当初は荘園からの税収が多く入りました。

でもそのうち色々な理由をつけて免税の権利を得る者が増えました。

結果、朝廷の税収が減少するだけでなく、農民が耕すための口分田の土地も減っていきました。

そして土地制度は崩壊していきます。

危機感をもった朝廷は、田地の管理を有力農民に請け負わせて、地方役員の国司が徴税できるようにシステムを変えました。

任国に赴任する国司のトップを、受領といいます。

朝廷から国の支配を丸投げされた受領は利権争いに走ります。

その徴税は相当に厳しく、土地の持ち主は管理権を所持したまま、土地の名義を有力貴族や寺社に寄進することで税金逃れをしました。

有力貴族から保護を受けた農民の力も強まってきて、国司から荘園を守るために武装を始めました。

これが後に武士団となっていきます。

一方、皇族は皇位継承権を失った皇子たちに氏(うじ)を与えて臣下にします。

桓武天皇が皇子たちに「平」の氏を与えたのが「桓武平氏」、清和天皇が皇子たちに「源」の氏を与えたのが「清和源氏」です。

藤原氏などの貴族も同様に分家していき、名前は藤原氏でも高いくらいに就けない者が増えていきます。

そのような没落した貴族が生計を立てるには地方へ下るしかありません。

そうやって地方へ下る時に天皇から「国司」の肩書きをもらうのです。

法然上人のお父さま、漆間時国(うるまのときくに)公の役職「押領使」は盗賊などを鎮圧するお役です。

国司が兼任することもありますが、更に下っ端の貴族が国司に任命されて就いたり、在地勢力が就くこともありました。

時国公は美作国久米南条稲岡荘(みまさかのくに、くめ、なんじょう、いなおかのしょう)というところの押領使でした。
法然上人の伝記には時国公の先祖も皇族の傍系と記されているものもあります。

そのように朝廷の支配が及ばない荘園と、国司の私物と化した公領が両立する土地体系ができあがっていくのです。



まんが『法然さま』
高橋良和・文
小西恒光・画



2020年5月24日日曜日

法然上人のご生涯②(ご生誕)

法然上人のお母さまは秦氏(はたうじ)というお方です。

古代、中世の女性は一部の上流階級を除いて名前を記録に残しませんでした。

もちろん呼び名はあったでしょうが、記録には残りません。

法然上人のお母さまも「秦」という「氏」の女性だとしかわかりません。

秦氏は渡来系の一族で、機織りものをはじめ、農耕や養蚕、鋳造、木工など多岐にわたる技術をもっていたといいます。

京都の「太秦」他各地に「秦」の名の付く地名が残っています。

京都の広隆寺や松尾大社は秦氏の創建ですし、長岡京や平安京の造営の際には経済基盤を支えたとみられています。

このように秦氏は非常に力を持った一族でありました。

お二人は子供をなかなか授からなかったので、近くの岩間の観音さまと呼ばれるところへお参りして、子授けを祈願されます。

このお寺は本山寺といいまして、今もしっかりと残っています。

現在その伽藍は山の中腹にあります。

元々はもっと奥にあったようですが、1100年に今の場所へ移築されたのだそうです。

1100年ということは法然上人がお生まれになる(1133年)少し前です。

法然上人当時はその辺りでは一番の大寺だったようです。

今は古いお寺ですが、当時はできたばかりの立派な建物だったことでしょう。

900年近く経った今も法然上人の親御さまが祈願された、その同じお堂の同じ観音さまを拝むことができるのです。

実際に足を運びますと、かなり距離もありますし、山の中の険しい場所であることがわかります。

とても現代人が頻繁に通えるような位置関係にないのです。

どのぐらいの頻度でお参りなさったのかは定かではありません。

しかし一度登るのには半日はかかるでしょう。

それを思いますときに法然上人は本当に願って願って願われてこの世に生を受けられたのだということに思い至ります。

さてそんなある日、秦氏さまはカミソリを呑む夢をご覧になりました。

このようにして神仏に祈願をして見た夢を霊夢と申します。

「尊い印だ」とご夫婦喜ばれ、そして秦氏さまはご懐妊されます。

大事に大事にお腹の中で育まれた法然上人は長承2年(1133年)4月7日にお生まれになります。

お釈迦さまがお生まれになったのは4月8日でしたね。

法然上人はその一日前、4月7日です(旧暦です)。

先にもお伝えしましたように、当時の社会は決して平和といえる状況ではありませんでした。

皇族・貴族、そして国司などの役人の私欲のために、人々は随分苦しめられました。

我々も今経験しておりますように疫病が流行したり天災飢饉に見舞われることも多くあったことでしょう。

そういう時代にお生まれになったということで、1133年は「ひとびとさんざん」と覚えよ、と恩師に教わりました。

お生まれになった当日にはどこからともなく二流れの幡が舞い降りてきて、屋敷にあった椋の木に掛かったと伝えられます。

その場所に今、誕生寺が建っているのです。

それはそれはご両親、時国公のご家臣も喜ばれたことでございましょう。

お生まれになった赤ん坊は勢至丸と名付けられ、大事に大事に育てられます。

智慧の菩薩と言われる勢至菩薩さまからお名前をいただかれたわけです。

非常に聡明で信心深い子供であったと伝えられています。



まんが『選択の人 法然上人』
阿川文正・監修
横山まさみち・漫画


2020年5月23日土曜日

法然上人のご生涯③(父 時国公の死)

勢至丸さまのお父さま、漆間時国公は「押領使」というお役目の武士だと申しました。

押領使」とは、地方の治安を維持するお役目であります。

武士といいますと、身分が高かったのですねと言われる方がおられますが、そうでもないようです。

武士を江戸時代の、身分制度が確立してその頂点に君臨していることを多くイメージされていませんか?

中世のの武士はそうではありません。

天皇や貴族の警護をしたり、地方を武力でもって治める、どちらかというと乱暴者のようなイメージでみられていた部分もあるようです。

漆間時国公も武士ですから、そのような面もあったのかも知れません。

法然上人のご生涯①でお伝えしましたように、稲岡荘は貴族や寺社が土地を所有していて、そこから徴税するという荘園です。

この荘園の管理者を預所といいます。

稲岡荘の預所は明石源内武者定明といいます。

時国公はその土地の治安を守る押領使であり、同じ土地に立場や利害の違う武士がいるのです。

そしてこの時代は支配関係がすっかり崩れていました。

伝記にも時国公は預所の明石定明を見下し、命令に従わないばかりか面会しても敬意を表すこともなかったといいます。

このように時国公と明石定明の間には人間関係のもつれがありました。

勢至丸さまが数え年9歳のある夜、突然定明が大勢で時国公の屋敷を攻めてきました

時国公は深手を負い、それが致命傷となって亡くなります。

ご自分の死を覚悟した時国公は、枕元に一人形見である勢至丸さまを呼び、非常に尊い遺言を残されます。
勢至丸さまは武士の子ですから、当然「必ず仇を討ちます!」と考えたことでしょう。

しかし時国公はそれをお許しになりませんでした。

何と「仇を討つな」とおっしゃったのです。

仇を討つな。お前が私の仇を討ったならば、敵の子や家来がまたお前の命を狙うであろう。
恨み憎しみというものは尽きることがないのだよ。
恨み、憎しみはお前のところで断ち切るべきだ。
お前は出家をして私の菩提を弔ってくれ。
そしてお前自身が覚る為の道をしっかりと突き進んでくれよ。」とお示しになったのです。

これは現代でいう平和主義というものとは大きく次元を異にします。

当時は敵討ちは美徳でありました。

ましてや夜討ちという卑怯な手でやられていますから、敵討ちをしない方がおかしいのです。

卑怯者と言われるのです。

その時代に、しかも自分が普段から憎む相手に襲われた。

そんな時に「仇を討つな」と仰ったということはとてつもなくすごいことなのです。

ただ、遺言は尊いですが、それを言われる勢至丸さまにとりましてはさぞおつらかったことでしょう。

「この恨みを忘れまい!臥薪嘗胆。いずれ大きくなったら必ず私の仇を討ってくれよ」と言われる方がよっぽど気が楽だったと思います。

しかし時国公はそのまま亡くなりますから、その遺言を守らなくてはなりません。

まだ数えで9歳、今でいう小学校2年生という幼さです。

親を目の前で殺される、そのむごたらしい場面はいつまでも脳裏から離れることはありませんでした。


『マンガ 法然上人伝』
阿川文正・監修
佐山哲郎・脚本
川本コオ・漫画


2020年5月22日金曜日

法然上人のご生涯④(母との別れ)

漆間家には「時国公が残した一人息子を敵が狙うかもしれない」そんな恐れもあったでしょう。

お母さまからすれば「我が子を守るためにはまずは身を隠させなくてはいけない」。

勢至丸さまはお母さまの弟、天台宗の僧侶である観覚さまの元へと送られます。

お父さまのご遺言を胸に仏道修行へと入ることになったのです。

同じ岡山の那岐山にある菩提寺という山寺です。

誕生寺のある場所とは随分離れています。

しかも険しい山の中です。

幼い子供がとてもすぐに行って帰ってこれるようなところではありません。

わずか小学校2年生ほどの幼い子が親と離されて連れて来られたのかと想像しますと、胸が痛くなります。

勢至丸さまは一を聞いて十を知る、非常に頭の良いお方でした。

観覚さまは「こんな田舎の山寺にいつまでも置いておくにはもったいない」と勢至丸さまを比叡山に送られます。

勢至丸さま数え年15歳(13歳説もあり)のことでした。

このときにお母さまとは生き別れです。

二度と会われることはありませんでした(伝記によっては再会する話もあります)。

もちろん今のように交通は発達していませんし、比叡山に登るということは「二度と家族と会わない」という覚悟をしなくてはならないことでした。

毎日お母さま、秦氏さまは比叡山にいる勢至丸さまのことを思い、その方角に向かって合掌されたといいます。

その場所が誕生寺にほど近くに残されています。

仰叡の灯」と呼ばれる場所です。


そこから比叡山の方角を向くとすぐそこに山に遮られてしまいます。

かすかに見えることもない遙か彼方に向かって毎日勢至丸さまのご無事を祈られたことでしょう。

かたみとて はかなきおやの とどめてし このわかれさへ またいかにせん」(死別した夫の忘れ形見として残してくれた子と、このような別れに、どうしたらよいのか 山本博子氏訳)と別れを惜しまれたと伝えられます。



『法然上人絵伝講座』
玉山成元・宇高良哲



2020年5月21日木曜日

法然上人のご生涯⑥(南都遊学)

死にもの狂いで教えを求められた法然上人は、24歳の時に一度比叡山を下りて、嵐山の
釈迦堂にお参りになります。

清涼寺というお寺で現在は浄土宗に所属します。

釈迦堂におまつりされているお釈迦さまのお像は、昭和29年の調査で、胎内に布で五臓六腑まで作られて収められていることがわかりました。

そのお像は法然上人当時から、生身(しょうしん)のお釈迦さま、本物のお釈迦さまとして多くの人々から崇められていました。

法然上人は必死になって、「お釈迦さま、お釈迦さまが説かれたみ教えにこの私が救われる教えがきっとあるはずです。
どうか私にそれをお示し下さい。」と願われたことでしょう。

法然上人は七日間毎日すがるような思いで釈迦堂にお参りされて祈願されます。

ご自分自身が救われる教えを求めて参籠なさっていましたが、ふと周りを見ると、他にも悲壮な面持ちで拝む人々が目に入ります。

釈迦堂には貧しい者、お金持ち、男、女、身分や地位に関係なくたくさんの人が法然上人と同じように救いを求めてお参りしていました。

「みんな救いを求めている」

法然上人はそれを見て大いに刺激されたことでしょう。

それから奈良や京都の偉いお坊さんを順番に訪ねて行かれます。

比叡山は天台宗ですが、奈良には南都の宗派があります。

華厳宗や法相宗など、南都の偉いお坊さんに会い、教えを請われます。

頭脳明晰で知識も豊富な法然上人はすぐに教え自体は理解されます。

教えて下さった偉いお坊さん以上に理解を深められる法然上人ですが、しかし「そのような教えでは私は救われない」とがっかりとして去って行かれます。

多くのお坊さんに教えを受けたけれども、本当に私が救われる教えはないと失意の内に比叡山の黒谷へと戻って行かれます。

比叡山に戻った法然上人は今まで以上に修行に打ち込まれます。



『法然』中里介山著

法然上人のご生涯⑤(比叡山へ)

観覚さまは比叡山北谷におられる、旧知の持宝房源光(じほうぼうげんこう)さまの元に勢至丸さまを送り出しました。

その紹介状には「文殊菩薩を一体お届けします」と書かれていたといいます。

文殊菩薩は勢至菩薩と同じく智慧の菩薩です。

師匠にそう言わしめるほど勢至丸さまは聡明だったのでしょう。

源光さまは優秀な勢至丸さまを、東塔功徳院の皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)に託されました。

比叡山に登ってから勢至丸さまはがむしゃらに学び、修行に励まれます。

ストイックに修行を続けた勢至丸さまは徐々に有名になってきます。

お師匠さまには「お前は頭が良い。いずれは天台の棟梁になるべき器だ」などと言われます。

しかし勢至丸さまは、そんな出世や名声には全く興味がありません。

勢至丸さまの目的はただ一つ、お父様のご遺言の通りに覚りに至ることです。

「このままいたら出世競争に巻き込まれてしまう」と数え年18歳、今の高校2年生という若さで隠遁(いんとん)してしまわれます。

比叡山の中でも特に奥深い黒谷という土地に青竜寺(せいりゅうじ)というお寺があります。

青龍寺には叡空上人(えいくうしょうにん)がおられ、その元に勢至丸さまと同じく隠遁してひたすら学問と修行をする人が集まっていました。

勢至丸さまがそれまで「勢至丸」というお名前でおられたのか、別のお名前があったのかはわかりませんが、黒谷青龍寺に入った後、叡空上人から法然というお名前を授かりました。

法然房源空(ほうねんぼうげんくう)というのが正式なお名前です。

法然」とはお釈迦さまの教え、「法のままに」という意味です。

「源空」は、法然上人が比叡山に入って最初のお師匠さまであります源光上人の「源」と、叡空上人の「空」をとってつけられたといいます。

法然上人はそれ以来、この黒谷青龍寺で二十五年間も過ごされます。

京都市左京区にあります浄土宗の大本山金戒光明寺も「黒谷」といいますが、こちらの黒谷は「谷」ではなく「丘」です。

比叡山の「黒谷」に長くおられた法然上人はいつしか「黒谷上人」と呼ばれるようになったので、そこから「黒谷上人がおられるところ」ということで、京都の丘にある金戒光明寺も「黒谷」と呼ばれるようになりました。

区別するために比叡山の黒谷を「元黒谷」、京都の黒谷を「新黒谷」と呼ぶこともあります。

黒谷青龍寺に入られてからの法然上人は今までにも増して学び、厳しい修行をなさいます。

しかし学べば学ぶほど、修行すればするほどに、教えの尊さと自分の器の間の距離を実感されるのです。


続日本の絵巻『法然上人絵伝 上中下』


2020年5月20日水曜日

法然上人のご生涯⑦(立教開宗)

仏教は「戒、定、慧」の三つに尽きるといいます。

この三つを「三学」といいます。

「戒」というのは「仏教徒としての善い習慣」です。

私たちは善い行いをしようと思っても煩悩によって、なかなか善い行いができません。

それに何が善い行いなのかすらわかりません。

私たちがする行いは殆どが自分本位の行いです。

そこでお釈迦さまが「これをやらないように、こんな善い行いをせよ、人のために尽くせ」と教えて下さっているのです。

それが「」です。

例えば代表的な戒に「生き物を殺さない」という戒があります。

「生き物を殺すことが習慣として身についています」という人は決してよい人生を歩めません。

「生き物を殺さない習慣を身につけよ」というのです。

これを厳密に守るのは非常に難しいですよね。

小さな虫なども知らない内にたくさん殺しているでしょう。

法然上人はご自分自身の心を見つめると、きっとお父さまを殺されたことに対する憎しみや恨みを拭いきれなかったことだと思います。

いくら憎むまい、憎むまいと思ってもその心を押さえることさえできない自分を自覚しておられたのでないでしょうか。

他の人も同様の迷いは払拭できなかったことでしょう。

それを「この程度でいいだろう」と思われていたのかもしれません。

でも法然上人は、本気で悟りを求めておられます。

自分が救われるために。

お父さまが救われるために。

すべての人を救うためにどころではないはずです。

自分がまず救われなくてはなりません。

そういう法然上人にとって、上辺だけ戒を守っていても何にも意味はありません。

他人から見れば、完璧に戒を守っていると言われた法然上人ですが、ご本人は
「一つの戒も守ることができない」とおっしゃいます。

これは謙遜ではありません。

本気で修行をし、本気でご自分を見つめられた結果のことです。

」を守ってこそ初めて「」という修行ができるといいます。

」とは、散り乱れる心を鎮めて瞑想することです。

瞑想によって、仏さまのお姿や極楽浄土を思い描き、目を開けていても閉じていても目の前に映し出す。

その境地を「三昧」といいます。

現在では「読書三昧」「贅沢三昧」とか「かに三昧」などと、「一心不乱にする」ことから「むやみやたらにする」ことまで広く使われています。

しかし原意は「瞑想によって散り乱れる心を抑えたやすらかな状態」をいいます。

「瞑想の境地」です。

これも外から見たら完璧な法然上人ですが、ご自分自身は真剣勝負です。

その立場での告白には、
散乱して動じやすく、一心鎮まり難し
つまり、「心乱れてどうしようもない」
とおっしゃるのです。

まるで自分の心は、猿が木から木へと飛び移るかのように、あっちに行ったりこっちに行ったり、一つ処に止めることさえできない、と嘆かれました。

その間、お伝記には
嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて
と記されています。

嘆きながらお経の蔵に入り「お釈迦さまが説かれたみ教えの中にこの私が救われる教えがないのか」と必死になって探される。

悲しみながらお経を一枚一枚めくってめくって「必ずやどこかにあるはずだ、ないはずがない」と蔵に籠もり続けられたのであります。

普通一生涯かかってもすべて読み尽くすことができないと言われる一切経、五千巻余りある膨大な量のお経を五度も読まれました。

更にその中から善導大師が観無量寿経を解説された『観経の疏』という書物を見つけられて、それをまた三度読まれたといいます。

そしてその『観経疏』にあるお言葉
一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」という一文に目が止まります。

一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に。

「ただ一心に南無阿弥陀仏とお唱えして、歩いている時も立ち止まっている時も座っているときも寝転がっている時も、教えに出会った時期が遅かろうが早かろうが、ずっとお念仏を続けていく。
それが極楽へ往生する道であるぞ。
なぜならそれは阿弥陀さまの本願だからである。」

阿弥陀さまの本願」とは、阿弥陀様ご自身が「わが名を称える者を救うぞ」とお誓い下さいました。

それを本願と申します。

「わが名を称えよ」と言われるから私たちは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前を称えるのです。

「これだ、これだ、これなら私は救われる、父も救われる、あった、あった!!!」と涙を流して喜ばれます。

お伝記には「落涙千行なりき」と書かれています。

男泣きに泣かれたのです。

この「一心専念の文」を「浄土宗開宗の文」と申します。

この一文を見つけて法然上人は浄土宗を開かれたのです。




『絵で見る法然上人伝』


2020年5月19日火曜日

法然上人のご生涯⑧(専修念仏)

基本的に仏教では苦しみ迷いの世界から抜け出すために、覚りを目指して修行をしていきます。

そのプロセスは「戒を守り瞑想修行をして覚りに至る」という「戒・定・慧(かい・じょう・え)」という言葉で表現されます。

しかし法然上人のように、真剣に修行をし自らの中身を見つめたときに、「煩悩を兼ね備えた自分は本当の意味での修行が覚束ない者である」と自覚せざるを得ないのです。

一方一般民衆はどうでしょうか。

そのような難しい修行ができるでしょうか?

煩悩を断ちきることができるでしょうか?

多くの民衆が
「私のような者は到底覚りになど至ることはできない」
「私は救いから見放されている」
と考えていました。

そういう人々に法然上人は
「自分を磨いて覚りに至ることはできないかもしれない。
でも南無阿弥陀仏と仏の名を称えれば、阿弥陀仏が救いに来てくださるのですよ。
自分の力では一歩も覚りに近づくことはできないけれど、阿弥陀仏の力でどんな者も極楽浄土へ救われるのですよ。」
と説かれました。

法然上人は、老いも若きも男も女も金持ちも貧しい人も、どんな立場の人にも区別なくお念仏のみ教えを説いていかれます。

お念仏の教えは「こんな私では救われない」と思って、救われることを諦めていた多くの民衆にあっという間に広がります。

法然上人が説かれる「ただ極楽浄土への往生を願い、阿弥陀仏にすがり、南無阿弥陀仏と念仏を称える」という「専修念仏」の教えは、社会的地位や学問の有無を一切問いません。

ですから天皇、貴族、武士、一般庶民、漁師、陰陽師、遊女、盗人まで、法然上人の信者の層は非常に厚いのです。

そのようにしてお念仏は燎原の火の如く広がっていきました。



『法然上人のお言葉』
元祖大師御法語
総本山知恩院布教師会刊



2020年5月18日月曜日

法然上人のご生涯⑨(法難)

教えが広まりますと、旧来の宗派は危機感を持ち、浄土宗を批判します。

また、法然上人のお弟子の中でも本当のお念仏の教えを理解せず、
「念仏さえ称えたらどんな悪いことをしても平気なんだ」
などと吹聴する者も現れてまいります。

そのような不穏な空気漂うときに事件が起こります。

最高権力者である後鳥羽上皇が熊野詣で留守の間に、上皇が寵愛する女官、松虫・鈴虫の姉妹が法然上人の弟子、住蓮と安楽の元で出家してしまいます。

姉妹は今、上皇に可愛がられているとはいえ、いつ見限られるかもわからない籠の中の鳥、儚い身です。

世間から漏れ聞こえるところによると、巷では法然上人が説かれる専修念仏の教えは、
「どんな者でも救われる」というではないか。

「私たちも救われるのでしょうか?
一度話を聞いてみたい」

そのような思いもつのっていたことでしょう。

きっと宮廷を抜け出る機会を図っていたことでしょう。

上皇の熊野詣でという、またとないチャンスを逃すわけにはいきません。

二人は手と手を取り合って、宮廷を抜け出し、京都東山鹿ヶ谷へ向かいます。
鹿ヶ谷には、法然上人の直弟子、住蓮さまと安楽さまのお二人が日々「善導大師」の
『往生礼讃』に節をつけ、美しい声で唱えておられるという情報を聞きます。

二人そろってその法会に参加し、極楽浄土の情景を思い浮かべ、魅了されます。

「もう宮廷には戻りたくない。
どうか私たちを出家させてください」
と住蓮さまと安楽さまに懇願します。

住蓮さまと安楽さまはその願いを快く受け取り、姉妹の髪を剃り落とすのです。

それを聞いた後鳥羽上皇は激怒します。

安楽さまは六条河原で、住蓮さまは近江の馬淵で処刑されます。

当時としても、いくら権力者であっても出家者を処刑にすることはまずなかったといいます。

後鳥羽上皇の怒りがいかに大きかったのかを物語ります。

そのように多くの要因が重なって、法然上人はいわばお弟子の不始末の責任をとらされることになりました。

四国の讃岐へ流罪ということになりました。

法然上人御年75歳の時であります。

お弟子の一人は
「お師匠様、今は批判が多いですから、お念仏の教えを広めることはひとまず止めておきましょう。」
と法然上人に提案なさいました。

法然上人は、いつになく厳しい口調で
「何を申すか!私は喩え死刑に処せられてもお念仏のみ教えを伝えるのに口を噤むことはしない!」
とおっしゃいました。

それを聞いて一同涙したと伝えられています。

讃岐への道中、讃岐へ行ってからもも多くの人にお念仏のみ教えを説かれました。

讃岐におられたのはわずか9ヶ月で、ひとまずお許しが出ます。

しかし京都に入ることは許されず、今の箕面の勝尾寺で4年間過ごされます。

洛内に入ることを許された法然上人はすでに御年79歳になっておられました。

今の知恩院の勢至堂というお堂がある所、吉水という土地に入られます。


『図解雑学 法然』
伊藤唯真・監修
山本博子・著

2020年5月17日日曜日

法然上人のご生涯⑩(ご往生)

年明けて正月2日から法然上人は、かねがね体調が悪く食が進まなかったところ、更にひどくなって床につかれることが多くなりました。

そんなあるとき、法然上人の一番弟子とも言われる信空上人が法然上人に尋ねられます。

もう法然上人の先が長くないことは誰の目にも明らかです。

「昔から偉いお坊さんには遺跡(ゆいせき)があります。

伝教大師には比叡山がありますし、弘法大師には高野山があります。

しかしお師匠さまは未だ一つのお寺もお建てになっていません。

法然上人ご入滅の後、どこを遺跡とすればよろしいでしょうか?」

教団を守る弟子をまとめて行かねばならない信空上人のお立場で、そのような質問をなさいました。

それにお答えされた法然上人のご返事が素晴らしいのです。

遺跡を一カ所に決めてしまえば、教えは広まらない。

私の遺跡はあちこちにある。

なぜならば、念仏を広めることが私の生涯の役割であった。

だから念仏の声する所はどんなところであってもみんな私の遺跡と心得よ。」

念仏の声するところすべて法然上人のご遺跡なのです

大勢がそろってお念仏を唱えることが叶わないときを私たちは経験しています。

しかしあなたがお家で称えられたら、皆さんのお家が法然上人のご遺跡になるのです。

尊いことではありませんか。

同じ月、建暦2年(1212)1月25日法然上人はその80年のご生涯を終え、極楽浄土へと往生されました。

「人々さんざん」(1133年)にお生まれになり、どんな者でも救われるお念仏のみ教えを説かれ、「いちに、いちに」(1212)と極楽浄土へ往生されたと覚えてください。

今その地は知恩院の中、御廟という建物が建ち、法然上人のご遺骨が収められております。

しかしそこだけが法然上人のご遺跡ではありません。

念仏の声するところ、どこもかしこも法然上人のご遺跡だとお示し下さったのです。

皆さんが行くところ行くところでお念仏をお称えになれば、それが法然上人のご遺跡になるのです。

そのような思いで、お念仏をお続け下さいましたら、法然上人の本意に叶うことでしょう。




『法然上人の御影』
総本山知恩院刊

          
                       (法然上人のご生涯の項をおわります)

2020年5月15日金曜日

数珠の繰り方(浄土宗)

浄土宗の数珠について

数珠は「数をとる」法具です。

浄土宗においては「念仏の数をとる」大切なもの。

お念仏の数を数えるには数珠をどのように扱うのか?

それを動画にしました。




普段は左手首にかけます。

合掌するときは両親指にかけ、手前に垂らします。

浄土宗の数珠は

①荘厳数珠(僧侶のみ)

②百八数珠

③日課数珠

④百万遍数珠

の4種あります。

手元に百万遍数珠がありませんので、動画では3種のみご紹介しました。

いずれは百万遍数珠もご紹介いたします。









2020年5月14日木曜日

お釈迦さまのご生涯①(ご生誕)

お釈迦さまは2500年前のインド、マガダ国という国の属国、カピラバストゥーという小さな国の王子としてお生まれになりました。

カピラバストゥーはシャカ族の国です。

シャカ族は早くから農耕を行い、人々の性格は温厚で平和な国であったといいます。

お父さまはシュッドーダナ王という王さまで、お母さまはマーヤさまといいました。

お母さまのマーヤさまは隣の国の王姫で、お二人はとても仲が良かったそうです。

あるときマーヤさまは白い象の夢を見て、ご懐妊なさったと伝えられます。

マーヤさまは当時の習慣にしたがって出産のために多くのお供を連れて実家に向かわれました。

その途中、ルンビニーという所を通られた時、色とりどりの花が咲き乱れてあまりに美しかったので、そこで休憩しようということになりました。

マーヤさまは無憂樹の橙色の花を触ろうと右手を差し出したその時、右脇からお釈迦さまがお生まれになったというんです。

そのお誕生を天も祝って甘露の雨を降らせたといいます。

お生まれになった赤ん坊は七歩歩んで右手を高く天に指さし、左手を大地にさして、「天上天下唯我独尊」とおっしゃいました。

これが4月8日で、今も「花まつり」をして、花御堂に誕生仏をお祭りして、甘露の雨にちなんで甘茶をかけてお釈迦さまののお誕生をお祝いします。

七歩歩いたのは後にお伝えしますが、「苦しみの六道を越える」という意味があります。

また「天上天下唯我独尊」という「天の神々の含めて私が最も尊い存在である」とおっしゃいました。

これは実はお釈迦さまがお覚りになられた後、ブッダになられた後におっしゃった言葉を、後の人がお誕生の時のお話として伝えたようです。

「自分のことしか考えていないわがままな人」を唯我独尊と言うことがありますが、お釈迦さまはわがままではなく「苦しみから逃れる道を覚った、尊い方である」ということを伝えるものです。

お生まれになった赤ん坊はシッダールタと名づけられました。

お母さまのマーヤさまは、悲しいことにシッダールタ王子がお生まれになってわずか7日でお亡くなりになりました。

このことはシッダールタ王子に後々まで大きな影響を与えたことと思われます。

やがてマーヤさまの妹、マハーパジャーパティーさまが後添えに入られてお釈迦さまを育てられました。

後にこのマハーパジャーパティーさまはお釈迦さまのお弟子となられまして、女性の僧侶第1号になられるんです。


『おしゃかさま』
高橋良和

2020年5月13日水曜日

お釈迦様のご生涯②(幼少期)

シッダールタ王子がお生まれになって間もなく、アシタ仙人という仙人がお城に訪ねて来ました。

仙人は
「立派な王子様がお生まれになったと聞いてやって来ました。一目王子様と会わせてください。」
と言います。

仙人はまだ赤ん坊のシッダールタ王子を見るなりポロポロと泣き出します。

王様は「何か不吉なことでもあるんですか?」と仙人に尋ねます。

仙人は
「そうではありません。この王子様が成人したならば、娑婆世界を統治する、転輪浄王になるか、覚りを開いてブッダになるかどちらかになるでしょう。しかし私は王子様が成人するまで生きていられないでしょう。それが残念でなりません。」
と泣いたといいます。

シュッドーダナ王は、転輪浄王になってくれればいいけれども、ブッダになったら国を捨てて出て行ってしまいますから困ります。

ですから、国を捨てて出て行こうなんて気が起こらないように、生まれてきた子に贅沢三昧させるのです。


春には春を楽しむべく造られた宮殿に住まわせ、夏には夏、冬には冬の宮殿を与え、おいしい物を与え、よい着物を与え、美しい女性に身の回りの世話をさせ、快楽という快楽を与え続けます。

普通ならとんでもない馬鹿息子が出来上がるところでしょうが、そこは違いました。

シッダールタ王子はそういった贅沢を楽しむことなく、物思いに耽る少年であったといいます。

あるとき、村の農耕祭に招かれて畑に鍬を入れる様子を観ていましたら、鍬によって土が耕され、土の中から虫が出て来ました。

何気なくその虫を見ていると、小鳥が飛んできて、虫を咥えて飛んでいきました。

一瞬の出来事でしたが、シッダールタ王子は悲しみに包まれます。

強いものが弱いものを殺し、更に強いものが殺す。

かく言う私たちもあらゆる生きものの命を奪って生きている。

生きとし生けるものは何のために生きているのであろうか。

人間は争いを好みます。

大昔から殴り合いを見たり、殺し合いを見るのは権力者の娯楽でした。

今でもあらゆる形で競争をし、その勝ち負けの競い合いを人は楽しみとして見ます。

人が喧嘩をしていると人だかりができます。

「やれ!やれー!」なんてね。

仲の悪い人が隣り合わせになっていたりすると、みんな見てみないふりをしながら、興味津々です。

人は争いが大好きです。

マグロが解体されるのがショーになる。

殺され、身体が切り刻まれているのに、見ている人はニコニコして、舌なめずりをして見ている。

しかしシッダールタ王子はそうではありませんでした。

虫が小鳥に食べられ、小鳥が大きな鳥に食べられる様子を見て、笑うことはできません。

深い悲しみに包まれます。

お父様のシュッドーダナ王は、沈みがちは王子を心配しまして、隣国から美しいヤソーダラー姫を選んで王子の妃にしました。

20歳頃のことと言われていますが、それから出家されるまでの9年間は、外から見れば幸福そのものに見えたことでしょう。

後にヤソーダラー姫もお釈迦様のお弟子となられます。

『ブッダのことば』
中村元訳


2020年5月12日火曜日

お釈迦様のご生涯③(四門出遊)

ある時、シッダールタ王子は東の門から家来を連れて

街を見物に出かけました。

東の門から出ると、お年寄りを見かけます。

耳は遠く、腰は曲がりまっすぐに歩くこともできません。

シッダールタ王子は家来に尋ねます。

「私もいずれあのようになるのだろうか?」

家来は答えます。

「生きていれば必ずあのように老人になることでしょう。」

シッダールタ王子は「そうか」と肩を落としてお城へ帰ります。


気を取り直して別の日にまた家来を連れて南の門から出ると、

病で苦しむ人に遭遇します。

シッダールタ王子は家来に尋ねます。

「私は今健康であるが、あのように苦しむことがあり得るのだろうか?」

家来は答えます。

「はい。長く生きていれば、いつか必ず病になるでしょう。」

「そうか」と肩を落としてシッダールタ王子は城へと帰って行きます。

また別の日に家来を従えて西の門から出ますと、

今度は葬式の行列に遭遇します。

シッダールタ王子は家来に尋ねます。

「あれは何であるか?」

家来は答えます。

「あれは葬式です。一人の人が死を迎えたのです。」

「人は必ず死を迎えるのであるか?」

「はい。生きている者は必ずいつか死を迎えます。」


「そうか」と肩を落としてシッダールタ王子は

城へと帰って行きます。

最後に北の門から出かけた時に、

清い出家者と出会ったといいます。

シッダールタ王子はその清い出家者に密かに憧れを抱きます。

このお話が有名は四門出遊(しもんしゅつゆう)です。

お釈迦さまの出家の動機として伝えられてきました。

私たちの誰も逃れることができない苦、

特に「老・病・死」という三つの苦しみに

ついて、シッダールタ王子の

お話しを通して考えさせられます。

『スッタニパータ』
荒牧典俊・本庄良文・榎本文雄訳


2020年5月11日月曜日

お釈迦様のご生涯④(出家)

今もインドにはたくさんの出家者がいます。

沙門(しゃもん)と言います。

王子が沙門になろう、と心の中では決意を固めていた、

そんな時に、我が子の誕生です。

思わず王子は「ああ、ラーフラ!」と叫ばれた。

「ラーフラ」というのは「妨げ」とか「邪魔者」っていう意味ですから、

「ひどいなあ」と思われるかもしれません。

「子供を授かったら出家しにくくなってしまう」ということなのでしょう。

その「ラーフラ!」という言葉をお供の人が聞いていて、

王さまに「王子はお生まれになった赤ん坊を

ラーフラと名づけられました!」と報告してしまいました。

それでその子はそのまま「ラーフラ」

つまり「邪魔者」という名前がついてしまったというのです。

この「ラーフラ」さまは漢訳されるときに、

「らごら」と訳されまして、お経の中にも出てまいります。

ご法事などでもよく読まれる、『浄土三部経』の中の

『阿弥陀経』の冒頭にも登場します。

「長老舎利弗 摩訶目犍連 摩訶迦葉 摩訶迦旃延 

摩訶倶絺羅離婆多 周利槃陀伽 難陀 阿難陀 羅羅」

阿弥陀経を説かれる時に列席していた

お釈迦さまのお弟子が順番に出てまいりまして、そこにも登場します。

らごらさまも後にお釈迦さまのお弟子となられ、

「釈迦の十大弟子」の一人として立派に覚られるのです。

さてある日、宴会が催されまして、昼間には美しかった

女性たちもだらしなく眠りこけていました。

その姿を見て、王子はたまらなく嫌な気持ちになられました。

昼間は着飾って化粧して美しく整えていても、それはあくまで仮面にすぎません。

気を悪くされたら申し訳ありません。

ただ、王子は本質を見抜いたのですね。

そこで「出家するのは今だ」と御者のチャンナに命じて、

愛馬のカンタカにまたがって王宮を抜けだして逃げて行き、

追っ手が来ないことを確認して髪の毛を剃り落として

着物を出家者の粗末なものに着替えました。

御年29歳の時であります。

「父母や妻子と別れることは忍びがたいことだけれど、

こうしないと長年の老病死の悩みを解決できない」と思い、

そのことをチャンナに伝え、シュッドーダナ王へと伝言を頼んだのです。

王子は新興の大国でありますマガダ国の首都、

ラージャグリハへ向かい、当時有名であった

二人の師匠に次々に教えを請われます。

そこで瞑想を学んですぐに体得してしまうんですが

「この瞑想では目的は果たせない」と思われて、師の元を去っていきます。

インドの修行者は非常にストイックで、

今でもインドに行くと多くの修行者と会うことができます。

肉体を苦しめることによって精神の安定が得られると

信じている人がお釈迦さまの時代から今に至るまで存在します。

王子も同じく苦行を始められました。

まずは食事を減らすことから始まって、

断食をしたり、身体の一部を焼いたり、息を止めたり、

直射日光にあたって暑さに耐えたり、ありとあらゆる苦行を試みます。

それによって肉はそげ落ち、あばら骨があらわになって、

お腹の皮が背骨にくっつき、血管が外から見えるほどになりまして、

ついに生死をさまようほどの苦行を続けていかれたんです。

思えば29歳で出家をしてから6年。

実はお父さんのシュッドーダナ王は王子を心配して、

5人の家来を送り込んで、王子のそばで修行させていました。

その5人の修行者も、王子の苦行をみて「死んでしまうのでは?」

と案じたほどだったといいます。

しかし、どれだけ身体を痛めつけても、

覚りの智慧を得ることはできませんでした。

そんなとき、たまたま民謡を歌う農夫の声が聞こえてきました。

その歌詞が「いざ我は琴を鳴らさん。張りすぎても鳴らぬ。

弱すぎても鳴らぬ。ほどほどの調子にしめて、我はいざ琴を鳴らさん。」

という歌詞です。

王子はそこに感じるものがあって

「このまま極端な苦行を続けても何も得るものはない」

ということに気づかれたのです。

そこで大きな河の対岸へ渡って木の下で身体を横たえて休むことにしました。

ちょうどそばを通った村娘のスジャータが乳がゆを王子に捧げたんです。

王子はこれを飲んで気力と体力を回復されました。

コーヒーフレッシュの「スジャータ」っていうのはここからきています。

「お釈迦さまの身体を癒やすために乳がゆを与えた村娘」

の名前からとったのだそうです。

その姿をみていた5人の修行者は「王子は堕落した」

と思い込んで王子に失望して、

バラーナシーのサールナートへと去っていきます。

『真理のことば・感興のことば』
中村元訳


お釈迦様のご生涯⑤(成道)

一日中瞑想をしておられる王子の元へ悪魔がやってきて、いかにもいたわるように
やさしくささやきかけてきます。

「そんなにやせて、疲れただろう。そんなに頑張っても死んでしまったら終わりだよ。」

それに対して王子は「悪魔よ立ち去れ、私には信と精進と智慧がある!」と退けます。

悪魔たちはある時には剣を持って、ある時には美女を遣わして、ある時には暴風を
起こして王子の修行の邪魔をします。

王子はその邪魔に打ち負かされることなく深い瞑想に入っていかれます。

この悪魔というのは、私たち自身の煩悩を表すと考えられます。

「さあ、今日は一日頑張るぞ!」

と思っても、「やっぱりちょっとテレビを観よ。」とか、

「パソコンいじろ」とか、

「昼寝しよ」という誘惑に負けてしまうことはありませんか?

貪りや怒りや嫉妬・妬み・羨み、自己顕示欲や自己承認欲求やら、そういうものが

正しく見る目を曇らせます。

我々は外から内からの誘惑に邪魔されて中々一つことを成し遂げるのに苦労します。

王子の元に現れる悪魔たちは、そういった私たち自身の中にある煩悩を表すものなのです。

スジャータから乳がゆをもらって元気をつけて、瞑想に入ってから49日目の明け方、

王子の心は精神の統一がグッと深くなり、覚りの智慧が生じてきました。

今まで覆われていた闇が取り払われて、明るい光が心に射し込みました。

王子35歳の12月8日、明けの明星がひときわ輝いた時、王子はついに覚りへと到達
しました。

我々はここをもって、シッダールタ王子をシャカ族出身の聖者として、

「釈尊」とか「お釈迦さま」とお呼びして敬うのであります。

この釈尊お覚りの日は12月8日、上の世代の方は、

「真珠湾攻撃の日」と記憶されていることと思いますが、

仏教ではお釈迦さまが覚りを開かれた、成道された日であります。

お寺では成道会などを行って、お釈迦様の成道を祝うのでございます。

法輪寺は正式には「成道山・獅子吼院・法輪寺」

(じょうどうざん・ししくいん・ほうりんじ)といいます。

町中にあってもお寺には「山号(さんごう)」


「院号(いんごう)」


「寺号(じごう)」があります。

山号に当たる「成道山(じょうどうざん)」は

正にこのお釈迦さまの「成道(じょうどう)」からとられた名前です。

院号にあたる「獅子吼院(ししくいん)」は

仏が説法するとまるで獅子(しし)が吼える如くである、

というところからとられました。

寺号の「法輪寺」は、仏の教えが車輪の如く止まることを知らず

ことを表す「法輪」からとられた名称なのです。

お覚りになった場所はガヤーという街の近くで、

お釈迦様、ブッダが覚られた場所、ということで

「ブッダガヤー」と呼ばれるようになりました。

お釈迦さまはご自身が覚られて、その悦びをゆっくりと味わっておられました。

お釈迦さまはご自身があらゆる苦しみから逃れるために修行してこられました。

その目的は達成された。

すべての苦しみから逃れる、覚りの境地に到達された、瞑想を続けて、

その境地をしみじみと味わっておられたのです。

そんなお釈迦さまの元に、この世界の主と言われる梵天さまが現れて、

「どうかお釈迦さま、煩悩だかけの人々に教えを伝え導いてください。お願いします。」

と説法を勧めてくださったというんです。

しかし煩悩だらけの心を持った人々にこの教えを伝えても、

恐らく人々は理解することができないであろう。

覚っていない者に覚りの境地を説いても理解できないであろう。

覚りの境地を言葉にしたり文字にすると、必ず誤解を生むであろう。

「言葉にすれば嘘に染まる」という歌がありましたが、その通りです。

覚りの境地は言葉になりません。

それならば、このまま自分は覚りの悦びを味わったまま、

人には伝えずに命尽きるまで過ごそう、とお考えになりました。

しかし梵天は三度に亘ってお釈迦さまにお願いされます。

三顧の礼です。

梵天の願いに応えて、お釈迦さまは説法の決意を固められたといいます。

このエピソードは、お釈迦さまご自身の

心の中の葛藤を表すとも言われていますが、

いずれにせよ、お釈迦さまが人々に教えを

伝える決意をなさったからこそ、

我々はこうやって仏教の教えを知ることができるのです。

『仏教百話』
増谷文雄


2020年5月10日日曜日

お釈迦様のご生涯⑥(梵天勧請・初転法輪)

お釈迦さまはご自身が覚られて、

その悦びをゆっくりと味わっておられました。

お釈迦さまはご自身があらゆる苦しみから

逃れるために修行してこられました。

その目的は達成されました。

すべての苦しみから逃れることができた。

覚りの境地に到達した。

瞑想を続けて、その境地をしみじみと味わっておられたのです。

そんなお釈迦さまの元に、

この世界の主と言われる梵天さまが現れて、
「どうかお釈迦さま、煩悩だかけの人々に

教えを伝え導いてください。お願いします。」

と説法を勧めてくださました。

しかし煩悩だらけの心を持った人々にこの教えを伝えても、

恐らく人々は理解することができないであろう。

覚っていない者に覚りの境地を説いても理解できないであろう。

覚りの境地を言葉にしたり文字にすると、必ず誤解を生むであろう。

「言葉にすれば嘘に染まる」という歌がありましたが、その通りです。

覚りの境地は言葉になりません。

それならば、このまま自分は覚りの悦びを味わったまま、

人には伝えずに命尽きるまで過ごそう、とお考えになりました。

しかし梵天さまは三度に亘ってお釈迦さまにお願いされます。

三顧の礼です。

梵天の願いに応えて、お釈迦さまは説法の

決意を固められたといいます。

このエピソードは、お釈迦さまご自身の心の中の

葛藤を表すとも言われていますが、

いずれにせよ、お釈迦さまが人々に

教えを伝える決意をなさったからこそ、

我々はこうやって仏教の教えを知ることができるのであります。

説法の決意をされたお釈迦さまは、

まず最初に誰に説法しようかとお考えになりました。

まったく救いを求めていない人よりは、

救いを求めて努力している人の方が最初はいいだろう、

と思われて、5人の修行者を思い出しました。

皆さん、5人の修行者を覚えておられますか?

〈お釈迦さまのご生涯④(出家)参照〉


シュッドーダナ王がシッダールタ王子を心配して

5人の家来を送り込んだのですね。

その修行者たちはその内に本気で修行にのめり込んで

覚りを求めるようになられました。

シッダールタ王子とは苦行仲間としてお互い研鑽されていたんですね。

ところがシッダールタ王子は

「極端な修行では覚ることができない」と気づかれて、

スジャータから乳がゆをもらって、

体を癒やして改めて瞑想に入って覚りに至られたわけです。

しかし5人の修行者は王子が乳がゆを飲まれた時点で

「彼は堕落した」と勘違いして離れていくわけです。

その後王子が覚りに至ってお釈迦様となられたことを知らないんですよ。

お釈迦様はブッダガヤから約200キロもの道のりを、

5人の修行者がいるサールナートまでやってきました。

サールナートというところは、バラナシーという

ヒンズー教の聖地に近いところです。

バラナシーは昔はベナレスと呼ばれていました。

いわゆる皆さんがイメージする「ガンジス川」、

ヒンズー教の方が川の中に入って身を清めたり、

亡くなった方が火葬されて聖なるガンジス川に流されていくのを

テレビなどでもごらんになったこともおありではありませんか?

あのバラナシーからバスに乗って30分ほどのところにサールナートがあります。

5人の修行者を探して200キロの道のりを

10日かけてお釈迦さまはやってこられました。

5人の修行者はお釈迦さまの姿を見つけてささやき合いました。

「あそこからシッダールタがやってくるが、彼は堕落した男だ。

ここへやってきても礼を尽くす必要もない。

まあ遠くから来たのだから座るぐらいは許してやってもよかろう。」

ところがお釈迦様が近づいてこられると、

一人はお釈迦様の足を洗う水を持ってきて、

一人は座席をつくり、一人は足を拭く布をもってきてもてなしました。

覚りを得て威厳に満ちたお釈迦さまのお姿を見て、体が自然に動いたのです。

お釈迦さまは

「あなたたちは私の顔色がこのように輝いているのを

今まで見たことがありますか?」

と尋ねられました。

彼らは

「こんなに晴れ晴れとしたお顔を見たことはありません。」

と答えました。

お釈迦さまは

「私は覚ったのだ。これからは私を友と呼んではいけない」

とおっしゃり、

それを聞いた彼らはその姿の尊さに感激して説法を聞きました。 

『神々との対話』
中村元訳
                   

2020年5月9日土曜日

お釈迦様のご生涯⑦(四聖諦)

お釈迦さまは覚りを得て、

まず「この世の快楽を追求しても本当に幸せになることはできませんよ」

と説いて下さいます。

お金持ちになれば幸せかというと、決してそうではありませんね。

求めて求めて欲張り、人を押しのけて

金持ちになったら幸せになるでしょうか。

美しい異性、美男美女が自分の伴侶になれば幸せかというと、

そうでもなさそうです。

男前が綺麗な奥さんと結婚したら手放しで幸せなのかというと、

こちらもどうもそうでもなさそうでしょ?

次々に愛人を作り、欲望の限りを尽くした人が幸せになるのでしょうか?

それも怪しいですね。

反対に「楽しいことを追い求め、幸せを追い求めたら不幸になっていく」

と言えるのかも知れません。

お釈迦さまは「こうすれば楽ができる」ということを

追い求めたのではありません。

そうではなく「苦しみの原因」を追い求められました。

そして「苦しみの原因は煩悩である」と突き止められたのです。

まず「私たちの人生は思い通りにはならない」ということを

明らかにされ、その原因を外に求めるのではなく、

自分の中の煩悩にある、気づかれました。

そしてその「煩悩を滅すれば、苦しみから逃れることができる

と説いてくださいました。

その煩悩を滅するためには正しい修行をする必要がある

ということを明確に説いていかれました。

5人の修行者たちにもそのように教えを説かれました。

この煩悩につきましてはまたいずれ改めて

詳しく申し上げたいと思っております。

こうしてお釈迦さま「」と、その説かれる教え「」、

そしてその教えを信じて修行する「」、

仏法僧」(ぶっぽうそう)ができあがりました。

三宝」ですね。

以後仏教徒は必ず仏法僧の三宝を敬う

ということからスタートすることになりました。

仏教教団に入ろうと思うならば、

その拠り所である釈尊「仏」に帰依するのは当然ですよね。

そして釈尊が説かれた「法」に帰依するのも当然でしょう。

そうであれば仏教教団「僧」に帰依するのも当然だといえましょう。

こうして仏教教団は2500年経った今も、

存続して苦しんでいる人々の支えとなっているのです。

『悪魔との対話』
中村元訳

2020年5月8日金曜日

お釈迦さまのご生涯⑧(涅槃・最終章)

お釈迦さまはガンジス川中流域の各地を旅から旅へ

一時も休まれることなく、伝道の旅を続けられました。

至る所でその人にふさわしい教えを説いていかれました。

いわゆる「対機説法」です。

その人その人の素質や能力に合わせて、教えを説かれました。

それはまるでお医者様が患者の病状に会わせて

薬を処方するようですので、応病与薬とも言われます。

会う相手ごとに教えを説かれましたので、

その数は膨大になりました。

それがお経です。

八万四千の法門と言われるほどに多くのお経、教えがあります。

伝道の旅を続けられたお釈迦様は八十歳の高齢を迎えられました。

「私の体は修繕に修繕を重ねた古車のように疲れ果てた」

とおっしゃり、お弟子の阿難さまに

「阿難よ、背中が痛む」と入滅が近いことを知らされたといいます。

お釈迦様は「阿難よ、私が入滅したら、

その後は自らを灯火とし、法を灯火として精進せよ」と告げられたといいます。

これが「自灯明法灯明」と呼ばれる教えです。

年老いて体調もお悪いお釈迦さまですが、まだ旅を続けられます。

パーヴァ村という村に行かれた時に

チュンダという鍛冶屋の息子がいまして、

お釈迦さまにきのこ料理を供養しました。

ところがそれを食べられたお釈迦さまは激しい腹痛に襲われ、

血がほとばしるほどでありました。

おそらく今の赤痢であろうと言われています。

チュンダは「大変なことをしてしまった」

と顔面蒼白になるのですが、お釈迦さまは彼を気遣い、

「仏に対する最初の供養と入滅前の最後の供養は最大の功徳があるのだよ」

とおっしゃったといいます。

少し病状が軽くなるとまだ旅に出られましたが、

クシナガラという街にさしかかったとき、

川の畔の沙羅双樹のところでもう一歩も歩くことができなくなりました。

阿難さまに命じて敷物を敷かせて、頭を北に、

右脇を地につけて静かに横になられました。

いわゆる頭北面西、北枕です。

その姿をみた阿難さまは悲しみのあまりに涙します。

その阿難さまに対してお釈迦さまは

「阿難よ、泣くではない。

すべて愛する者ともいつかは別れなくてはならない。

お前は長い間、私によく仕えてくれた。

この上は更に精進して覚りを目指せよ。

阿難よ、私の入滅の後、我が師はすでにいない、と思ってはならない。

私が説いた教え、法と生活規範の律を自らの師として、

照らし合わせながら修行せよ」

とおっしゃいました。

クシナガラにやってきた遊行僧のスバッタ

お釈迦さまに教えを請いたい、と言います。

お釈迦さまはスバッタの悩みを聞かれ、

質問にお答えになり疑いを解かれました。

そのスバッタがお釈迦さまの最後の弟子となります。

2月15日の満月の日、お釈迦様は入滅されました。

御年80歳でありました。

この2月15日をお釈迦様入滅涅槃の日、ということで

多くのお寺で「涅槃会」が営まれます。

『ブッダ最後の旅』
中村元訳

2020年5月6日水曜日

合掌(浄土宗)



宗派によって合掌の仕方は様々あります。

浄土宗では「堅実心合掌(けんじつしんがっしょう)」と

「叉手合掌(しゃしゅがっしょう)」の二種があります。

「叉手合掌」は僧侶のみの作法です。

浄土宗の檀信徒はこのように合掌していただきたいと思います。

浄土宗の焼香作法




お葬儀やお通夜、法事でお焼香の順番が回ってきた時、不安になりませんか?

焼香の作法やその意味づけは宗派によって様々あります。

法輪寺は浄土宗ですから、浄土宗の焼香作法をユーチューブで(これも初めて投稿)

アップしました。


法輪寺ホームページ

法輪寺にはホームページがあります。

是非お立ち寄りください。

https://j-hourinji.com/

法輪寺ブログはじめました

遅ればせながらブログをはじめました。

今まではお檀家さんのお宅へ参ったり、寺の行事をしたり、他寺へお説教に伺って

浄土宗の教えをお伝えすることができました。

しかし、今年(2020年)新型コロナウイルスにより

「緊急事態宣言」が発令され(5月現在)身動きがとれなくなりました。

そこでこれまで「苦手」「時間がない」などの理由をつけて避けてきた

動画作成やブログをはじめて、浄土宗の教えや作法、信仰についてお伝えして参りたいと

思います。

少しずつ発信していきますのでよろしくお願いします。
                       法輪寺小住 北村隆彦拝

4月後半のことば

 4月後半のことば 「永遠に走り続けることはできない」 私たちの好む健康や若さは、あくまで期間限定です。 そしてその期間がいつまで続くのかは誰にもわかりません。 「健康が一番」と言っても、健康でい続ける人はいません。 健康な状態は徐々に、あるいは突然に壊されます。 同様に、「若さ...