2025年8月14日木曜日

8月後半のことば

 8月後半のことば

「生まれる前から忘れん坊」

 人はこの世に生まれる前から、すでに忘却を背負っているのだと仏教は説きます。それを「隔生即忘(かくしょうそくもう)」といいます。前世でどのような過ちを犯し、どんな願いを立てたのかさえ忘れてしまい、そしてまた同じような失敗を繰り返しては悔い、苦しみ、やがて命尽きてはまた生まれ変わる。それが私たちの姿です。

 戦後80年という時を経た今も、人は賢いようでいて、何度も同じところでつまずきます。そして「二度と戦争を繰り返さない」と誓ったはずの思いも、やがて薄れ、欲や争いの心に揺らぐ危険をはらんでいます。しかしそれでもなお、私たちは平和と幸せを願い、生きています。ただ、その願いのかなえ方をいつも見誤ってしまうのです。

 そんな私が今、こうして仏の教えに出会えたことは、大きなご縁です。これまで欲望のままに生き、仏の教えをないがしろにしてきた自分を省みて、今日からは念仏を称えて生きてみたいと思います。

 生まれる前から忘れん坊である私たちだからこそ、忘れてはならないことがあります。それは、阿弥陀仏が、争いを繰り返してきた私たちをも必ず救おうと願ってくださっているということです。この気づきによって、南無阿弥陀仏と念仏を称えるとき、同じ失敗を重ねるばかりの人生でも、ようやく一歩先へ進む力が湧いてくることでしょう。

2025年7月31日木曜日

8月前半のことば

8月前半のことば

「掃苔(そうたい)や 知恩のこころ よみがえる」  高浜虚子

   

 「掃苔」とは、お墓の苔を掃き清めること。お盆や命日などにお墓参りをして、墓石をきれいにしながら手を合わせる。そんな光景を、懐かしく思う方もおられるのではないでしょうか。

 高浜虚子は、この「掃苔」という行為の中に、「知恩」という言葉を響かせました。「知恩」とは、私たちが受けてきた数々のご恩を心に知ることを言います。親の恩、先祖の恩、友や師、社会の恩。ふだんは忘れがちなそれらの恩を、お墓の前で手を合わせるとき、自然と思い出すものです。

 お盆は、まさに「感謝」をあらわす季節でもあります。亡き人々のことを想い、語りかけ、ありがとうと伝える。お墓の苔を掃き清めるのは、ただ石をきれいにするためだけではありません。その行為を通して、自分がどれほど多くの人に支えられて今を生きているかを思い出し、「ご恩に報いる」気持ちをあらたにするのです。

 仏教では、「知恩」や「報恩(ほうおん)」という教えを大切にしています。与えられた恩をただ受け取るだけでなく、それに応えようとするこころ。その第一歩が、手を合わせ、苔を掃きながら亡き人を偲ぶことなのかもしれません。

 街の喧騒の中を歩いていると、つい過去を忘れて今と未来ばかりを追いかけてしまいます。しかし立ち止まって、こうして墓前に向かうとき、人はふと立ち返るのです。「自分は決して一人で生きてきたのではない」と。   

2025年7月14日月曜日

7月後半のことば

7月後半のことば

「阿弥陀さまは私の心の襞までお見通し」

 

 私たちは誰しも、人には隠したい弱さや醜さを抱えて生きています。そして自分でも気づかないような、ささやかな嫉妬や欲、臆病さやずるさもまた、心の奥に潜んでいるものです。そのことにふと気づき、自分が嫌になることもあるかもしれません。しかし一方で、そんな自分さえ忘れてしまうほどの小さな思いやりや、人知れず誰かを案じる気持ちも確かに息づいているのです。私たちはその光と影のはざまで揺れながら、日々を生きています。

 阿弥陀さまは、そのすべてをお見通しです。自分でも気づかぬ光と闇をも見抜いて、それでもなお「必ず救う」と誓われた仏さまです。そこにあるのは決して裁きの目ではなく、どこまでも見放さずに抱きとめようとする、限りない慈悲のまなざしです。そのまなざしは、私たちの弱ささえも否定せず、かえって救いの道へと導いてくださいます。

 人に隠したい心の闇も、気づかぬうちに芽生えた小さな善も、そのままをも見捨てずに救ってくださる阿弥陀さまがいてくださるのです。そして、その救いに応える道は難しい修行や努力ではなく、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることなのです。だからこそ、その身そのままで、南無阿弥陀仏と称えればよいのです。 

2025年6月30日月曜日

7月前半のことば

 7月前半のことば

「煩悩があるままに南無阿弥陀仏」

 

 私たちは皆、怒ったり、欲しがったり、迷ったり、不安になったりしながら生きています。「もっと立派な人間にならなくては」と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。欲を捨てようとしても、怒りがこみあげてくる。思い通りにいかない現実に、また心が乱れる。そのたびに、自分のことが嫌になってしまいます。「こんな自分では、仏さまに見放されるのではないか」と、ふと胸がふさがることもあるでしょう。

 けれども、阿弥陀さまは、そんな私たちをこそ救いたいと願われた仏さまです。「煩悩があるからこそ救わねばならない」と、はるかな昔にお誓いくださり、「ただ南無阿弥陀仏と称えよ、必ず救う」と約束してくださいました。

 ですから、「立派になってから」ではなく、「煩悩のままに」南無阿弥陀仏とお称えするのです。清らかな自分を差し出すのではなく、どうしようもないこの身のままで仏さまにすがるのです。

 阿弥陀さまの慈しみは、善い人にも、悪い人にも、すべてに等しく注がれています。この一声一声ごとのお念仏が、そのまま仏さまのお耳に届き、極楽へと導かれるのです。どうぞ安心して、今このままで、「南無阿弥陀仏」と声に出してみてください。阿弥陀さまは、すでにあなたのすぐそばにおられます。

2025年6月14日土曜日

6月後半のことば

 6月後半のことば

「極楽を求める教え 世間では非常識な教え」


 世間の常識というものは、えてして移ろいやすいものです。健康であればよい、若ければなおよい、人間関係が円満ならすべてうまくいく、死んだらおしまい…そうした価値観が、まるで疑いようのない真理のように語られます。しかしながら、それらはどれも手のひらにすくった水のように、気がつけば指の間からこぼれ落ちているのです。「無常」とは、まさにこの現実のことを指すのでしょう。

 八百五十年前、法然上人は「南無阿弥陀仏」と称える念仏の道を説かれました。命尽きた後に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを願うという、現代の感覚からすれば非現実的とも思える教えです。 しかしこの念仏は、世間のしがらみから逃げるのではなく、そこにとどまりながらもなお、救いを託すという態度に支えられています。

 極楽の存在など信じられない、と笑う人もいるでしょう。けれど、健康も若さも、親しい人も、いつかは去っていくものです。そのとき、何を心の支えにすればよいのでしょうか。私はむしろ、この「非常識」に心を動かされるのです。

 常識という名の風が吹き抜けたあとに、時に、本当に大切なものが残されていることもあるのです。

2025年5月30日金曜日

6月前半のことば

 6月前半のことば

「死は前よりしも来たたらず 

     かねて後ろに迫れり」 吉田兼好


 この『徒然草』の一節は、死の本質を静かに、しかし鋭く突いていると思いませんか。人は皆、死というものが自分に訪れることを知っています。にもかかわらず、それが「いつ」「どのように」やって来るかはわからぬまま、まるで明日も同じように日が昇り、何ごともなく時が過ぎると信じて生きてしまうものです。

 しかし兼好法師は、死は前方から姿を見せて近づいてくるのではない、むしろ、すでに背後にいて、そっと、確実に近づいているのだと語ります。私たちが気づかぬふりをしても、それは変わらず私たちの背中にぴたりと張りついているのです。だからこそ、今日という一日を疎かにしてはならないのです。

 仏教では、「無常」を意識することを教えられます。いのちは儚く、永遠ではありません。「明日ありと思う心」が、私たちの現在を曇らせ、今このときの輝きを見失わせるのです。 死を遠ざけるのではなく、その存在を背中に感じながら、むしろそれを力として、今日を丁寧に、誠実に生きる。兼好法師のことばは、死を嘆くものではなく、生の尊さを教えてくれる、貴い響きを持っています。


2025年5月14日水曜日

5月後半のことば

 5月後半のことば

「悲しさは愛しさである」 


 「悲しさは愛しさである」——この言葉は、大切な人を亡くした遺族の方から教えていただいたものです。胸が締めつけられるような喪失の痛みは、実のところ、その人をどれほど大切に想っていたかという深い愛しさの証なのだと気づかされました。

 「悲しい」という言葉の語源にあたる「かなし」について、白川静氏の『字訓』を開いてみました。そこにはこう記されています。「どうしようもないような切ない感情をいう。いとおしむ気持ちが極度に達した状態から、悲しむ気持となる。(中略)かなしという感情は繊細なものであるから、これに当たる適当な字がなく、愛・哀・悲などが用いられる」と。つまり、「悲しさ」とは本来、深く人をいとおしむ感情の延長にあるのです。

 上智大学の岡知史先生は、遺族が語る悲しみを「愛のかたち」として受けとめることの大切さを説いておられます。岡先生は、遺された人々の言葉に、単なる「記録」や「データ」としてではなく、そこに込められた愛情の深みに目を向けられます。亡き人を想う声には、その人を今も心の中で生き続けさせようとする切実な願いが宿っています。岡先生は、そうした「愛の言葉」としての悲しみを、丁寧にすくい上げておられるのです。

 全国自死遺族連絡協議会の田中幸子さんも、ご自身の経験から「悲しみは愛しさとともにある」と繰り返し語っておられます。悲しみは、無理に消そうとすればするほど募るもの。なぜなら、それは今も生きている愛のかたちだからです。「悲しみは病気ではありません。だから薬で治すものではありません」と、田中さんはおっしゃるのです。

 自死遺族の手記集『会いたい』(明石書房・2012年)には、夫を亡くした方のこんな言葉が記されています。「私から悲しみや愛しさを消そうとしないでください。愛する人を失った悲しみは、故人への愛しさだと感じています」。

 悲しさとは、いまも変わらず誰かを愛しているということ。そのことを、これからも忘れずにいたいと思います。

8月後半のことば

 8月後半のことば 「生まれる前から忘れん坊」   人はこの世に生まれる前から、すでに忘却を背負っているのだと仏教は説きます。それを「隔生即忘(かくしょうそくもう)」といいます。前世でどのような過ちを犯し、どんな願いを立てたのかさえ忘れてしまい、そしてまた同じような失敗を繰り返し...