2020年5月28日木曜日

聖光上人のご生涯⑧(往生院での別時念仏・そしてご往生)

8年に渡って法然上人の元で過ごされた聖光上人は、

43歳にして九州へ帰郷されます。

法然上人から「私が知っていることはすべて伝えた」と認められ、

九州での布教を志されたのです。

九州へ帰られた聖光上人は、いくつものお寺を建て、

念仏の布教に努められます。

その内の一つが久留米の善導寺です。

浄土宗の大本山の一つです。

浄土宗は総本山が知恩院、その下に大本山が全国に七ヵ寺あります。

東から東京芝の増上寺鎌倉光明寺、長野の善光寺大本願

黒谷金戒光明寺百萬遍知恩寺清浄華院、そして久留米の善導寺です。

聖光上人は善導寺の他、吉祥寺、博多善導寺、正定寺、光明寺、

本誓寺、極楽寺、安養寺、天福寺、無量寿院、等多くの寺院を開かれました。

その数は四十八ヵ寺に及ぶといわれています。

安貞2年(1228)聖光上人67歳、法然上人の十七回忌の年のことです。

九州へ帰って今日の都の現状を聞き伝えるによると、

どうも法然上人の教えと違った教えが跋扈しているようだ。

これではダメだと熊本県白川河の畔、往生院にて、

20数名の弟子や信者達と共に48日間の別時念仏を行います。

往生院は熊本地震(2016)で大きな被害があり、

その翌年私は仲間と共に災害見舞いに参りました。

本堂も傷み、境内の墓石の多くが倒壊し、揺れの大きさを物語ります。

往生院は聖光上人の時代は白川河の畔にありましたが、

江戸時代に現在の地へ移転されました。

元の地は「旧往生院」として碑が建てられています。

別時とは普段の念仏と違い、

「時と場所を定めて集中的にお念仏を称える」ことです。

聖光上人は往生院に於いて、48日間毎日、

ずっとお念仏をお称えになりました。

その最後の3日間で法然上人から口伝えにて聞いた教えを弟子達に伝えられます。

そして末代、つまり後々の人々に正しい教えが伝わるように、

末代念仏授手印』を書いて、その最後には

自らの両手の手印を押して証しとされます。

「この書物の内容が嘘偽りであるならば、

私は両手が爛れても構いません!!」

との決意を表明されたのが『末代念仏授手印』です。

「末代念仏授手印」とは

「末代の者を救う念仏の教えを間違いなく伝えるぞ」

という意味です。

昔、師匠から弟子に教えを伝える時に、

師匠の左手と弟子の右手をしっかりと合わせて、

「正しく伝えたぞ」と確認しました。

これを「授手印」と申します。

聖光上人も八女天福寺にて弟子の良忠上人に授手印でもって、

しっかと教えを伝えられました。

そして良忠上人は浄土宗の第三祖となられます。

聖光上人は浄土宗の第二祖として、

念仏のみ教えを広げられた先達です。

法然上人との出会いから一生涯、

欠かさず念仏を称えられた行の人が聖光上人です。

日々六万辺の念仏を行じ、良忠上人という後継者に

しっかりと教えを伝授して安心なさったのでしょう。

良忠上人が故郷へ戻られた翌年、嘉禎四年(1238)閏2月29日

77歳にてご往生なさいました。


『鎮西上人讃仰』
望月信享
椎尾辨匡

参考文献
『聖光上人傳』了慧道光
『浄土仏教の思想 弁長 隆寬』梶村昇・福原隆善
『聖光と良忠』梶村昇
『聖光上人-その生涯と教え-』藤堂俊章

仏説阿弥陀経⑪

 (本文) 四辺(しへん)に階道(かいどう)あり。 金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・ 玻璃(はり)をもって合成(ごうじょう)せり。 上(ほとり)に楼閣(ろうかく)有り。 また金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・ 玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・ 赤珠(しゃくしゅ)・碼碯(め...