やさしくささやきかけてきます。
「そんなにやせて、疲れただろう。そんなに頑張っても死んでしまったら終わりだよ。」
それに対して王子は「悪魔よ立ち去れ、私には信と精進と智慧がある!」と退けます。
悪魔たちはある時には剣を持って、ある時には美女を遣わして、ある時には暴風を
起こして王子の修行の邪魔をします。
王子はその邪魔に打ち負かされることなく深い瞑想に入っていかれます。
この悪魔というのは、私たち自身の煩悩を表すと考えられます。
「さあ、今日は一日頑張るぞ!」
と思っても、「やっぱりちょっとテレビを観よ。」とか、
「パソコンいじろ」とか、
「昼寝しよ」という誘惑に負けてしまうことはありませんか?
貪りや怒りや嫉妬・妬み・羨み、自己顕示欲や自己承認欲求やら、そういうものが
正しく見る目を曇らせます。
我々は外から内からの誘惑に邪魔されて中々一つことを成し遂げるのに苦労します。
王子の元に現れる悪魔たちは、そういった私たち自身の中にある煩悩を表すものなのです。
スジャータから乳がゆをもらって元気をつけて、瞑想に入ってから49日目の明け方、
王子の心は精神の統一がグッと深くなり、覚りの智慧が生じてきました。
今まで覆われていた闇が取り払われて、明るい光が心に射し込みました。
王子35歳の12月8日、明けの明星がひときわ輝いた時、王子はついに覚りへと到達
しました。
我々はここをもって、シッダールタ王子をシャカ族出身の聖者として、
「釈尊」とか「お釈迦さま」とお呼びして敬うのであります。
この釈尊お覚りの日は12月8日、上の世代の方は、
「真珠湾攻撃の日」と記憶されていることと思いますが、
仏教ではお釈迦さまが覚りを開かれた、成道された日であります。
お寺では成道会などを行って、お釈迦様の成道を祝うのでございます。
法輪寺は正式には「成道山・獅子吼院・法輪寺」
(じょうどうざん・ししくいん・ほうりんじ)といいます。
町中にあってもお寺には「山号(さんごう)」
「院号(いんごう)」
「寺号(じごう)」があります。
山号に当たる「成道山(じょうどうざん)」は
正にこのお釈迦さまの「成道(じょうどう)」からとられた名前です。
院号にあたる「獅子吼院(ししくいん)」は
仏が説法するとまるで獅子(しし)が吼える如くである、
というところからとられました。
寺号の「法輪寺」は、仏の教えが車輪の如く止まることを知らず
ことを表す「法輪」からとられた名称なのです。
お覚りになった場所はガヤーという街の近くで、
お釈迦様、ブッダが覚られた場所、ということで
「ブッダガヤー」と呼ばれるようになりました。
お釈迦さまはご自身が覚られて、その悦びをゆっくりと味わっておられました。
お釈迦さまはご自身があらゆる苦しみから逃れるために修行してこられました。
その目的は達成された。
すべての苦しみから逃れる、覚りの境地に到達された、瞑想を続けて、
その境地をしみじみと味わっておられたのです。
そんなお釈迦さまの元に、この世界の主と言われる梵天さまが現れて、
「どうかお釈迦さま、煩悩だかけの人々に教えを伝え導いてください。お願いします。」
と説法を勧めてくださったというんです。
しかし煩悩だらけの心を持った人々にこの教えを伝えても、
恐らく人々は理解することができないであろう。
覚っていない者に覚りの境地を説いても理解できないであろう。
覚りの境地を言葉にしたり文字にすると、必ず誤解を生むであろう。
「言葉にすれば嘘に染まる」という歌がありましたが、その通りです。
覚りの境地は言葉になりません。
それならば、このまま自分は覚りの悦びを味わったまま、
人には伝えずに命尽きるまで過ごそう、とお考えになりました。
しかし梵天は三度に亘ってお釈迦さまにお願いされます。
三顧の礼です。
梵天の願いに応えて、お釈迦さまは説法の決意を固められたといいます。
このエピソードは、お釈迦さまご自身の
心の中の葛藤を表すとも言われていますが、
いずれにせよ、お釈迦さまが人々に教えを
いずれにせよ、お釈迦さまが人々に教えを
伝える決意をなさったからこそ、
我々はこうやって仏教の教えを知ることができるのです。
『仏教百話』
増谷文雄