2025年7月31日木曜日

8月前半のことば

8月前半のことば

「掃苔(そうたい)や 知恩のこころ よみがえる」  高浜虚子

   

 「掃苔」とは、お墓の苔を掃き清めること。お盆や命日などにお墓参りをして、墓石をきれいにしながら手を合わせる。そんな光景を、懐かしく思う方もおられるのではないでしょうか。

 高浜虚子は、この「掃苔」という行為の中に、「知恩」という言葉を響かせました。「知恩」とは、私たちが受けてきた数々のご恩を心に知ることを言います。親の恩、先祖の恩、友や師、社会の恩。ふだんは忘れがちなそれらの恩を、お墓の前で手を合わせるとき、自然と思い出すものです。

 お盆は、まさに「感謝」をあらわす季節でもあります。亡き人々のことを想い、語りかけ、ありがとうと伝える。お墓の苔を掃き清めるのは、ただ石をきれいにするためだけではありません。その行為を通して、自分がどれほど多くの人に支えられて今を生きているかを思い出し、「ご恩に報いる」気持ちをあらたにするのです。

 仏教では、「知恩」や「報恩(ほうおん)」という教えを大切にしています。与えられた恩をただ受け取るだけでなく、それに応えようとするこころ。その第一歩が、手を合わせ、苔を掃きながら亡き人を偲ぶことなのかもしれません。

 街の喧騒の中を歩いていると、つい過去を忘れて今と未来ばかりを追いかけてしまいます。しかし立ち止まって、こうして墓前に向かうとき、人はふと立ち返るのです。「自分は決して一人で生きてきたのではない」と。   

2025年7月14日月曜日

7月後半のことば

7月後半のことば

「阿弥陀さまは私の心の襞までお見通し」

 

 私たちは誰しも、人には隠したい弱さや醜さを抱えて生きています。そして自分でも気づかないような、ささやかな嫉妬や欲、臆病さやずるさもまた、心の奥に潜んでいるものです。そのことにふと気づき、自分が嫌になることもあるかもしれません。しかし一方で、そんな自分さえ忘れてしまうほどの小さな思いやりや、人知れず誰かを案じる気持ちも確かに息づいているのです。私たちはその光と影のはざまで揺れながら、日々を生きています。

 阿弥陀さまは、そのすべてをお見通しです。自分でも気づかぬ光と闇をも見抜いて、それでもなお「必ず救う」と誓われた仏さまです。そこにあるのは決して裁きの目ではなく、どこまでも見放さずに抱きとめようとする、限りない慈悲のまなざしです。そのまなざしは、私たちの弱ささえも否定せず、かえって救いの道へと導いてくださいます。

 人に隠したい心の闇も、気づかぬうちに芽生えた小さな善も、そのままをも見捨てずに救ってくださる阿弥陀さまがいてくださるのです。そして、その救いに応える道は難しい修行や努力ではなく、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることなのです。だからこそ、その身そのままで、南無阿弥陀仏と称えればよいのです。 

9月前半のことば

 9月前半のことば 「阿弥陀仏に 隔つ心はなけれども 蓋する桶に月は宿らず」   阿弥陀さまのお慈悲は、だれ一人としてもれなく注がれています。その根本には、「必ずあなたを極楽浄土へ迎え取る」という阿弥陀さまのお誓いがあります。極楽とは、苦しみや不安の尽きないこの世を越えた、安らぎ...