2025年11月14日金曜日

11月後半のことば 念仏の念は「思うこと」ではないの?

 11月後半のことば

念仏の「念」は声


 「念」とは、ふつう「思うこと」を意味します。だから「念仏」とは「仏を思うこと」と考えるのが自然でしょう。実際、仏教の修行の中には、瞑想によって仏の姿や浄土の光景を心に思い描く行があります。静かに座り、心を澄ませ、阿弥陀仏の慈悲の相を目の前に映し出す。それも立派な「念仏」です。けれども、この心に仏を思い浮かべる行は、言うほどやさしいものではありません。心はすぐに散ってしまう。雑念が入り込み、仏どころか今日の夕飯の心配にまで及んでしまう。人間とはそういう存在です。

 唐の善導大師は、瞑想の境地に立った上で、「阿弥陀仏の本願にある念仏とは、声に出してその名を称えることだ」と説かれました。つまり、「南無阿弥陀仏」と口に出すことが、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くための道なのです。日本の法然上人はこの教えを受け継ぎ、「念は声である」と明言しました。心は不安定でままならないものです。声に出すことは、容易く確かでまっすぐです。声は空気を震わせ、自分の耳に返ってくる。すると、仏を称える声が、自分を包み、導くように感じられもします。

 極楽浄土への道は、特別な才能や深い瞑想を必要としません。ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよい。思うだけでは届かないところに、声は届く。こんなにありがたいことがあるでしょうか。声は、誰にでも与えられた往生浄土のための行なのです。

2025年10月31日金曜日

11月前半のことば「凡夫にとっての善は所詮自分のためになること」

 

11月前半のことば

凡夫にとっての善は所詮自分のためになること

 人はだれでも、善い人でありたいと思っています。けれども、心の奥をのぞいてみると、「自分だけが得したい」「あいつより上にいたい」といった思いが顔を出します。

 善いことをしても、「人に感謝されたい」「少しでも認められたい」と、どこかで打算が働いているものです。そんな自分に気づくと、少し情けなくなりますが、それが「凡夫(ぼんぶ)」の正直な姿なのでしょう。


 仏教には、「因果の道理」が説かれています。善い因を積む者は楽の果を受け、悪い因を積む者は苦の果を受けます。

 しかし、煩悩に満ちた私たちが、まことの善をなすことは容易ではありません。どうしても、自分を中心にしか物事を見られないのです。


 阿弥陀仏(あみだぶつ)は、そんな私たちを見捨てることができず、「善をなせぬ者をどうすれば救えるか」と、五劫(ごこう)という長い時間、思い悩まれました。

 そして、『南無阿弥陀仏』という名号の中に、ご自身の修めたすべての功徳(くどく)を込めてくださいました。


 私たちは、もはや自分の力に頼らずとも、『南無阿弥陀仏』と称えることで、阿弥陀仏の功徳に結ばれ、「極楽(ごくらく)へ生まれる」という楽の果をいただくことができます。

 阿弥陀仏は、因果の道理を曲げずに、凡夫のための道を開いてくださいました。

 人の弱さを知り抜いた上で、それでもなお救おうとするお慈悲の深さ。そのことを思うと、ただ『南無阿弥陀仏』**と称えたくなりませんか。

2025年10月14日火曜日

10月後半のことば 否定的な思考が苦しみを引き寄せる

 10月後半のことば

「苦しみというのは、牛が引く車のように、否定的な思考に続いてやってくる」ダンマパダ


 お釈迦さまがお伝えくださった仏教の教えは、「苦しみ」から逃れ出るためにあります。誰にも避けられない「老いや病、死」といった大きな苦しみだけでなく、私たちの多くは、もっと日常的な「思い通りにならないことへの心のざわつき」に悩んでいます。

 もちろん、地震や事故のような、避けられない外部の出来事からくる苦しみもあります。これらをすぐに「受け入れろ」と言われても難しいでしょう。しかし、私たちが日々感じているストレスやイライラの多くは、実は自分の心のあり方が作り出しているとしたらどうでしょうか。この小さな苦しみの正体に対処できるようになれば、やがて来るかもしれない大きな苦しみさえも乗り越える力が備わるかもしれません。

 仏教では、「苦しみ」は、「否定的な心」、つまり「思い通りにならないことを、強引に自分の都合の良いようにしようとする自己中心的な心」に必ずついてくると説かれます。これは、牛が引く車のように、「心(牛)」の後を「苦しみ(車)」が必ず追ってくる関係だとたとえられています。

 たとえば、家族やパートナーが自分の期待通りに動いてくれないとき。「なぜわかってくれないんだ」「こうすべきだ」と、相手をコントロールしようと腹を立てる。これが「自己中心的な心(牛)」です。その結果、イライラが募り、関係が悪化し、孤独感や怒り(苦しみ=車)に苛まれます。また、仕事で正当に評価されなかったと感じたとき。「自分だけが損だ」「もっと認められるべきだ」と、現状を受け入れず、自分の欲望を満たそうと焦り、不満を膨らませる。これも「自己中心的な心(牛)」です。その結果、自己嫌悪や嫉妬心に心が焼かれ、満たされない気持ち(苦しみ=車)に苦しむのです。

 仏教の教えは、この「心の牛」に気づくように促します。「今、自分の心はどんな状態か」「どんな感情が湧いているか」と、良い悪いと判断せず、ただ静かに観察する意識を持つこと。これこそが、苦しみの連鎖を断ち切るための最初の一歩です。心のあり方一つで、私たちの世界は大きく変わります。苦しみの車が動き出す前に、自分の心というハンドルを正しく握り直す意識を持つことが、穏やかな日常への道を開いてくれるでしょう。

2025年9月30日火曜日

10月前半のことば

10月前半のことば

「我が心 鏡にうつるものならば 

        さぞや姿の 醜くかるらん」


 社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しかし、どれほど外形を飾っても、心の奥底まで磨き澄ますことはできません。人は皆、煩悩という煤煙を胸に宿し、それはやがて表情や言葉の端々ににじみ出るのです。

 たとえば、同僚の昇進に「おめでとう」と言いつつ、胸中に嫉妬の餓鬼を飼っている自分。会議で相手の失言を逃さず、心中で地獄の鬼のごとく打ち据える自分。混雑した電車で苛立ち、怒りの炎を燃やしながら、隣人を軽蔑する自分。こうした心の断片をもし鏡が映し出すならば、そこに現れるのは凛々しい姿ではなく、地獄道に堕ちた鬼面か、餓鬼道にさまよう影でありましょう。

 「わが心 鏡にうつるものならば さぞや姿の 醜くかるらん」。この道詠は、顔を映す硝子の鏡を、心を照らす仏の智慧の鏡へと変えてしまいます。澄んだ池に月が宿るように、心が静かであれば、その鏡には清らかな光が映ります。しかし、煩悩の波にかき乱されれば、月影はたちまち濁り、ただの闇と化してしまいます。

 人は他者の眼を恐れて外形を繕いますが、仏の眼にはすでに心の奥底が映っています。恥じるべきは外見の乱れよりも、むしろ心の濁りではないでしょうか。仏の慈悲は、濁りを抱えた私たちにも等しく注がれています。だからこそ、日々の一瞬に、自らの心を省みる勇気を持ちたいものです。 

2025年9月14日日曜日

9月後半のことば

 9月後半のことば

「多様性 仏の目には 皆凡夫」

 近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその言葉を唱えさえすれば、すべて解決するかのように思っている風潮には、どこか空虚さを覚えます。人はどれほど違えど、結局は「凡夫」でしかないのです。

 凡夫とは、欲に振り回され、怒りに囚われ、迷いを重ねる私たちの姿をいいます。中国の善導大師は「九品皆凡」つまり「みんな凡夫である」とおっしゃいました。高い地位にある者も、学問に秀でた者も、あるいは日陰を歩む者も、みな同じく煩悩を抱えている。その煩悩を断ち切ることができない以上、互いの違いを誇ってみても大した意味はないのです。

 それでも阿弥陀仏は、そんな凡夫をこそ救うと誓われました。私たちは「違いを認め合おう」と声を上げます。しかし仏の慈悲はさらに徹底していて、「違いごと包み込んで救おう」と差し伸べてくださる。人の議論はしばしば分断を生みますが、仏のまなざしはその手前で私たちを丸ごと掬い取ってくださるのです。そのことに気づいたとき、多様性という言葉の軽さを越えて、人と人の違いは光に照らされる色彩のように見えてきます。その有り難さに、せめて頭を垂れたいものです。

2025年8月31日日曜日

9月前半のことば

 9月前半のことば

「阿弥陀仏に 隔つ心はなけれども 蓋する桶に月は宿らず」


 阿弥陀さまのお慈悲は、だれ一人としてもれなく注がれています。その根本には、「必ずあなたを極楽浄土へ迎え取る」という阿弥陀さまのお誓いがあります。極楽とは、苦しみや不安の尽きないこの世を越えた、安らぎの世界です。

 けれども、月が夜空に輝いていても、蓋をした桶には映らないように、阿弥陀さまの光も、私たちの心が閉じてしまえば届きません。

 「こんな自分は救われるはずがない」と疑う心。「まだ元気だから救いなんて先のこと」と思う心。「自分は立派に生きているから仏に頼る必要はない」と驕る心。こうした思いが、光を受けとめることを妨げる蓋となってしまうのです。

 阿弥陀さまが望んでおられるのは、立派な努力や大きな功績ではありません。ただ「救われたい」と願い、お念仏「南無阿弥陀仏」と口にすることです。その願いとお念仏こそが心の蓋を外し、阿弥陀さまの光を映し出す道となります。そして、最後のときには必ず極楽浄土へと迎えてくださいます。

 思いどおりにならないことの多いこの人生だからこそ、阿弥陀さまは「必ず迎える」と誓われました。蓋を外せば、水面に月が映るように、救いの光は今もあなたに届いています。        

2025年8月14日木曜日

8月後半のことば

 8月後半のことば

「生まれる前から忘れん坊」

 人はこの世に生まれる前から、すでに忘却を背負っているのだと仏教は説きます。それを「隔生即忘(かくしょうそくもう)」といいます。前世でどのような過ちを犯し、どんな願いを立てたのかさえ忘れてしまい、そしてまた同じような失敗を繰り返しては悔い、苦しみ、やがて命尽きてはまた生まれ変わる。それが私たちの姿です。

 戦後80年という時を経た今も、人は賢いようでいて、何度も同じところでつまずきます。そして「二度と戦争を繰り返さない」と誓ったはずの思いも、やがて薄れ、欲や争いの心に揺らぐ危険をはらんでいます。しかしそれでもなお、私たちは平和と幸せを願い、生きています。ただ、その願いのかなえ方をいつも見誤ってしまうのです。

 そんな私が今、こうして仏の教えに出会えたことは、大きなご縁です。これまで欲望のままに生き、仏の教えをないがしろにしてきた自分を省みて、今日からは念仏を称えて生きてみたいと思います。

 生まれる前から忘れん坊である私たちだからこそ、忘れてはならないことがあります。それは、阿弥陀仏が、争いを繰り返してきた私たちをも必ず救おうと願ってくださっているということです。この気づきによって、南無阿弥陀仏と念仏を称えるとき、同じ失敗を重ねるばかりの人生でも、ようやく一歩先へ進む力が湧いてくることでしょう。

11月後半のことば 念仏の念は「思うこと」ではないの?

 11月後半のことば 念仏の「念」は声   「念」とは、ふつう「思うこと」を意味します。だから「念仏」とは「仏を思うこと」と考えるのが自然でしょう。実際、仏教の修行の中には、瞑想によって仏の姿や浄土の光景を心に思い描く行があります。静かに座り、心を澄ませ、阿弥陀仏の慈悲の相を目の...