2025年5月14日水曜日

5月後半のことば

 5月後半のことば

「悲しさは愛しさである」 


 「悲しさは愛しさである」——この言葉は、大切な人を亡くした遺族の方から教えていただいたものです。胸が締めつけられるような喪失の痛みは、実のところ、その人をどれほど大切に想っていたかという深い愛しさの証なのだと気づかされました。

 「悲しい」という言葉の語源にあたる「かなし」について、白川静氏の『字訓』を開いてみました。そこにはこう記されています。「どうしようもないような切ない感情をいう。いとおしむ気持ちが極度に達した状態から、悲しむ気持となる。(中略)かなしという感情は繊細なものであるから、これに当たる適当な字がなく、愛・哀・悲などが用いられる」と。つまり、「悲しさ」とは本来、深く人をいとおしむ感情の延長にあるのです。

 上智大学の岡知史先生は、遺族が語る悲しみを「愛のかたち」として受けとめることの大切さを説いておられます。岡先生は、遺された人々の言葉に、単なる「記録」や「データ」としてではなく、そこに込められた愛情の深みに目を向けられます。亡き人を想う声には、その人を今も心の中で生き続けさせようとする切実な願いが宿っています。岡先生は、そうした「愛の言葉」としての悲しみを、丁寧にすくい上げておられるのです。

 全国自死遺族連絡協議会の田中幸子さんも、ご自身の経験から「悲しみは愛しさとともにある」と繰り返し語っておられます。悲しみは、無理に消そうとすればするほど募るもの。なぜなら、それは今も生きている愛のかたちだからです。「悲しみは病気ではありません。だから薬で治すものではありません」と、田中さんはおっしゃるのです。

 自死遺族の手記集『会いたい』(明石書房・2012年)には、夫を亡くした方のこんな言葉が記されています。「私から悲しみや愛しさを消そうとしないでください。愛する人を失った悲しみは、故人への愛しさだと感じています」。

 悲しさとは、いまも変わらず誰かを愛しているということ。そのことを、これからも忘れずにいたいと思います。

2025年4月30日水曜日

5月前半のことば

 5月前半のことば

「まずはやる」 井上智之


 平成27年に極楽浄土へ往生された京都北山清水寺の一代、井上智之上人がよくおっしゃっていた言葉があります。

 「まずはやる」——この短く力強い言葉には、日々の暮らしを新たに開く鍵が隠されています。

 私たちは誰しも心の中で何度となく、「こんなことをしたら、笑われるのではないか」「失敗したら恥ずかしいからやめておこう」と思った経験があるでしょう。他者の目を気にして、自らの行動を抑え込んでしまう。そのような心の癖は、前途有望な若い人たちにもしばしば見られます。経験や理解の不足が、行動への一歩を躊躇させる要因となるのです。

 そんな彼らに、井上上人は静かに、しかし揺るぎない声で語りかけておられました。「まずはやる」と。

 仏教の教えによれば、私たちの未来は自分自身の「行い」と、それを取り巻く「縁」によって構築されるものです。行いが変われば、縁もまた変わります。そして、良い縁に囲まれるためには、何よりもまず自らの行いを変えていかなければならないのです。この理を裏付けるものとして、井上上人の言葉は非常に説得力を持つものとなっています。

 確かに、目の前の結果が期待外れに見えることもあるでしょう。しかしながら、善き行いを積み重ねれば、未来は間違いなく善き方向へと動いていきます。たとえ今、その結果がすぐに現れなくても、あきらめず行動を続けること、それが何よりも重要です。

 恐れや迷いを抱えながらも、勇気を持って最初の一歩を踏み出す。その一歩こそが、私たちの歩む道筋を新たに切り拓いてくれるのです。そしてそこから生まれる経験や学びこそが、次なる一歩を後押しし、私たちの人生を豊穣たらしめるのです。

 井上上人の言葉を思い起こしながら、「まずはやる」——その覚悟が、私たちの人生をより実りあるものへと導いてくれるのではないでしょうか。

2025年4月14日月曜日

4月後半のことば

4月後半のことば

「念死念仏」


 この言葉は、浄土宗の第二祖・聖光上人のお言葉です。

 「常に死を見据え、念仏を称えよ」という教えを説かれたものです。人は誰しも、死がいつ訪れるかわからないことを知っています。それにもかかわらず、死が「今この瞬間」に訪れる可能性を意識することは少なく、あたかも明日や来週、来年が当然のように続くものと思いながら日々を過ごしてはいないでしょうか。

 聖光上人が32歳の時、異母弟の三明房様とお話しされている最中、突然三明房様が苦しみ始め意識を失われました。お伝記によればそのまま亡くなられたという説や、数時間後に息を吹き返されたという説もあります。いずれにせよ、元気だった人に死が突然訪れるという現実を、目の当たりにされた出来事でした。

 「南無阿弥陀仏」の念仏は、称えれば無病息災になるというものではありません。それは、念仏を称えるその瞬間から極楽浄土への往生が護られ、臨終の際には阿弥陀仏が直接迎えに来られ、極楽浄土へ導いていただけるという教えです。この臨終の時を「いつか」と考えて念仏を後回しにしてはならないのです。たとえ今この瞬間に死が訪れたとしても、極楽浄土へ迎え取ってください!と、常いつも念仏を称えることが大切なのです。 

聖光上人は、「出(いず)る息、入る息を待たず、入る息、出る息を待たず、助け給え阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と常に口にされていたと伝えられています。

 現代は何かと忙しい日々が続きますが、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えながら、日々の営みに取り組んでいきましょう。 

2025年3月29日土曜日

4月前半のことば

 4月前半のことば

「受け難き人身を受けて」

 この言葉は、浄土宗の開祖・法然上人の御法語「一紙小消息」の一節です。私たちがこうして人間として生を受けていることの尊さを改めて感じさせられます。

 人として生まれることは、決して当たり前のことではありません。生物学的に見ても、1億から4億の精子がたった一つの卵子と結びつき、命が生まれるという奇跡を考えれば、こうして存在すること自体が不思議でなりません。

 さらに、自分の両親がどのように出会い、そこから自分が生まれたのかを思い巡らすとき、さらには先祖代々の歴史に思いを馳せると、「たまたま」という言葉では片付けられない不思議さを実感せずにはいられません。

 とはいえ、「それに感謝しなさい」と一概に言われても、受け入れられない人もいるでしょう。生まれた環境や育った環境が過酷である場合、「こんな世に生まれたくなかった」「誰が産んでくれと言った?」と親を恨む人がいるのも無理はありません。不思議だと言われても、それをありがたいと思うかどうかは各人の心のありよう次第です。

 仏教が説く輪廻の教えは、生物学的な遺伝や社会的な関係を超えた深遠なものです。仏典には、輪廻の苦しみの中で相当な善行を積まなければ人間に生まれることは叶わないと説かれています。私たちが人として生を受けていること自体が、過去世での精進の結果だと言えるのです。

 輪廻の中で少しずつ善行を積み、精進の成果として人間として生を得たとき、仏教との縁が結ばれ、お念仏に出会えたのであれば、それはなんと尊いことでしょう。人間として生まれ、本願と出会ったことを悦び、お念仏を唱えて極楽浄土を目指していきたいものです。

2025年3月14日金曜日

3月後半のことば

 3月後半のことば

「先立たば 遅るる人を待ちやせん 

        蓮の台の半ば残して」

  

 小学校低学年の頃、母と一緒に最寄り駅から電車に乗りました。朝のラッシュアワーでホームは大勢の人々でごった返していました。その時、母が「もしはぐれてしまったら、〇〇駅の改札口に行きなさい。お母さんも必ずそこに行くから」と言ってくれました。

 案の定、すし詰めの車内で母とはぐれてしまいましたが、あらかじめ待ち合わせ場所が決まっていたので、全く不安は感じませんでした。そして、母とは無事にその場所で再会することができました。

 阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土へ迎え取る」と誓われています。これを「本願」といい、仏の確かな約束です。

 人生では、生き別れや死に別れといった悲しい出来事が避けられません。しかし、本願を信じて南無阿弥陀仏と称える者同士は、必ず極楽浄土で再会することができるのです。このことを「一蓮托生(いちれんたくしょう)」と呼びます。

 「先立たば 遅るる人を 待ちやせん 蓮(はな)の台(うてな)の 半ば残して」 この歌の詠み人は不明ですが、念仏信者が詠んだものとされています。「どちらが先に極楽浄土へ往生するかはわからないけれど、もし私が先に行くならば、遅れてくるあなたのために半分の席を空けてお待ちしています」という気持ちが込められています。

 悲しい別れが訪れても、念仏を称える者は、小学生の頃の私が母と再会できたように、必ず極楽浄土で再会できるのです。

2025年2月28日金曜日

3月前半のことば

 3月前半のことば

「只申せ 重き誓いのしるしには 人えらびなく 必得往生」

  現在、多くの国で国民の「分断」が問題となっています。人種、宗教、イデオロギー、所得格差、教育格差など、立場や考え方の違いを受け入れることが難しくなっているのです。お互いが自分の正義を絶対だと思い込み、相手を非難し憎んでしまいます。

 浄土宗の高祖善導大師は、私たちは自己中心的な行動によって自分や他人を傷つける凡夫であると説かれました。「私」の家族、家、会社、母校、国と、すべてを「私の」という枠で捉え、その中を自分の思い通りにしようとします。

 しかし、私は自分の体さえ思い通りにできません。ましてや他人を思い通りにすることなどできるはずがありません。

 阿弥陀仏には、凡夫のような自己中心的な枠はありません。阿弥陀仏は、すべての者を救うために極楽浄土を建立してくださいました。そして、「難しいことができなくとも、私の名前を呼ぶことならできるでしょう。我が名を呼ぶ者を必ず極楽浄土へ迎え取る」と誓われました。これを「本願」といいます。

 「名前を呼べ」とおっしゃるので、私たちはただ阿弥陀仏の願いに応えて「南無阿弥陀仏」と称えればよいのです。

 法然上人も「阿弥陀仏の本願は、平等の慈悲によって起こされたものだから、決して人を分け隔てたり嫌うことはありません」とおっしゃっています。

 ただ極楽浄土へ行きたいと願って「南無阿弥陀仏」と称えればよいのです。

2025年2月14日金曜日

2月後半のことば

 2月後半のことば

「順風満帆な人に仏教は不要」 佐々木閑氏


 人生が順調で悩みや苦しみが少ないときには、仏教の教えは必要とされないのかもしれません。しかし、人生は常に順風満帆とは限りません。例えば、長年連れ添った配偶者が病気になったとき、その看病や不安をどう乗り越えるかは容易ではありません。また、退職後に自分のアイデンティティや生きがいを見失い、孤独感に苛まれることもあるでしょう。

 そのような時こそ、仏教の教えが支えとなります。今を謳歌している時に楽しかったことが、辛い出来事によって無意味に感じられたり、思い出したくもなくなることがあります。例えば、子どもたちとの楽しい思い出が、彼らの独立や家庭の問題で色あせて感じられることがあります。成長や進歩といった言葉が遠く感じられる瞬間もあるでしょう。

 仏教は、苦しみの根源を探り、それを乗り越える智慧を与えてくれます。人生の波風が立つ時、私たちは自己を見つめ直し、自分の立ち位置を再考する必要があります。仏教の教えは、そのための指針となります。その時には、順調な時には気づかなかった身近にある喜びや、心の安らぎを見出すことができるのです。毎日の小さな幸せに気付くことができたり、心の平穏を取り戻すことができれば、どれほど有り難いことでしょう。


5月後半のことば

 5月後半のことば 「悲しさは愛しさである」    「悲しさは愛しさである」——この言葉は、大切な人を亡くした遺族の方から教えていただいたものです。胸が締めつけられるような喪失の痛みは、実のところ、その人をどれほど大切に想っていたかという深い愛しさの証なのだと気づかされました。 ...