10月前半のことば
「我が心 鏡にうつるものならば
さぞや姿の 醜くかるらん」
社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しかし、どれほど外形を飾っても、心の奥底まで磨き澄ますことはできません。人は皆、煩悩という煤煙を胸に宿し、それはやがて表情や言葉の端々ににじみ出るのです。
たとえば、同僚の昇進に「おめでとう」と言いつつ、胸中に嫉妬の餓鬼を飼っている自分。会議で相手の失言を逃さず、心中で地獄の鬼のごとく打ち据える自分。混雑した電車で苛立ち、怒りの炎を燃やしながら、隣人を軽蔑する自分。こうした心の断片をもし鏡が映し出すならば、そこに現れるのは凛々しい姿ではなく、地獄道に堕ちた鬼面か、餓鬼道にさまよう影でありましょう。
「わが心 鏡にうつるものならば さぞや姿の 醜くかるらん」。この道詠は、顔を映す硝子の鏡を、心を照らす仏の智慧の鏡へと変えてしまいます。澄んだ池に月が宿るように、心が静かであれば、その鏡には清らかな光が映ります。しかし、煩悩の波にかき乱されれば、月影はたちまち濁り、ただの闇と化してしまいます。
人は他者の眼を恐れて外形を繕いますが、仏の眼にはすでに心の奥底が映っています。恥じるべきは外見の乱れよりも、むしろ心の濁りではないでしょうか。仏の慈悲は、濁りを抱えた私たちにも等しく注がれています。だからこそ、日々の一瞬に、自らの心を省みる勇気を持ちたいものです。