千葉氏の帰依を受けて良忠上人は
下総(しもうさ)の国で布教と著作に励んでおられました。
そこに一人の天台の学僧が良忠上人を訪ねてきました。
血を吐く病といいますから、今で言う結核かもしれません。
もう余命いくばくもない、そういう状況です。
この学僧、名前は在阿(ざいあ)とおっしゃいます。
今まで天台を学んできたが、
胸を病んでもう自分には時間がないとさとります。
「もう間に合わない」と念仏のみ教えを求めた。
在阿(ざいあ)さまは聖光上人の
『末代念仏授手印』(まつだいねんぶつじゅしゅいん)
を手に入れて読みました。
しかし、今まで自ら覚りを目指して修行してこられたので、
「仏に救われる」浄土宗のみ教えに納得できないところが多い。
「ただ阿弥陀さまの本願を信じて南無阿弥陀仏と称える」という
み教えを素直に信じることができない。
そこで在阿(ざいあ)さまは病の体で法然上人のお弟子を訪ねて歩きました。
まだ直接教えを聞いた方が生き残っておられたのです。
静岡に禅勝房(ぜんしょうぼう)さまという
法然上人のお弟子の中でもひたむきな念仏者として
尊敬を集めた方がおられました。
在阿(ざいあ)さまはその禅勝房(ぜんしょうぼう)さまを訪ねたけれども、
「私は難しい学問はわかりません。
私はただ南無阿弥陀仏と称えれば救われるというみ教えを
法然上人からお聞きして、それを人々にお伝えし、
自ら実践しているだけです」
とおっしゃいます。
ありがたいですね。
しかし在阿(ざいあ)さまはそれでは納得できない。
そして時間がない。
禅勝房(ぜんしょうぼう)さまから相模(さがみ)、
今の藤沢市の石川というところにおられる
道遍(どうへん)さまを紹介されます。
道遍さまも
「私にはあなたのご質問にお答えする学識はありません。」
とおっしゃる。
そしてまた道遍さまから、聖光上人の跡取りの
良忠上人が下総の福岡というところにおられると聞いて、
訪ねてきたというのです。
その数々の質問に対して良忠上人が答えた記録が『決答綬手印疑問鈔』です。
良忠上人59歳のときのことでした。
その後良忠上人は鎌倉へと向かいます。
『禅勝房』
梶村昇