2025年11月30日日曜日

12月前半のことば この世は無常とわかっていても…

 12月前半のことば

「露の世は 露の世ながら さりながら」 小林一茶


 仏教は「この世は無常である」と教えます。どんな命もいつかは終わり、どんな形もいつかは崩れる。理屈としては誰もが知っている真理です。しかし、それを心の底から受け入れることが、どれほど難しいか。最愛の人を亡くした時、「無常だから仕方ない」と頭ではわかっても、涙は止まりません。言葉は空しく響き、心は納得しません。

 小林一茶は、長い貧乏暮らしの末にようやく家庭を持ち、子どもに恵まれました。けれどもその子は、生まれて間もなく亡くなってしまいます。悲しみの底に立ち、どうしようもない喪失の中で詠んだのが、「露の世は 露の世ながら さりながら」という句でした。この世は露のようにはかない、それはわかっている。けれども、けれども……と、言葉が続かない。理(ことわり)と情(こころ)のあいだで裂かれるような一茶の呻(うめ)きが、この十七音の中にあります。

 仏教では、こうしたどうしようもなさを抱えた存在を「凡夫(ぼんぶ)」といいます。無常を知りながら、受け入れきれず、涙する者。しかし、まさにその「凡夫」こそが、阿弥陀仏の救いの対象なのです。無常を悟りきった聖者ではなく、悟れずに泣く者こそが、救われる。

 一茶の句は、人間の弱さを突き放さず、そのまま見つめています。受け入れられない心を、そのままの形で詠みとどめた一句。そこに、凡夫として生きるほかない私たちの姿が、浮かび上がってくるのです。

2025年11月14日金曜日

11月後半のことば 念仏の念は「思うこと」ではないの?

 11月後半のことば

念仏の「念」は声


 「念」とは、ふつう「思うこと」を意味します。だから「念仏」とは「仏を思うこと」と考えるのが自然でしょう。実際、仏教の修行の中には、瞑想によって仏の姿や浄土の光景を心に思い描く行があります。静かに座り、心を澄ませ、阿弥陀仏の慈悲の相を目の前に映し出す。それも立派な「念仏」です。けれども、この心に仏を思い浮かべる行は、言うほどやさしいものではありません。心はすぐに散ってしまう。雑念が入り込み、仏どころか今日の夕飯の心配にまで及んでしまう。人間とはそういう存在です。

 唐の善導大師は、瞑想の境地に立った上で、「阿弥陀仏の本願にある念仏とは、声に出してその名を称えることだ」と説かれました。つまり、「南無阿弥陀仏」と口に出すことが、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くための道なのです。日本の法然上人はこの教えを受け継ぎ、「念は声である」と明言しました。心は不安定でままならないものです。声に出すことは、容易く確かでまっすぐです。声は空気を震わせ、自分の耳に返ってくる。すると、仏を称える声が、自分を包み、導くように感じられもします。

 極楽浄土への道は、特別な才能や深い瞑想を必要としません。ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよい。思うだけでは届かないところに、声は届く。こんなにありがたいことがあるでしょうか。声は、誰にでも与えられた往生浄土のための行なのです。

12月後半のことば 自分の罪に気づいたら…

 12月後半のことば 「雪のうちに 仏の御名を称うれば 積もれる罪ぞ やがて消えぬる」     法然上人                    しんしんと降る雪は、一粒はか弱くても、積もれば景色を一変させ、道さえ塞いでしまいます。私たちの心に積もる「罪」も、これに似ています。  ...