2020年5月31日日曜日

聖光上人のご生涯⑤(康慶の屋敷にて)

ある時、明星寺五重の塔再建の計画が持ち上がり、

衆徒からその勧進に聖光上人をとの声が挙がりました。

かつて明星寺には五重の塔があったのですが、

その当時はすでに廃絶して基礎の石だけが残っていたのだそうです。

「勧進」というのはいわゆる寄付集めですが、

勧進の役には学徳兼備の優れた方が選ばれます。

人望や信用のない人が集めても集まりませんよね。

その点からも聖光上人は、明星寺を代表する

名僧だったということがわかります。

聖光上人の勧進により、3年で五重塔が復興しました。

五重塔は完成しても肝心の仏さまがおられなくては何にもなりません。

そこで聖光上人は京都に出向いて、有名な仏師である

康慶に仏像の造立を依頼します。

康慶は運慶の父親です。

興福寺に祀られる不空羂索観音像や四天王などは康慶の作です。

聖光上人は仏像が出来るまでの数ヶ月を康慶の屋敷の離れで待ちます。

時代の違いですね。

のんびりしているというよりも、当時九州から京都まで出る

というのは大変さを物語ります。

この康慶の屋敷跡には現在聖光上人ゆかりの寺として、

浄土宗の聖光寺というお寺が建っています。

四条寺町を少し下がったとてもにぎやかな場所です。

康慶の屋敷に居りますと、毎日多くの人々が

東山に向かって歩く姿を多く目にします。

何事かと尋ねてみますと、

「今東山の吉水というところで、法然上人がお念仏の教えを説いておられる、

それを聞きに行く人々の群れですよ。」との応えです。

「あの有名な法然上人が来ておられるのか。

法然上人はとても優秀であったと聞く。

それほど優秀な方なのに比叡山を下りて

念仏一筋の教えを説いているというではないか。

なぜ比叡山を下りたのであろうか。

もしや死の恐怖から逃れる術をご存じかも知れない」

という思いもあったのかもしれません。

そして聖光上人ご自身も優等生ですから

「しかし法然上人といえども知識の上では私の方が上であろう」

といういささか高慢な思いを両面に持ちつつ、

法然上人のおられる吉水の庵、今の知恩院の地を訪ねます。

『聖光上人 その生涯と教え』
藤堂俊章


3月後半のことば

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