生仏法師がすぐに出発し、良忠上人は翌日に出発しました。
良忠上人はご準備などのあったのでしょう。
不思議なことにお伝記にはこれ以降生仏法師についての記述がありません。
個人的には生仏法師がこの後どうなさったのか、気になるところです。
それはともかく、、、
良忠上人は長い道のりを歩いてようやく善導寺(福岡県久留米市)に着きました。
ところが残念なことに聖光上人はお留守でした。
善導寺から20キロほど離れた天福寺(福岡県八女市)におられると聞いて、
翌日天福寺へと向かいました。
そこで運命の出会いです。
浄土宗二祖と三祖が出会われたのです。
聖光上人75歳、良忠上人38歳でありました。
聖光上人にもたくさんのお弟子がいました。
しかしお弟子はたくさんいるけれども、
自分の跡を譲ることができる者がいないことを嘆いておられました。
そこに38歳男盛りの良忠上人が現れたのです。
良忠上人は他のお弟子以上に、
今まで必死の思いで教えを求めてこられましたから、
学識は豊富。
体力も抜群。
そしてなにより求める心が強い。
聖光上人は良忠上人を「私の若いときのようだ」とお喜びになり、
良忠上人も聖光上人の人格と信仰に強烈に惹かれた。
尊敬する師匠の「私の若いときのようだ」
という言葉は最高の褒め言葉でしょう。
お互い火花を散らすように聞き、答える。
わずか一年足らずの間に一器の水を一器に写すが如くに
法然上人のお念仏のみ教えを伝え尽くされました。
その証として聖光上人の御著
『末代念仏授手印』(まつだいねんぶつじゅしゅいん)と
『徹選択本願念仏集』(てつせんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を
授けられた良忠上人。
一生懸命読んですぐに、お師匠さまの
『末代念仏授手印』をこのように理解しました、
と一冊の書物をお師匠さまに差し出しました。
聖光上人目を通し、「よし、これで宜しい!」と喜んでくださった。
この書物が『領解末代念仏授手印鈔』
(りょうげまつだいねんぶつじゅしゅいんしょう)です。
略して『領解鈔』(りょうげしょう)ともいいます。
良忠上人は「記主禅師」と呼ばれるほど多くの書物を著されましたが、
『領解鈔』はその多くの著作の最初の一冊です。
「領解」とは「頭だけでなく、全身でしっかりとわかった」という意味です。
「合点」です。
ですからこの『領解鈔』を別名「合点の書」とも申します。
当然『領解鈔』の内容と『末代念仏授手印』の内容には変わりはありません。
変わっていたらいけません。
当然同じなんです。
良忠上人が「こうですね。わかりました!」と書かれた書物。
「本当にわかる」ということです。
「わかる」とは「変わる」ことであるといいます。
親しく色々と教えてくださった先輩が、
これからお坊さんになる若い人によくこうおっしゃっていました。
「思いが変われば姿が変わる。姿が変われば言葉が変わる。」
本当に思いがわかればその姿も変わってくる。
姿が変われば、人と話す言葉も自ずと変わっていくのです。
良忠上人はずっとご自分でお勉強なさってきて、ずっと救いを本気で求めて来られました。
私たちも念仏生活の中で、
「そうか、こういうことか。わかった!」
と心の底から合点することが何度もあります。
何度も「領解」「合点」を繰り返して信仰は深まっていくのです。
この正式な教えの相承をもって
浄土宗の第二祖聖光上人から良忠上人は
後継者と認められたのです。
『三祖良忠上人』
大橋俊雄