2020年5月21日木曜日

法然上人のご生涯⑤(比叡山へ)

観覚さまは比叡山北谷におられる、旧知の持宝房源光(じほうぼうげんこう)さまの元に勢至丸さまを送り出しました。

その紹介状には「文殊菩薩を一体お届けします」と書かれていたといいます。

文殊菩薩は勢至菩薩と同じく智慧の菩薩です。

師匠にそう言わしめるほど勢至丸さまは聡明だったのでしょう。

源光さまは優秀な勢至丸さまを、東塔功徳院の皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)に託されました。

比叡山に登ってから勢至丸さまはがむしゃらに学び、修行に励まれます。

ストイックに修行を続けた勢至丸さまは徐々に有名になってきます。

お師匠さまには「お前は頭が良い。いずれは天台の棟梁になるべき器だ」などと言われます。

しかし勢至丸さまは、そんな出世や名声には全く興味がありません。

勢至丸さまの目的はただ一つ、お父様のご遺言の通りに覚りに至ることです。

「このままいたら出世競争に巻き込まれてしまう」と数え年18歳、今の高校2年生という若さで隠遁(いんとん)してしまわれます。

比叡山の中でも特に奥深い黒谷という土地に青竜寺(せいりゅうじ)というお寺があります。

青龍寺には叡空上人(えいくうしょうにん)がおられ、その元に勢至丸さまと同じく隠遁してひたすら学問と修行をする人が集まっていました。

勢至丸さまがそれまで「勢至丸」というお名前でおられたのか、別のお名前があったのかはわかりませんが、黒谷青龍寺に入った後、叡空上人から法然というお名前を授かりました。

法然房源空(ほうねんぼうげんくう)というのが正式なお名前です。

法然」とはお釈迦さまの教え、「法のままに」という意味です。

「源空」は、法然上人が比叡山に入って最初のお師匠さまであります源光上人の「源」と、叡空上人の「空」をとってつけられたといいます。

法然上人はそれ以来、この黒谷青龍寺で二十五年間も過ごされます。

京都市左京区にあります浄土宗の大本山金戒光明寺も「黒谷」といいますが、こちらの黒谷は「谷」ではなく「丘」です。

比叡山の「黒谷」に長くおられた法然上人はいつしか「黒谷上人」と呼ばれるようになったので、そこから「黒谷上人がおられるところ」ということで、京都の丘にある金戒光明寺も「黒谷」と呼ばれるようになりました。

区別するために比叡山の黒谷を「元黒谷」、京都の黒谷を「新黒谷」と呼ぶこともあります。

黒谷青龍寺に入られてからの法然上人は今までにも増して学び、厳しい修行をなさいます。

しかし学べば学ぶほど、修行すればするほどに、教えの尊さと自分の器の間の距離を実感されるのです。


続日本の絵巻『法然上人絵伝 上中下』


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