2021年3月24日水曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ④ 悪人往生に対する疑問

(本文)


先(ま)ず牽(ひ)くの義、理に於いて如何ぞ。


又曠劫(こうごう)より已来(このかた)、


備(つぶさ)に諸(もろもろ)の行を造りて、


有漏(うろ)の法は三界(さんがい)に


繋属(けぞく)せり。


但(ただ)十念阿弥陀仏を念じたてまつるを以て


便(すなわ)ち三界を出(い)ず。


繋業(けごう)の義、復(また)


云何(いかん)せんと欲する。




(現代語訳)


では「重い方に傾く」という道理はどうなりますか?


また人は遙か昔から数々の行いをして、


その煩悩の身はみな迷いの世界に縛り付けられています。


それがたった十遍の念仏で、


迷いの世界から抜け出せるといいます。


それならば、悪業によって


苦しみ迷いの世界に縛り付けられるという理屈を


どう考えたらよいのでしょうか。






「一生悪の限りを尽くしてきた悪人が、


たった十遍の念仏で極楽へ往けるっていうのは


どう考えてもおかしいじゃないか。


『業道経(ごうどうきょう)』というお経には、


業(ごう)は秤のようなものであると記されている」


というのです。


業(ごう)は秤のようなもので、重い方に傾く。


普通に考えると、一生悪い行いをしてきた人の業の方が


重いはずである。


たった十遍の念仏の方が重いのは


おかしいのではないか、との疑問です。


とても真っ当な疑問だと思われます。


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