2025年12月31日水曜日

1月前半のことば「今年も南無阿弥陀仏」

 1月前半のことば

「今年も南無阿弥陀仏」


 明けましておめでとうございます。

 皆さまにとってこの一年が、平穏で、そして何よりも素晴らしい年となりますように。

 さて、誰もが素晴らしい一年を願うわけですが、これがなかなか難しい。人の願いといえば、たいてい欲望を充足することでしょう。あれが欲しい、これがしたい、今の不満を解消したい。そう願って努力し、目標を達成すれば、その瞬間は満たされる。ですが、どうにも長続きしません。一つ不満を解消すれば、またすぐに別の不足が顔を出す。頑張れば幸せになれるはずなのに、我々は不思議なことに、いつまで経っても本当の意味での満足や幸せにたどり着くことができないのです。

 なぜか。それは、我々の目標設定が、この「満たされない心の渇き」を生み出し続けているからです。仏教は、この「生きていくことのどうしようもなさ」を二千五百年前から深く見抜いていました。

そして、このどうしようもない「欲望のループ」からの脱出こそ、仏の願いでした。

 阿弥陀仏は、私たちが現世の小さな充足に振り回される必要がないよう、極楽浄土という「完全に満たされた世界」を築き、人生の最終目標として用意してくださったのです。

 この世の尽きない欲望ではなく、極楽浄土への往生を確かな目標として、この現世を生きるようにと阿弥陀仏は願われます。しかも、その手立ては極めて簡単です。阿弥陀仏は「ただ我が名を呼べよ。南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救う」と約束してくださっています。

 今年も、きっと様々な出来事が起こり、喜びもあれば、予期せぬ困難もあるでしょう。しかし、欲望を満たすためだけに汲々とするのではなく、阿弥陀仏の極楽浄土という大いなる目標を持ち、「南無阿弥陀仏」と声に出して、その大いなる願いに身を任せて過ごしてまいりましょう。

 この「南無阿弥陀仏」こそが、私たちにとっての真の羅針盤なのです。

2025年12月14日日曜日

12月後半のことば 自分の罪に気づいたら…

 12月後半のことば

「雪のうちに 仏の御名を称うれば 積もれる罪ぞ やがて消えぬる」     法然上人                

 しんしんと降る雪は、一粒はか弱くても、積もれば景色を一変させ、道さえ塞いでしまいます。私たちの心に積もる「罪」も、これに似ています。

 悪気はなくとも自分と他人を傷つける、妬みや見栄といった「煩悩の行い」を私たちは日常で繰り返します。まるで音もなく降る雪のように、一つ一つは些細でも、知らないうちに心の奥底に罪が積もり、やがて重い荷物となってしまうのです。

 法然上人は、煩悩をなくせない凡夫であると自覚され、自らの救いを求め続けて、お念仏のみ教えと出会われたのです。

 このご道詠の真意は、降り積もった雪が太陽で溶けるように、私たちが積んでしまった罪も、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることによって、たちどころに消え失せるという教えです。

 阿弥陀仏は、煩悩を捨てられない私たち凡夫を、お念仏一つで救うという誓願を立てられました。ですから、嫌でも積もる罪を恐れる必要はありません。自分の罪の重さを知ったならば、阿弥陀仏のお慈悲を信じて、お念仏を称えるのみです。ただこの身を阿弥陀仏にお任せしてお念仏を称え、この世をしっかりと生き抜いていくのです。

 この雪の季節、静かにお念仏とともに、心の雪を溶かしていきましょう。

2025年11月30日日曜日

12月前半のことば この世は無常とわかっていても…

 12月前半のことば

「露の世は 露の世ながら さりながら」 小林一茶


 仏教は「この世は無常である」と教えます。どんな命もいつかは終わり、どんな形もいつかは崩れる。理屈としては誰もが知っている真理です。しかし、それを心の底から受け入れることが、どれほど難しいか。最愛の人を亡くした時、「無常だから仕方ない」と頭ではわかっても、涙は止まりません。言葉は空しく響き、心は納得しません。

 小林一茶は、長い貧乏暮らしの末にようやく家庭を持ち、子どもに恵まれました。けれどもその子は、生まれて間もなく亡くなってしまいます。悲しみの底に立ち、どうしようもない喪失の中で詠んだのが、「露の世は 露の世ながら さりながら」という句でした。この世は露のようにはかない、それはわかっている。けれども、けれども……と、言葉が続かない。理(ことわり)と情(こころ)のあいだで裂かれるような一茶の呻(うめ)きが、この十七音の中にあります。

 仏教では、こうしたどうしようもなさを抱えた存在を「凡夫(ぼんぶ)」といいます。無常を知りながら、受け入れきれず、涙する者。しかし、まさにその「凡夫」こそが、阿弥陀仏の救いの対象なのです。無常を悟りきった聖者ではなく、悟れずに泣く者こそが、救われる。

 一茶の句は、人間の弱さを突き放さず、そのまま見つめています。受け入れられない心を、そのままの形で詠みとどめた一句。そこに、凡夫として生きるほかない私たちの姿が、浮かび上がってくるのです。

2025年11月14日金曜日

11月後半のことば 念仏の念は「思うこと」ではないの?

 11月後半のことば

念仏の「念」は声


 「念」とは、ふつう「思うこと」を意味します。だから「念仏」とは「仏を思うこと」と考えるのが自然でしょう。実際、仏教の修行の中には、瞑想によって仏の姿や浄土の光景を心に思い描く行があります。静かに座り、心を澄ませ、阿弥陀仏の慈悲の相を目の前に映し出す。それも立派な「念仏」です。けれども、この心に仏を思い浮かべる行は、言うほどやさしいものではありません。心はすぐに散ってしまう。雑念が入り込み、仏どころか今日の夕飯の心配にまで及んでしまう。人間とはそういう存在です。

 唐の善導大師は、瞑想の境地に立った上で、「阿弥陀仏の本願にある念仏とは、声に出してその名を称えることだ」と説かれました。つまり、「南無阿弥陀仏」と口に出すことが、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くための道なのです。日本の法然上人はこの教えを受け継ぎ、「念は声である」と明言しました。心は不安定でままならないものです。声に出すことは、容易く確かでまっすぐです。声は空気を震わせ、自分の耳に返ってくる。すると、仏を称える声が、自分を包み、導くように感じられもします。

 極楽浄土への道は、特別な才能や深い瞑想を必要としません。ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよい。思うだけでは届かないところに、声は届く。こんなにありがたいことがあるでしょうか。声は、誰にでも与えられた往生浄土のための行なのです。

2025年10月31日金曜日

11月前半のことば「凡夫にとっての善は所詮自分のためになること」

 

11月前半のことば

凡夫にとっての善は所詮自分のためになること

 人はだれでも、善い人でありたいと思っています。けれども、心の奥をのぞいてみると、「自分だけが得したい」「あいつより上にいたい」といった思いが顔を出します。

 善いことをしても、「人に感謝されたい」「少しでも認められたい」と、どこかで打算が働いているものです。そんな自分に気づくと、少し情けなくなりますが、それが「凡夫(ぼんぶ)」の正直な姿なのでしょう。


 仏教には、「因果の道理」が説かれています。善い因を積む者は楽の果を受け、悪い因を積む者は苦の果を受けます。

 しかし、煩悩に満ちた私たちが、まことの善をなすことは容易ではありません。どうしても、自分を中心にしか物事を見られないのです。


 阿弥陀仏(あみだぶつ)は、そんな私たちを見捨てることができず、「善をなせぬ者をどうすれば救えるか」と、五劫(ごこう)という長い時間、思い悩まれました。

 そして、『南無阿弥陀仏』という名号の中に、ご自身の修めたすべての功徳(くどく)を込めてくださいました。


 私たちは、もはや自分の力に頼らずとも、『南無阿弥陀仏』と称えることで、阿弥陀仏の功徳に結ばれ、「極楽(ごくらく)へ生まれる」という楽の果をいただくことができます。

 阿弥陀仏は、因果の道理を曲げずに、凡夫のための道を開いてくださいました。

 人の弱さを知り抜いた上で、それでもなお救おうとするお慈悲の深さ。そのことを思うと、ただ『南無阿弥陀仏』**と称えたくなりませんか。

2025年10月14日火曜日

10月後半のことば 否定的な思考が苦しみを引き寄せる

 10月後半のことば

「苦しみというのは、牛が引く車のように、否定的な思考に続いてやってくる」ダンマパダ


 お釈迦さまがお伝えくださった仏教の教えは、「苦しみ」から逃れ出るためにあります。誰にも避けられない「老いや病、死」といった大きな苦しみだけでなく、私たちの多くは、もっと日常的な「思い通りにならないことへの心のざわつき」に悩んでいます。

 もちろん、地震や事故のような、避けられない外部の出来事からくる苦しみもあります。これらをすぐに「受け入れろ」と言われても難しいでしょう。しかし、私たちが日々感じているストレスやイライラの多くは、実は自分の心のあり方が作り出しているとしたらどうでしょうか。この小さな苦しみの正体に対処できるようになれば、やがて来るかもしれない大きな苦しみさえも乗り越える力が備わるかもしれません。

 仏教では、「苦しみ」は、「否定的な心」、つまり「思い通りにならないことを、強引に自分の都合の良いようにしようとする自己中心的な心」に必ずついてくると説かれます。これは、牛が引く車のように、「心(牛)」の後を「苦しみ(車)」が必ず追ってくる関係だとたとえられています。

 たとえば、家族やパートナーが自分の期待通りに動いてくれないとき。「なぜわかってくれないんだ」「こうすべきだ」と、相手をコントロールしようと腹を立てる。これが「自己中心的な心(牛)」です。その結果、イライラが募り、関係が悪化し、孤独感や怒り(苦しみ=車)に苛まれます。また、仕事で正当に評価されなかったと感じたとき。「自分だけが損だ」「もっと認められるべきだ」と、現状を受け入れず、自分の欲望を満たそうと焦り、不満を膨らませる。これも「自己中心的な心(牛)」です。その結果、自己嫌悪や嫉妬心に心が焼かれ、満たされない気持ち(苦しみ=車)に苦しむのです。

 仏教の教えは、この「心の牛」に気づくように促します。「今、自分の心はどんな状態か」「どんな感情が湧いているか」と、良い悪いと判断せず、ただ静かに観察する意識を持つこと。これこそが、苦しみの連鎖を断ち切るための最初の一歩です。心のあり方一つで、私たちの世界は大きく変わります。苦しみの車が動き出す前に、自分の心というハンドルを正しく握り直す意識を持つことが、穏やかな日常への道を開いてくれるでしょう。

2025年9月30日火曜日

10月前半のことば

10月前半のことば

「我が心 鏡にうつるものならば 

        さぞや姿の 醜くかるらん」


 社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しかし、どれほど外形を飾っても、心の奥底まで磨き澄ますことはできません。人は皆、煩悩という煤煙を胸に宿し、それはやがて表情や言葉の端々ににじみ出るのです。

 たとえば、同僚の昇進に「おめでとう」と言いつつ、胸中に嫉妬の餓鬼を飼っている自分。会議で相手の失言を逃さず、心中で地獄の鬼のごとく打ち据える自分。混雑した電車で苛立ち、怒りの炎を燃やしながら、隣人を軽蔑する自分。こうした心の断片をもし鏡が映し出すならば、そこに現れるのは凛々しい姿ではなく、地獄道に堕ちた鬼面か、餓鬼道にさまよう影でありましょう。

 「わが心 鏡にうつるものならば さぞや姿の 醜くかるらん」。この道詠は、顔を映す硝子の鏡を、心を照らす仏の智慧の鏡へと変えてしまいます。澄んだ池に月が宿るように、心が静かであれば、その鏡には清らかな光が映ります。しかし、煩悩の波にかき乱されれば、月影はたちまち濁り、ただの闇と化してしまいます。

 人は他者の眼を恐れて外形を繕いますが、仏の眼にはすでに心の奥底が映っています。恥じるべきは外見の乱れよりも、むしろ心の濁りではないでしょうか。仏の慈悲は、濁りを抱えた私たちにも等しく注がれています。だからこそ、日々の一瞬に、自らの心を省みる勇気を持ちたいものです。 

1月前半のことば「今年も南無阿弥陀仏」

 1月前半のことば 「今年も南無阿弥陀仏」   明けましておめでとうございます。  皆さまにとってこの一年が、平穏で、そして何よりも素晴らしい年となりますように。  さて、誰もが素晴らしい一年を願うわけですが、これがなかなか難しい。人の願いといえば、たいてい欲望を充足することでし...