2020年6月21日日曜日

仏教入門⑦(集諦)

次は第二段階です。

思い通りにならないことを思い通りにしようとして

苦しむのには原因がある

ということを明らかにしてくださっています。

その原因を「煩悩(ぼんのう)」といいます。

求めても求めてもいつまでも渇いていて、

ちっとも満たされない心

なので「渇愛(かつあい)」ともいいます。

たとえば、「ずっと生きたい」「ずっと健康でいたい」

「ずっと若いままでいたい」と願う心や

必要以上の食欲、性欲、睡眠欲、怠け心、快楽を求める心、

自分の存在を認めて欲しい!という「承認欲求」、

相手を思い通りにしたい!という「征服欲」、

人から尊敬されたい!という「名誉欲」などなど。

いわゆる「欲望」をひっくるめて「煩悩」というのです。

つまり「私たちの苦しみの原因は私たち自身の心にある

ということです。

普通私たちはイヤなことが起こったときに、

「会社のせい」「イヤな上司のせい」「できそこないの部下のせい」

「先生のせい」「親のせい」「配偶者のせい」

「嫌いなあいつのせい」「政治のせい」「天気のせい」

「ウイルスのせい」と責任の所在を他者に求めます。

しかし仏教では

「苦しみの原因は外にはないよ。自分の心にあるのだよ」

と教えてくれています。

もちろん人間関係や政治構造によって

苦しめられていることもあります。

それはそれで改善に動く必要があります。

パワハラ上司の下でずっと「悪いのは私の心」

と自分に言い聞かせても根本的な対処にはなりません。

転職するとか訴える等の処置が必要でしょう。

逃げることも逆らうことも訴えることもできずに

身体や言葉の暴力に耐えている優しい人たちが

搾取されてしまいます。

それを「自分が悪いのだ」と我慢せよ、

ということではありません。

そういったことには対処する必要があります。

しかしそれを感情的に「苦しい」

と認識するのは私の心です。

その原因は、求めても求めてもいつまでも渇いていて、

ちっとも満たされない心

「渇愛(かつあい)」があるというのです。

現実の法則にに反して、そうでないものを求めるのでは、

思い通りになろうはずはありません。

冷静に考えればわかることですが、

感情的に認められないのです。

「なぜ自分ばかりがこんな目にあうのだろう」

といくら考えて悩みのスパイラルに陥ってしまいます。

『なぜ悟りを目指すべきなのか』
アルボムッレ・スマナサーラ


3月後半のことば

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