11月前半のことば
凡夫にとっての善は所詮自分のためになること
人はだれでも、善い人でありたいと思っています。けれども、心の奥をのぞいてみると、「自分だけが得したい」「あいつより上にいたい」といった思いが顔を出します。
善いことをしても、「人に感謝されたい」「少しでも認められたい」と、どこかで打算が働いているものです。そんな自分に気づくと、少し情けなくなりますが、それが「凡夫(ぼんぶ)」の正直な姿なのでしょう。
仏教には、「因果の道理」が説かれています。善い因を積む者は楽の果を受け、悪い因を積む者は苦の果を受けます。
しかし、煩悩に満ちた私たちが、まことの善をなすことは容易ではありません。どうしても、自分を中心にしか物事を見られないのです。
阿弥陀仏(あみだぶつ)は、そんな私たちを見捨てることができず、「善をなせぬ者をどうすれば救えるか」と、五劫(ごこう)という長い時間、思い悩まれました。
そして、『南無阿弥陀仏』という名号の中に、ご自身の修めたすべての功徳(くどく)を込めてくださいました。
私たちは、もはや自分の力に頼らずとも、『南無阿弥陀仏』と称えることで、阿弥陀仏の功徳に結ばれ、「極楽(ごくらく)へ生まれる」という楽の果をいただくことができます。
阿弥陀仏は、因果の道理を曲げずに、凡夫のための道を開いてくださいました。
人の弱さを知り抜いた上で、それでもなお救おうとするお慈悲の深さ。そのことを思うと、ただ『南無阿弥陀仏』**と称えたくなりませんか。
