2025年3月29日土曜日

4月前半のことば

 4月前半のことば

「受け難き人身を受けて」

 この言葉は、浄土宗の開祖・法然上人の御法語「一紙小消息」の一節です。私たちがこうして人間として生を受けていることの尊さを改めて感じさせられます。

 人として生まれることは、決して当たり前のことではありません。生物学的に見ても、1億から4億の精子がたった一つの卵子と結びつき、命が生まれるという奇跡を考えれば、こうして存在すること自体が不思議でなりません。

 さらに、自分の両親がどのように出会い、そこから自分が生まれたのかを思い巡らすとき、さらには先祖代々の歴史に思いを馳せると、「たまたま」という言葉では片付けられない不思議さを実感せずにはいられません。

 とはいえ、「それに感謝しなさい」と一概に言われても、受け入れられない人もいるでしょう。生まれた環境や育った環境が過酷である場合、「こんな世に生まれたくなかった」「誰が産んでくれと言った?」と親を恨む人がいるのも無理はありません。不思議だと言われても、それをありがたいと思うかどうかは各人の心のありよう次第です。

 仏教が説く輪廻の教えは、生物学的な遺伝や社会的な関係を超えた深遠なものです。仏典には、輪廻の苦しみの中で相当な善行を積まなければ人間に生まれることは叶わないと説かれています。私たちが人として生を受けていること自体が、過去世での精進の結果だと言えるのです。

 輪廻の中で少しずつ善行を積み、精進の成果として人間として生を得たとき、仏教との縁が結ばれ、お念仏に出会えたのであれば、それはなんと尊いことでしょう。人間として生まれ、本願と出会ったことを悦び、お念仏を唱えて極楽浄土を目指していきたいものです。

2025年3月14日金曜日

3月後半のことば

 3月後半のことば

「先立たば 遅るる人を待ちやせん 

        蓮の台の半ば残して」

  

 小学校低学年の頃、母と一緒に最寄り駅から電車に乗りました。朝のラッシュアワーでホームは大勢の人々でごった返していました。その時、母が「もしはぐれてしまったら、〇〇駅の改札口に行きなさい。お母さんも必ずそこに行くから」と言ってくれました。

 案の定、すし詰めの車内で母とはぐれてしまいましたが、あらかじめ待ち合わせ場所が決まっていたので、全く不安は感じませんでした。そして、母とは無事にその場所で再会することができました。

 阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土へ迎え取る」と誓われています。これを「本願」といい、仏の確かな約束です。

 人生では、生き別れや死に別れといった悲しい出来事が避けられません。しかし、本願を信じて南無阿弥陀仏と称える者同士は、必ず極楽浄土で再会することができるのです。このことを「一蓮托生(いちれんたくしょう)」と呼びます。

 「先立たば 遅るる人を 待ちやせん 蓮(はな)の台(うてな)の 半ば残して」 この歌の詠み人は不明ですが、念仏信者が詠んだものとされています。「どちらが先に極楽浄土へ往生するかはわからないけれど、もし私が先に行くならば、遅れてくるあなたのために半分の席を空けてお待ちしています」という気持ちが込められています。

 悲しい別れが訪れても、念仏を称える者は、小学生の頃の私が母と再会できたように、必ず極楽浄土で再会できるのです。

2025年2月28日金曜日

3月前半のことば

 3月前半のことば

「只申せ 重き誓いのしるしには 人えらびなく 必得往生」

  現在、多くの国で国民の「分断」が問題となっています。人種、宗教、イデオロギー、所得格差、教育格差など、立場や考え方の違いを受け入れることが難しくなっているのです。お互いが自分の正義を絶対だと思い込み、相手を非難し憎んでしまいます。

 浄土宗の高祖善導大師は、私たちは自己中心的な行動によって自分や他人を傷つける凡夫であると説かれました。「私」の家族、家、会社、母校、国と、すべてを「私の」という枠で捉え、その中を自分の思い通りにしようとします。

 しかし、私は自分の体さえ思い通りにできません。ましてや他人を思い通りにすることなどできるはずがありません。

 阿弥陀仏には、凡夫のような自己中心的な枠はありません。阿弥陀仏は、すべての者を救うために極楽浄土を建立してくださいました。そして、「難しいことができなくとも、私の名前を呼ぶことならできるでしょう。我が名を呼ぶ者を必ず極楽浄土へ迎え取る」と誓われました。これを「本願」といいます。

 「名前を呼べ」とおっしゃるので、私たちはただ阿弥陀仏の願いに応えて「南無阿弥陀仏」と称えればよいのです。

 法然上人も「阿弥陀仏の本願は、平等の慈悲によって起こされたものだから、決して人を分け隔てたり嫌うことはありません」とおっしゃっています。

 ただ極楽浄土へ行きたいと願って「南無阿弥陀仏」と称えればよいのです。

2025年2月14日金曜日

2月後半のことば

 2月後半のことば

「順風満帆な人に仏教は不要」 佐々木閑氏


 人生が順調で悩みや苦しみが少ないときには、仏教の教えは必要とされないのかもしれません。しかし、人生は常に順風満帆とは限りません。例えば、長年連れ添った配偶者が病気になったとき、その看病や不安をどう乗り越えるかは容易ではありません。また、退職後に自分のアイデンティティや生きがいを見失い、孤独感に苛まれることもあるでしょう。

 そのような時こそ、仏教の教えが支えとなります。今を謳歌している時に楽しかったことが、辛い出来事によって無意味に感じられたり、思い出したくもなくなることがあります。例えば、子どもたちとの楽しい思い出が、彼らの独立や家庭の問題で色あせて感じられることがあります。成長や進歩といった言葉が遠く感じられる瞬間もあるでしょう。

 仏教は、苦しみの根源を探り、それを乗り越える智慧を与えてくれます。人生の波風が立つ時、私たちは自己を見つめ直し、自分の立ち位置を再考する必要があります。仏教の教えは、そのための指針となります。その時には、順調な時には気づかなかった身近にある喜びや、心の安らぎを見出すことができるのです。毎日の小さな幸せに気付くことができたり、心の平穏を取り戻すことができれば、どれほど有り難いことでしょう。


2025年1月31日金曜日

2月前半のことば

 2月前半のことば

「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」

                 鴨長明


 川の流れが絶え間なく変わるように、私たちも常に変化しています。昨日の私たちと今日の私たちは、一見同じように見えても実は異なっています。身体をつくる要素は絶えず変わり、細胞も日々新陳代謝を繰り返しています。例えば、腸内の細胞や皮膚は数日から数週間で入れ替わるとされています。

 また、日々の出会いや別れ、経験、体験を通じて、心も常に変化しています。気難しかった人が穏やかになったり、優しかった人が傲慢になることもあります。これも自然な変化の一部です。

 人間関係においても変化は常に存在します。かつて仲の良かった人と疎遠になったり、苦手だと思っていた人と親しくなることもあるでしょう。

 腹に据えかねることがあっても、時間が経つとどうでもよくなることもあります。過去の失敗をずっと引きずっていたのに、そのことを誰も覚えておらず、馬鹿らしく感じることもあります。

 老病死といった避けたい変化もあれば、成長や進歩といった歓迎する変化もあります。どちらも川の流れのように絶えず続いていくのです。都合の悪い変化をすべて受け入れるのは難しいことですが、「すべては変化するもの」という意識を持つことは、生きていく上で大切なことなのです。

2025年1月14日火曜日

1月後半のことば

 1月後半のことば

「凡夫ゆえ 信仰にゆらぎはあるもの」


 もう10年になります。尊敬する先輩僧侶が極楽浄土へ往生されました。細菌に体を蝕まれ、わずか43日の闘病後の往生でした。

 愛嬌のある語り口と風貌に似合わず、教えに対する姿勢はとことん厳しい方でした。しかし打算のない人柄は人を引きつけて止みません。お悔やみに駆けつけたお檀家さんが口々に「私の一番の味方でした」とおっしゃり、私もそう思い、多くの仲間や後輩達が感じていました。

 あまりに突然の訃報に多くの人々は混乱しつつも、先輩からいただいた言葉を反芻し、阿弥陀さまと人を繋げることに一生を捧げた姿勢に思いを馳せたのでした。

 発病の2週間前に、先輩がある勉強会の司会をされた音源があります。

 「阿弥陀さまが見守ってくれたはる!と思ってるんですけどね、時々心が揺れるんですよ。こんなことして何になるんやろか?念仏してる時間あったら、もうちょっと嫁さんを大事にしてやった方がええんと違うやろか?と迷う自分がおるんです。でもね、例えば切れかけた蛍光灯は点いたり消えたりするけど、切れてないでしょ?それと同じで信仰も点いたり消えたりしてしまうんですよ。そやけど、そんな弱い私を見捨てへんのが阿弥陀さまなんですよね?!」先輩の闘病中に車を運転しながらこの言葉を聞き、涙が溢れて前が見えなくなってしまいました。

 無常の世とは言いながら、先輩ご自身がそのような最期を望んだはずはありません。もっとしたいことも言いたいこともたくさんあったに違いない。しかし今ご自分自身が生死を彷徨う中、仏さまのことをつい忘れてしまう、ゆらいで止まない弱い信心の者さえも見捨てない阿弥陀さまをどれほど頼もしく拝まれたことでしょう。

 たとえ私の方が忘れても、阿弥陀さまは私を忘れない。まるで親が一人っ子のことを思うように、心配して見つめ続けてくださっています。私たちが嬉しい時も悲しい時も、楽しい時も辛い時も、見守り続けてくださっている。「我が名を呼べよ。南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救うぞ」という誓いを成就され、呼びかけてくださっています。そして念仏を称える者を一人たりとも漏らすことなく極楽浄土へ救い取ってくださるのです。

2025年1月1日水曜日

1月前半のことば

1月前半のことば

「のどかなり 願いなき身の 初詣」


 私たちは日々、多くの願いや悩みを抱えています。仕事での成功を願ったり、家族の健康を祈ったり。その願いを成就させたり、悩みを解消したりするために、初詣で神仏に祈る方も多いことでしょう。

 なぜ私たちが願いや悩みを持つのかと考えると、それは人生が「思い通りにならない」からだと言えます。家族との不和が続いたり、長年の努力が認められずに失意のうちに職を失ったり、深刻な経済的困難に直面することもあるでしょう。また、親しい人を失う悲しみや、人間関係の破綻などもあります。この「思い通りにならない」状態を仏教では「苦」と呼びます。

 仏さまを拝んでいると、思い通りにならないことを思い通りにしようとしている自分に気づくことがあります。その時、私たちは「自分でできる手立てはあるのか」「悩んで解決する問題なのか」「他者を自分の都合のよいように変えようとしていないか」などと自分の願いや悩みを見つめ直すことができるのです。

 「今年は何も願うことがないな」と感じるとき、それはもしかしたらあなたが今、思い通りにならないことを思い通りにしようとしていない、ということなのかもしれませんね。 

4月前半のことば

 4月前半のことば 「受け難き人身を受けて」   この言葉は、浄土宗の開祖・法然上人の御法語「一紙小消息」の一節です。私たちがこうして人間として生を受けていることの尊さを改めて感じさせられます。  人として生まれることは、決して当たり前のことではありません。生物学的に見ても、1億...