勢至丸さまのお父さま、漆間時国公は「押領使」というお役目の武士だと申しました。
「押領使」とは、地方の治安を維持するお役目であります。
武士といいますと、身分が高かったのですねと言われる方がおられますが、そうでもないようです。
武士を江戸時代の、身分制度が確立してその頂点に君臨していることを多くイメージされていませんか?
中世のの武士はそうではありません。
天皇や貴族の警護をしたり、地方を武力でもって治める、どちらかというと乱暴者のようなイメージでみられていた部分もあるようです。
漆間時国公も武士ですから、そのような面もあったのかも知れません。
法然上人のご生涯①でお伝えしましたように、稲岡荘は貴族や寺社が土地を所有していて、そこから徴税するという荘園です。
この荘園の管理者を預所といいます。
稲岡荘の預所は明石源内武者定明といいます。
時国公はその土地の治安を守る押領使であり、同じ土地に立場や利害の違う武士がいるのです。
そしてこの時代は支配関係がすっかり崩れていました。
伝記にも時国公は預所の明石定明を見下し、命令に従わないばかりか面会しても敬意を表すこともなかったといいます。
このように時国公と明石定明の間には人間関係のもつれがありました。
勢至丸さまが数え年9歳のある夜、突然定明が大勢で時国公の屋敷を攻めてきました。
時国公は深手を負い、それが致命傷となって亡くなります。
ご自分の死を覚悟した時国公は、枕元に一人形見である勢至丸さまを呼び、非常に尊い遺言を残されます。
勢至丸さまは武士の子ですから、当然「必ず仇を討ちます!」と考えたことでしょう。
しかし時国公はそれをお許しになりませんでした。
何と「仇を討つな」とおっしゃったのです。
「仇を討つな。お前が私の仇を討ったならば、敵の子や家来がまたお前の命を狙うであろう。
恨み憎しみというものは尽きることがないのだよ。
恨み、憎しみはお前のところで断ち切るべきだ。
お前は出家をして私の菩提を弔ってくれ。
そしてお前自身が覚る為の道をしっかりと突き進んでくれよ。」とお示しになったのです。
これは現代でいう平和主義というものとは大きく次元を異にします。
当時は敵討ちは美徳でありました。
ましてや夜討ちという卑怯な手でやられていますから、敵討ちをしない方がおかしいのです。
卑怯者と言われるのです。
その時代に、しかも自分が普段から憎む相手に襲われた。
そんな時に「仇を討つな」と仰ったということはとてつもなくすごいことなのです。
ただ、遺言は尊いですが、それを言われる勢至丸さまにとりましてはさぞおつらかったことでしょう。
「この恨みを忘れまい!臥薪嘗胆。いずれ大きくなったら必ず私の仇を討ってくれよ」と言われる方がよっぽど気が楽だったと思います。
しかし時国公はそのまま亡くなりますから、その遺言を守らなくてはなりません。
まだ数えで9歳、今でいう小学校2年生という幼さです。
親を目の前で殺される、そのむごたらしい場面はいつまでも脳裏から離れることはありませんでした。
『マンガ 法然上人伝』
阿川文正・監修
佐山哲郎・脚本
川本コオ・漫画