(本文)
この人、苦に逼(せ)められて、
念仏するに遑(いとま)あらず。
善友(ぜんぬ)告げていわく。
汝(なんじ)もし念ずること能(あた)わずんば、
まさに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と
称(しょう)すべしと。
(現代語訳)
しかし、その愚かな人は苦しみに苛まれて
仏に想いを馳せる余裕すらない。
そこでその仏教へと正しく導く人(善知識)が、
『汝、仏に想いを馳せることができないなら、
無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と称えなさい』
と告げる。
善知識に、極楽浄土や阿弥陀仏へ
想いを馳せる瞑想を勧められます。
しかし臨終を迎えた愚かな人は、
なかなか心を集中することができません。
なぜなら、臨終を目の前にして、身体と心の
苦痛が押し寄せてきているからです。
善知識は「苦しいのですね。
苦しさで極楽浄土や阿弥陀仏に想いを向けようと
思ってもできないのですね。
それならば、それならば無量寿仏(むりょうじゅぶつ)と
称えなさい」と勧めるのです。
「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」というのは、
阿弥陀仏のことです。
つまりここで「南無阿弥陀仏」のお念仏を
お勧めになったのです。