2025年9月30日火曜日

10月前半のことば

10月前半のことば

「我が心 鏡にうつるものならば 

        さぞや姿の 醜くかるらん」


 社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しかし、どれほど外形を飾っても、心の奥底まで磨き澄ますことはできません。人は皆、煩悩という煤煙を胸に宿し、それはやがて表情や言葉の端々ににじみ出るのです。

 たとえば、同僚の昇進に「おめでとう」と言いつつ、胸中に嫉妬の餓鬼を飼っている自分。会議で相手の失言を逃さず、心中で地獄の鬼のごとく打ち据える自分。混雑した電車で苛立ち、怒りの炎を燃やしながら、隣人を軽蔑する自分。こうした心の断片をもし鏡が映し出すならば、そこに現れるのは凛々しい姿ではなく、地獄道に堕ちた鬼面か、餓鬼道にさまよう影でありましょう。

 「わが心 鏡にうつるものならば さぞや姿の 醜くかるらん」。この道詠は、顔を映す硝子の鏡を、心を照らす仏の智慧の鏡へと変えてしまいます。澄んだ池に月が宿るように、心が静かであれば、その鏡には清らかな光が映ります。しかし、煩悩の波にかき乱されれば、月影はたちまち濁り、ただの闇と化してしまいます。

 人は他者の眼を恐れて外形を繕いますが、仏の眼にはすでに心の奥底が映っています。恥じるべきは外見の乱れよりも、むしろ心の濁りではないでしょうか。仏の慈悲は、濁りを抱えた私たちにも等しく注がれています。だからこそ、日々の一瞬に、自らの心を省みる勇気を持ちたいものです。 

2025年9月14日日曜日

9月後半のことば

 9月後半のことば

「多様性 仏の目には 皆凡夫」

 近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその言葉を唱えさえすれば、すべて解決するかのように思っている風潮には、どこか空虚さを覚えます。人はどれほど違えど、結局は「凡夫」でしかないのです。

 凡夫とは、欲に振り回され、怒りに囚われ、迷いを重ねる私たちの姿をいいます。中国の善導大師は「九品皆凡」つまり「みんな凡夫である」とおっしゃいました。高い地位にある者も、学問に秀でた者も、あるいは日陰を歩む者も、みな同じく煩悩を抱えている。その煩悩を断ち切ることができない以上、互いの違いを誇ってみても大した意味はないのです。

 それでも阿弥陀仏は、そんな凡夫をこそ救うと誓われました。私たちは「違いを認め合おう」と声を上げます。しかし仏の慈悲はさらに徹底していて、「違いごと包み込んで救おう」と差し伸べてくださる。人の議論はしばしば分断を生みますが、仏のまなざしはその手前で私たちを丸ごと掬い取ってくださるのです。そのことに気づいたとき、多様性という言葉の軽さを越えて、人と人の違いは光に照らされる色彩のように見えてきます。その有り難さに、せめて頭を垂れたいものです。

2025年8月31日日曜日

9月前半のことば

 9月前半のことば

「阿弥陀仏に 隔つ心はなけれども 蓋する桶に月は宿らず」


 阿弥陀さまのお慈悲は、だれ一人としてもれなく注がれています。その根本には、「必ずあなたを極楽浄土へ迎え取る」という阿弥陀さまのお誓いがあります。極楽とは、苦しみや不安の尽きないこの世を越えた、安らぎの世界です。

 けれども、月が夜空に輝いていても、蓋をした桶には映らないように、阿弥陀さまの光も、私たちの心が閉じてしまえば届きません。

 「こんな自分は救われるはずがない」と疑う心。「まだ元気だから救いなんて先のこと」と思う心。「自分は立派に生きているから仏に頼る必要はない」と驕る心。こうした思いが、光を受けとめることを妨げる蓋となってしまうのです。

 阿弥陀さまが望んでおられるのは、立派な努力や大きな功績ではありません。ただ「救われたい」と願い、お念仏「南無阿弥陀仏」と口にすることです。その願いとお念仏こそが心の蓋を外し、阿弥陀さまの光を映し出す道となります。そして、最後のときには必ず極楽浄土へと迎えてくださいます。

 思いどおりにならないことの多いこの人生だからこそ、阿弥陀さまは「必ず迎える」と誓われました。蓋を外せば、水面に月が映るように、救いの光は今もあなたに届いています。        

2025年8月14日木曜日

8月後半のことば

 8月後半のことば

「生まれる前から忘れん坊」

 人はこの世に生まれる前から、すでに忘却を背負っているのだと仏教は説きます。それを「隔生即忘(かくしょうそくもう)」といいます。前世でどのような過ちを犯し、どんな願いを立てたのかさえ忘れてしまい、そしてまた同じような失敗を繰り返しては悔い、苦しみ、やがて命尽きてはまた生まれ変わる。それが私たちの姿です。

 戦後80年という時を経た今も、人は賢いようでいて、何度も同じところでつまずきます。そして「二度と戦争を繰り返さない」と誓ったはずの思いも、やがて薄れ、欲や争いの心に揺らぐ危険をはらんでいます。しかしそれでもなお、私たちは平和と幸せを願い、生きています。ただ、その願いのかなえ方をいつも見誤ってしまうのです。

 そんな私が今、こうして仏の教えに出会えたことは、大きなご縁です。これまで欲望のままに生き、仏の教えをないがしろにしてきた自分を省みて、今日からは念仏を称えて生きてみたいと思います。

 生まれる前から忘れん坊である私たちだからこそ、忘れてはならないことがあります。それは、阿弥陀仏が、争いを繰り返してきた私たちをも必ず救おうと願ってくださっているということです。この気づきによって、南無阿弥陀仏と念仏を称えるとき、同じ失敗を重ねるばかりの人生でも、ようやく一歩先へ進む力が湧いてくることでしょう。

2025年7月31日木曜日

8月前半のことば

8月前半のことば

「掃苔(そうたい)や 知恩のこころ よみがえる」  高浜虚子

   

 「掃苔」とは、お墓の苔を掃き清めること。お盆や命日などにお墓参りをして、墓石をきれいにしながら手を合わせる。そんな光景を、懐かしく思う方もおられるのではないでしょうか。

 高浜虚子は、この「掃苔」という行為の中に、「知恩」という言葉を響かせました。「知恩」とは、私たちが受けてきた数々のご恩を心に知ることを言います。親の恩、先祖の恩、友や師、社会の恩。ふだんは忘れがちなそれらの恩を、お墓の前で手を合わせるとき、自然と思い出すものです。

 お盆は、まさに「感謝」をあらわす季節でもあります。亡き人々のことを想い、語りかけ、ありがとうと伝える。お墓の苔を掃き清めるのは、ただ石をきれいにするためだけではありません。その行為を通して、自分がどれほど多くの人に支えられて今を生きているかを思い出し、「ご恩に報いる」気持ちをあらたにするのです。

 仏教では、「知恩」や「報恩(ほうおん)」という教えを大切にしています。与えられた恩をただ受け取るだけでなく、それに応えようとするこころ。その第一歩が、手を合わせ、苔を掃きながら亡き人を偲ぶことなのかもしれません。

 街の喧騒の中を歩いていると、つい過去を忘れて今と未来ばかりを追いかけてしまいます。しかし立ち止まって、こうして墓前に向かうとき、人はふと立ち返るのです。「自分は決して一人で生きてきたのではない」と。   

2025年7月14日月曜日

7月後半のことば

7月後半のことば

「阿弥陀さまは私の心の襞までお見通し」

 

 私たちは誰しも、人には隠したい弱さや醜さを抱えて生きています。そして自分でも気づかないような、ささやかな嫉妬や欲、臆病さやずるさもまた、心の奥に潜んでいるものです。そのことにふと気づき、自分が嫌になることもあるかもしれません。しかし一方で、そんな自分さえ忘れてしまうほどの小さな思いやりや、人知れず誰かを案じる気持ちも確かに息づいているのです。私たちはその光と影のはざまで揺れながら、日々を生きています。

 阿弥陀さまは、そのすべてをお見通しです。自分でも気づかぬ光と闇をも見抜いて、それでもなお「必ず救う」と誓われた仏さまです。そこにあるのは決して裁きの目ではなく、どこまでも見放さずに抱きとめようとする、限りない慈悲のまなざしです。そのまなざしは、私たちの弱ささえも否定せず、かえって救いの道へと導いてくださいます。

 人に隠したい心の闇も、気づかぬうちに芽生えた小さな善も、そのままをも見捨てずに救ってくださる阿弥陀さまがいてくださるのです。そして、その救いに応える道は難しい修行や努力ではなく、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることなのです。だからこそ、その身そのままで、南無阿弥陀仏と称えればよいのです。 

2025年6月30日月曜日

7月前半のことば

 7月前半のことば

「煩悩があるままに南無阿弥陀仏」

 

 私たちは皆、怒ったり、欲しがったり、迷ったり、不安になったりしながら生きています。「もっと立派な人間にならなくては」と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。欲を捨てようとしても、怒りがこみあげてくる。思い通りにいかない現実に、また心が乱れる。そのたびに、自分のことが嫌になってしまいます。「こんな自分では、仏さまに見放されるのではないか」と、ふと胸がふさがることもあるでしょう。

 けれども、阿弥陀さまは、そんな私たちをこそ救いたいと願われた仏さまです。「煩悩があるからこそ救わねばならない」と、はるかな昔にお誓いくださり、「ただ南無阿弥陀仏と称えよ、必ず救う」と約束してくださいました。

 ですから、「立派になってから」ではなく、「煩悩のままに」南無阿弥陀仏とお称えするのです。清らかな自分を差し出すのではなく、どうしようもないこの身のままで仏さまにすがるのです。

 阿弥陀さまの慈しみは、善い人にも、悪い人にも、すべてに等しく注がれています。この一声一声ごとのお念仏が、そのまま仏さまのお耳に届き、極楽へと導かれるのです。どうぞ安心して、今このままで、「南無阿弥陀仏」と声に出してみてください。阿弥陀さまは、すでにあなたのすぐそばにおられます。

10月前半のことば

10月前半のことば 「我が心 鏡にうつるものならば          さぞや姿の 醜くかるらん」   社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しか...