2021年3月15日月曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑬ 「どんな悪人でも救われる」とは? その一

浄土宗の教えは「誰もが救われる教え」です。


だからと言って、それなら「どんな悪いことをしてもいいのか?」


というと、そんなはずはありません。


しかしながら、法然上人の教えを聞いた人の中には


昔から「南無阿弥陀仏と称えればどんな者でも救われる」


という教えを誤解して捉える人がいました。


「どんな者でも救われるなら、


どんな悪いことをしてもいいじゃないか」ということです。


また「どんな悪人でも救われる」という教えが


多くの誤解を生みました。


今でも誤解する人は多いです。


「それはおかしいじゃないか」と。


普通に「どんな悪人でも救われる」と聞いたら、


「じゃあ麻原彰晃でも救われるのか?


宅間守でも救われるのか?」


と思ってしまうかもしれません。


でもそういう意味ではありません。


「どんな悪人でも」というのは


自分自身を指して「こんな悪人でも」


ということを意味します。


煩悩を断つこともできずに、


自分中心の我欲に囚われる悪人です。


それがこの私です。


この私が南無阿弥陀仏と称えることによって


阿弥陀さまに救われていく、という話なのです。


10月前半のことば

10月前半のことば 「我が心 鏡にうつるものならば          さぞや姿の 醜くかるらん」   社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しか...